2022年2月28日月曜日

セオリー道場007ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」旧訳(佐藤勉訳)を読む

読解対象

ニクラス・ルーマン『社会システムの視座──その歴史的背景と現代的展開』佐藤勉訳、木鐸社、1985年。

レッスンのポイント:論文読解練習

 ここのところジンメルとフロイトを読んでいたが、じつはアリストテレス・デイも丸1日あった。ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」の旧訳(佐藤勉訳)を読んでいて、アリストテレスの未解決の問題というのが出てきたから。それは『ニコマコス倫理学』等で追究された「人と人のつながり」の問題系列と『政治学』で追究された国家と政治の問題系列とがつながっていないということ。「なるほど、そういうものか」と思ったが哲学の勉強をしているわけではないのでアリストテレスについてこのさい概要を押さえておきたいと思って、中公「哲学の歴史」シリーズのアリストテレスの項目を読んだ。薄い新書1冊分ぐらいあって、ちょうどよい。『政治学』は「世界の名著」に入っているし『ニコマコス倫理学』は光文社古典新訳文庫に新訳がある。後者は人生論として読む人がいるよね。

 ルーマンのこの本は『社会構造とゼマンティク2』第4章「社会秩序はいかにして可能になるか」として新訳が出ているが、今回は読書会の題材として簡便な古い翻訳を使用した。まだルーマンの翻訳に難のあった時代で、佐藤勉訳ということで出版されてすぐに読んだ懐かしい本である。貧乏な大学院生時代である。たまたま私の学部ゼミの先生がビーレフェルトのルーマンの下に在外研究に出ていたので、ルーマンの存在は身近だった。論文のためにダブル・コンティンジェンシーに関する英語論文は読んだ。しかし、当時は哲学的な素養がまったくなかったので本論文のアリストテレス周辺の記述は理解できてなかったと思う。だったら、この論文全体も理解できてなかったということになるので読み直すしかない。

 ルーマンの言う「2つの秩序問題」というのは、一方で「人と人との間の関係の分析」があり、他方に「独自存在としての社会的現実の分析」があるということで、要するに両者がつながっていない事態を指している。アリストテレスは前者を「倫理学」で、後者を「政治学」で論じたが、両者の接続については論じなかった。つまり二分法を前提とした社会観になっているのである。これはアリストテレスに限った話ではない。今でもミクロ社会学とメゾ社会学+マクロ社会学の間には深い溝があって、ちゃんとトータルに理解している人は限られていると思う。

 しかしルーマンに言わせると、二分法のまま放置していたのでは、社会学の性質上大きな問題があるという。社会学は限定された対象領域によって定立する他の科学と同じではない。社会学は主題定立によって成立する科学である。社会学にとって存在意義に関わる重要な主題定立は、この両者を接続することである。それは常識や自明でなくてもいいし解決済みである必要もない。社会学が自己準拠的に定立すればいいことである。その問いが「社会秩序はいかにして可能か」という問題である。つまり「人と人との間の関係」がどのようなプロセスで組織や国家などの「独自存在としての社会的現実」を産み出すのか、そして逆のプロセスはどうなっているのかという問題である。

「いかにして可能か」という問題定立は、所与の現実のコンティンジェンシーを前提にしている(ルーマン1985: 23)。つまり、そうなる場合もあれば、そうならない場合もあるという前提で問いを立てるのである。

 社会学以前のルネッサンスから近代にかけて、この問題は主として主体アプローチからなされてきた。それは社会が階層化された伝統から機能的に分化した社会へと例外的な進化をし、友愛が影響力をもつ政治から、目的追求の集合体が支配する経済へと社会の主軸が移行したからである。(ルーマン1985: 61-67)

 主体アプローチの基本線を担うのは、意識を主体性とするデカルトであり、主体が現実を統一するとしたカントである。しかし、これでは他者はいつでも現象にしかすぎないということになり、他者が固有の意識をもつことが理論的射程に入ってこない。87これが独我論の限界であって「相互主観性は錨を下ろすことができないし、社会化は『疎外』に帰着するほかない」ことになる。(ルーマン1985: 95)

 ウェーバーもこうした主体アプローチを前提として社会学を構想した。そのため個人と集合体とは強い緊張関係にある。それに対してデュルケームにおいて個人と集合体は最初から調和的であって、社会概念は始原的な義務意識が生まれる場所として神秘化されてしまう。主体概念の場所がないのである。

 かれらに対してジンメルは、個人が主体として社会を成立させていると同時に社会が個人の主体性を基礎として社会自身を綜合しているとした。ジンメルの場合「万人に対する万人の綜合」(ルーマン1985: 112)によって社会が可能になっているとルーマンは述べている。眼目は外部の観察者を必要としない点である。

 ルーマンが引き合いに出しているのは、ジンメル『社会学』第1章の付説「社会はいかにして可能か」である。ルーマンは、ここで述べられていた3つのアプリオリのうち最初の2つを説明している。先に指摘しておくと、第1のアプリオリは「人と人との間の関係の分析」(友愛関係)の系譜に属し、第2のアプリオリは「独自存在としての社会的現実の分析」(コイノニア)の系譜に属すことになる。ここは訳語の問題があるので一部翻訳を変えてまとめることにする。

 第1のアプリオリ。人は対人関係において自己と他者をそれぞれ類型化して、基本的にはその役割類型に即して自己を呈示し他者を認識するのであるが、同時にその抽象化された役割からのずれに自分と相手の個性を認識する。これをルーマンは次のように翻訳する。

そうしてみると、ジンメルの表現にとらわれずにいえば、次のようにいえるだろう。すなわち、社会的コミュニケーションにとって不可欠の縮減がおこなわれているのであり、それによってその人が自分自身を一瞥して同一性を保持しうるものとして捉えうるあの図式が考え出されることになる。それゆえに、社会的な複合性と個人の複合性とが、それぞれ他方の複合性を拠り所としてそれぞれの複合性の縮減をおこないうることに基づいて、個人としての統合が作り出されている。(ルーマン1985: 114)

  第2のアプリオリ。ルーマンが引用しているジンメルの言葉。

「もうひとつの範疇のもとでそれぞれの主体は、自分自身を認め、また互いに相手を認め合っており、そうすることによって諸主体に形式があたえられて、経験的な社会を作り出すことができるのだが、そのような範疇は、次のような平凡ともみえる命題で定式化される。すなわち、同じ集団のそれぞれの要素は、たんに社会の構成部分にとどまらないで、さらにそのほかの何物かである。」(ルーマン1985: 115)

 これについてルーマンは次のように結論する。

 ジンメルからすれば、それぞれの人が、一部はまったくその人によって、一部は社会によって構成されているということ、ならびにそれぞれの人は、まさにこのことが他者にもあてはまるのを知っているということが、社会が成り立つための前提条件にほかならず、より的確な術語でいえば、社会の形式が成り立つための先要条件なのである。換言すれば、社会の形式というものは、十全に社会化されることはありえず、そのことを互いに知っている、諸主体の間の関係のことなのである。(ルーマン1985: 117)

 ジンメルはアリストテレス以来の2つの問題を1つの統一的なゼマンティークで考えるところまで行った。それは超越理論に立脚していたからである。超越理論というのはカントの批判哲学のこと。ジンメルはカントの立ち位置から一歩踏み込んだ形になる。次の章ではジンメルの解決を「縮減/変位のテーゼ」(ルーマン1985: 122)と呼んでいる。しかしジンメルの場合、心理学への傾斜が行き先を止めている。これがルーマンのジンメル評価である。

 最後の大家はパーソンズである。かれは『社会的行為の構造』で行為をシステムと捉え「いかにして行為は可能か」を問うた(ルーマン1985: 122)。より正確には「行為の分析的構成要素の間の関係はいかにして可能か」という問題である。その上で「いかにして社会的行為は可能か」という問題を立てると、「行為の客体がオルター・エゴであるばあいに、いかにして行為はその諸構成要素を関係づけられるか」122が問題になる。そうなると「社会的な反照が錯綜してくる」(ルーマン1985: 122)

 オルター・エゴというのは他者、目の前にいる他者のこと。他者に働きかけることを「社会的行為」という。ただしパーソンズの場合、単位は「行為」(単位行為)である。個人ではない。「行為」そのものがすでにシステムであるという認識になる。

 パーソンズの解決は、いわゆる「ダブル・コンティンジェンシー」の公理として示されている。ルーマンが引用するパーソンズの説明は次の通り。

「相互行為を分析するさいの決定的に重要な準拠点は、(1)それぞれの行為者が、行為する主体であると同時に、行為者自身と他者の双方にとって指向される客体であるということ、および(2)それぞれの行為者は、行為する主体としては自分自身と他者にたいして指向しており、指向される客体としては、その主な様相ないし側面のすべてにわたって、行為者自身と他者にたいして意味を有しているという二点である。そうしてみると、行為者は、認識する主体であるとともに認識される客体であり、道具的手段を用いる者であるとともに、かれ自身手段そのものであり、他者にたいして情動的に愛着するとともに、他者から愛着される客体であり、自ら評価を下す者であるとともに評価される客体であり、シンボルの解釈者であるとともにかれ自身シンボルなのである。」(ルーマン1985: 123)

 これは1968年のシルズ編『国際社会科学事典』の「相互作用」の項目からの引用である。翻訳では1951年の『社会システム』の冒頭部分に「ダブル・コンティンジェンシー」の話が読める。ルーマンは、行為の4つの構成要素である行為者・客体・指向・様相のうち1人の行為者のダブル・コンティンジェンシーしか取り上げていないと批判する。(ルーマン1985: 124)

 しかし、ダブル・コンティンジェンシーの概念は「ホッブス的秩序問題」に解法を与える。これは「諸個人が自らの利害関心に基づいて合理的に行為するばあい、いかにして諸個人は何らかの社会秩序の中で生活しうるか」(ルーマン1985: 125)という問題である。

 というのも、価値基盤がその前提として共通に受け入れられたばあいにのみ、行為者たちは、相互依存の不確定な状況でも行為をすることができるからである。このような価値のはたらきが、行為の先要条件であり、したがってまたその合理性の先要条件なのである。(ルーマン1985: 126-127)

 これがパーソンズの解決であった。ルーマンはそれが不十分であるとしているが、一般理論としては高く評価する。社会学者たちは大学の制度化で増大する夥しい業務に追われて、正しく評価できていないと叱っている。「グランド・セオリー」と呼んで特殊領域に押し込めて済む話ではないというのである。(ルーマン1985: 134)

 問題は超越論的な問題設定にある。ライプニッツから始まってカントによって定式化された超越論的な主体の前提である。これは不可避なのかというのである。(ルーマン1985: 135-136)

 ルーマンは、おそらく不可避ではないというのであろう。それは普遍主義を徹底することでできると考えるようである。普遍主義が普遍的に適用されうる概念や規準を生み出し「いかにしてXは可能か」という問題定立を生み出すゼマンティークを発展させるのである。

 そもそも普遍主義は、12世紀の修道院神学と営利指向の経済から始まる。修道院神学は宗教のあり方の基準を設定することで政治や社会に系列化されることを防止し、営利経済は生産や信用制度についての基準を設定することによって同じく政治や社会に系列化されるのを防止した。これはつまり「第二段階のシステム分化」だという(ルーマン1985: 138)。つまり社会システムから宗教システムと経済システムが分化したのちに各システムが自立していったということのようだ。ルーマンによると、このような機能分化の進展によって「普遍主義にそくした社会構造の洞察」(ルーマン1985: 138)が進行したという。

 そして現代。第三段階のシステム分化が進行中である。個々の学問の内部で科学の原理・原則が問われつつある。これは各専門システムのアイデンティティを問い直す動きである。(ルーマン1985: 142)

 最後の章である「パーソンズを超えて」では、諸システムの相互浸透の理論での打開が提案される。(ルーマン1985: 149)

 相互浸透の概念は、(システム分化のばあいとはちがって)諸システムが交互に環境でありながら、相手に浸透していくシステムの特有の複合性とその可変性とが、他方のシステムの構成素として活用されている、そういった複数のシステムの間の関係をいい表わしている。(ルーマン1985: 149)

 パースン・システムと社会システムの相互浸透領域で共有されているのは「行為」ということになる。あるパースンは個々の行為によって社会システムに相互浸透している。逆に、社会システムを構成する行為集合は複数のパースンが自由に行為することによって成立している。このような場合に「体験処理の形式」として媒介的に作動しているのが「意味」である。「意味」がシステム間を接続するのであるが、厳密に可能性を限定するわけではなく、可能性を開くのである。

 それぞれのシステムには意味によってしかるべき作用空間が開かれており、かかる空間は、それ以外の諸システムからみれば、同一でありながら別種のものであるということによって特徴づけられる。このように、作用空間が「同一でありながら別種のものである」ということは、剰余と選択の基本構造がその意味の中でその瞬間における統一体として提示されているというととに基づいてのみ可能なのである。(ルーマン1985: 156)

 このように意味を基軸として考えると、それ以外のすべてのシステムがその部分システムであるといった包括的なシステムを仮定する必要がなくなる。(ルーマン1985: 158)

 つまりスーパー・システムはいらない、すべて意味概念が調整するということである。全体を包括する1つのシステムは必要ないのだ。そのかわりに意味問題の分析が急がれることになる。相互浸透における意味による指示は事象的次元・社会的次元・時間的次元に区分して分析されるべきである。それゆえ「ゼマンティーク」(意味の理論)になるというわけである。 

 以上、旧訳によって「社会秩序はいかにして可能か」論文をたどってきた。新訳によれば、また少し印象がちがうのかも知れないが、今回は大昔の勉強の読み直しというきっかけがあったので、それはまたの機会に譲る。それはそんなに遠くない時期になるはずである。

 ルーマンにしては珍しい学説史的構成の論文だが、結果としてわかるのは、むしろ学史的断絶である。ジンメルを評価した論文として指定されることがあるのは知っているが「主体アプローチとは縁を切りなさい」と言っているのだから、そこは慎重に判断すべきだと思う。しかし「いかにして可能か」という主題定立そのものには社会の機能分化の帰結であるということだから、それは継承したいと思う。


2 件のコメント:

  1. 勢いで、クリスティアン・ボルフ『ニクラス・ルーマン入門──社会システム理論とは何か』庄司信訳、新泉社、2014年を読んだ。たんなる入門ではなく「批判的入門」という感じだったが、広大なルーマンの理論世界を隅々まで照明を当てて説明してくれていた。ボルフがまだ30代のときに書いた本だというので、とても明晰な説明であった。前半の「近代社会の機能分化」までは、だいたい理解していたつもりだが、後半の「包摂/排除」や福祉社会に対する批判などは知らなかった。思想地図がずいぶん広がった。地図がないと途方に暮れるから、こういう本はありがたい。原典読まずに解説ばかり読んでいるというパターンにならないようにしているが、たいていの解説はすぐに読めるからね。

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  2. ついでに一言。これまでに読んだルーマンの全体像を描いた研究書の中で筆頭に挙げられるのが、長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』勁草書房、2006年。600ページ以上ある本だが、ルーマンの全体像がかなり丁寧に書かれている。学び始めをしたここ10年の私のルーマンの知識はほとんどこの本に準拠している。かつて学部ゼミの先生がルーマンの下に在外研究するとき、長岡さんが師匠の古希かなんかの記念論集にかなり長いルーマン論を書かれていて、それだけの長さのものを書いていたのは当時ほとんど長岡さんだけだったので頼りにしたものだった。ルーマンに関しては著作が多いので、ボルフや長岡さんのような本を頼りにルーマンの著作を読むようにした方がいい。

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