2020年3月4日水曜日

社会学感覚17−増補 宗教社会学の概説書

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
宗教文化論

宗教社会学の概説書

 井上順孝編『現代日本の宗教社会学』(世界思想社一九九四年)は、「宗教と社会」学会の主要メンバーによる宗教社会学のスタンダード・テキスト。現代日本の宗教状況に照準を合わせて、理論と現実とがバランスよく編集されている。「宗教社会学は何を研究するか」「宗教社会学の源流」「宗教社会学理論の展開」「現代日本の宗教」「社会変動と宗教」「新宗教の展開」「社会調査を通してみた宗教」の六章に厳選された「文献解題」がある。
 K・ドベラーレ『宗教のダイナミックス――世俗化の宗教社会学』ヤン・スィンゲドー、石井研士訳(ヨルダン社一九九二年)は、宗教社会学の重要な争点である世俗化論の集大成的な概説書。世俗化をめぐるさまざまな議論のアウトラインと位置関係がよく整理されている。ここでは世俗化論が「非聖化」「宗教変動」「個人の宗教への関与」の三点に整理されている。付論では社会学基礎理論とのかかわりについても論じられている。圧巻は巻末の「文献目録」で、宗教社会学や世俗化論についての二四八件の文献についての解題がある。この分野の勉強を系統的にしたい人は必見。

日本人の宗教意識

 本編で述べたように、宗教社会学の研究対象は教団だけではない。「自分は無宗教だ」と思っている人の宗教性も重要なテーマである。この点については、阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書一九九六年)が一石を投じている。社会学系では、大村英昭『現代社会と宗教――宗教意識の変容』叢書現代の宗教1(岩波書店一九九六年)が、「特定宗教」と「拡散宗教」という対概念を軸に、「社会そのものが宗教現象である」点を説明する。基本的データは、石井研士『データブック 現代日本人の宗教――戦後50年の宗教意識と宗教行動』(新曜社一九九七年)が便利である。

オウム事件の衝撃

 新宗教に関する本でどれか一冊と言われたら、井上順孝『新宗教の解読』(ちくま文庫一九九六年)。一九九二年刊のちくまライブラリー版にオウム真理教についての一章を加えたものである。新宗教の歴史や特徴や宗教報道の問題などがていねいにまとめられている。とくに近年の「宗教ブーム」はじつは「宗教情報ブーム」であるとの指摘は重要である。
 島薗進『新新宗教と宗教ブーム』(岩波ブックレット一九九二年)は、霊術系宗教の社会的背景についてコンパクトにまとめたパンフレット。島薗進『オウム真理教の軌跡』(岩波ブックレット一九九五年)は、オウムの変質の過程をまとめた本で、前作のいわば続編。
 井上順孝・武田道生・北畠清泰編著『オウム真理教とは何か――現代社会に問いかけるもの』(ASAHI NEWS SHOP一九九五年)。いっせいにでた一連のオウム関係本のなかで、これがもっとも宗教社会学的である。他方、吉見俊哉『リアリティ・トランジット――情報消費社会の現在』(紀伊国屋書店一九九六年)は、情報消費社会のありようがオウムを育てたという視点からの社会学的分析で、社会学からの代表的なアプローチを示したものといえる。
 オウム系出版物の言説を読み込み、克明に分析した研究としては、大澤真幸『虚構の時代の果て――オウムと世界最終戦争』(ちくま新書一九九六年)を忘れてはならない。ただし、よく調べて書かれているだけに、かなり難解である。
 宗教学においては、島田裕巳『信じやすい心』(PHP研究所一九九五年)が、オウム事件に対応した改訂版になった。基本的には若者たちの「信じやすい心」を論じた本で、自己啓発セミナーの話がおもにとりあげられている。著者は「オウムのシンパ」として批判され大学をも追われたが、島田裕巳『宗教の時代とは何だったのか』(講談社一九九七年)は、まさに当事者になってしまったオウム事件についての総括で、共同体の力学と原理主義的傾斜ということが主軸になっている。一種のモラル・パニック論としても読める。
 また、この事件をめぐって「カルト」ということばが「マインド・コントロール」とワンセットで使用されたものだったが、一連の報道における解説には疑問が多い。「カルト」の由来については、井門富士夫『カルトの諸相――キリスト教の場合』叢書現代の宗教15(岩波書店一九九七年)などを参照してほしい。なお、一世を風靡した「マインド・コントロール」という概念を拡大解釈して宗教現象を説明する仕方は、社会学的にはほとんど誤りであるというべきだろう。乱用は慎みたい[吉見俊哉『リアリティ・トランジット――情報消費社会の現在』一五九ページ以下参照]。

宗教報道

 井上順孝『新宗教の解読』を読むと、宗教報道そのものが「社会の反応」として新宗教をある地点に追い込んでいく重要な要素になっていることがわかる。極端ないい方をすると、新宗教と宗教報道は一対のものなのである。その点で宗教報道の研究は重要だが、あまり集積がないというのが現状である。ただし本編でも示唆したように(三七五―三七六ページ)「イエスの方舟」事件をめぐる報道は、宗教報道の本質をかなり露骨な形で示しているので、何人もの批評家たちがとりあげたものだった。最近刊行された本のなかでは、赤坂憲雄『排除の現象学』(ちくま学芸文庫一九九五年)に「イエスの方舟」論の章がある。また、玉木明『ニュース報道の言語論』(洋泉社一九九六年)にジャーナリズムの無署名性の観点からの分析がある。
 宗教報道のもつ政治的作為性については、奥武則『スキャンダルの明治――国民を創るためのレッスン』(ちくま新書一九九七年)が、いわゆる淫祠邪教観を国民に定着させた「万朝報」(よろずちょうほう)の蓮門教(れんもんきょう)批判キャンペーンについて説明している。ジャーナリズム論では何かと持ち上げられる「万朝報」だが、国民国家形成期「明治」の「制度としてのスキャンダル」の担い手という側面をかいま見せてくれる。昨今の宗教報道も何かの国家的「レッスン」ではないかとの疑念を生じさせる研究である。

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