2022年2月28日月曜日

セオリー道場007ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」旧訳(佐藤勉訳)を読む

読解対象

ニクラス・ルーマン『社会システムの視座──その歴史的背景と現代的展開』佐藤勉訳、木鐸社、1985年。

レッスンのポイント:論文読解練習

 ここのところジンメルとフロイトを読んでいたが、じつはアリストテレス・デイも丸1日あった。ルーマンの「社会秩序はいかにして可能か」の旧訳(佐藤勉訳)を読んでいて、アリストテレスの未解決の問題というのが出てきたから。それは『ニコマコス倫理学』等で追究された「人と人のつながり」の問題系列と『政治学』で追究された国家と政治の問題系列とがつながっていないということ。「なるほど、そういうものか」と思ったが哲学の勉強をしているわけではないのでアリストテレスについてこのさい概要を押さえておきたいと思って、中公「哲学の歴史」シリーズのアリストテレスの項目を読んだ。薄い新書1冊分ぐらいあって、ちょうどよい。『政治学』は「世界の名著」に入っているし『ニコマコス倫理学』は光文社古典新訳文庫に新訳がある。後者は人生論として読む人がいるよね。

 ルーマンのこの本は『社会構造とゼマンティク2』第4章「社会秩序はいかにして可能になるか」として新訳が出ているが、今回は読書会の題材として簡便な古い翻訳を使用した。まだルーマンの翻訳に難のあった時代で、佐藤勉訳ということで出版されてすぐに読んだ懐かしい本である。貧乏な大学院生時代である。たまたま私の学部ゼミの先生がビーレフェルトのルーマンの下に在外研究に出ていたので、ルーマンの存在は身近だった。論文のためにダブル・コンティンジェンシーに関する英語論文は読んだ。しかし、当時は哲学的な素養がまったくなかったので本論文のアリストテレス周辺の記述は理解できてなかったと思う。だったら、この論文全体も理解できてなかったということになるので読み直すしかない。

 ルーマンの言う「2つの秩序問題」というのは、一方で「人と人との間の関係の分析」があり、他方に「独自存在としての社会的現実の分析」があるということで、要するに両者がつながっていない事態を指している。アリストテレスは前者を「倫理学」で、後者を「政治学」で論じたが、両者の接続については論じなかった。つまり二分法を前提とした社会観になっているのである。これはアリストテレスに限った話ではない。今でもミクロ社会学とメゾ社会学+マクロ社会学の間には深い溝があって、ちゃんとトータルに理解している人は限られていると思う。

 しかしルーマンに言わせると、二分法のまま放置していたのでは、社会学の性質上大きな問題があるという。社会学は限定された対象領域によって定立する他の科学と同じではない。社会学は主題定立によって成立する科学である。社会学にとって存在意義に関わる重要な主題定立は、この両者を接続することである。それは常識や自明でなくてもいいし解決済みである必要もない。社会学が自己準拠的に定立すればいいことである。その問いが「社会秩序はいかにして可能か」という問題である。つまり「人と人との間の関係」がどのようなプロセスで組織や国家などの「独自存在としての社会的現実」を産み出すのか、そして逆のプロセスはどうなっているのかという問題である。

「いかにして可能か」という問題定立は、所与の現実のコンティンジェンシーを前提にしている(ルーマン1985: 23)。つまり、そうなる場合もあれば、そうならない場合もあるという前提で問いを立てるのである。

 社会学以前のルネッサンスから近代にかけて、この問題は主として主体アプローチからなされてきた。それは社会が階層化された伝統から機能的に分化した社会へと例外的な進化をし、友愛が影響力をもつ政治から、目的追求の集合体が支配する経済へと社会の主軸が移行したからである。(ルーマン1985: 61-67)

 主体アプローチの基本線を担うのは、意識を主体性とするデカルトであり、主体が現実を統一するとしたカントである。しかし、これでは他者はいつでも現象にしかすぎないということになり、他者が固有の意識をもつことが理論的射程に入ってこない。87これが独我論の限界であって「相互主観性は錨を下ろすことができないし、社会化は『疎外』に帰着するほかない」ことになる。(ルーマン1985: 95)

 ウェーバーもこうした主体アプローチを前提として社会学を構想した。そのため個人と集合体とは強い緊張関係にある。それに対してデュルケームにおいて個人と集合体は最初から調和的であって、社会概念は始原的な義務意識が生まれる場所として神秘化されてしまう。主体概念の場所がないのである。

 かれらに対してジンメルは、個人が主体として社会を成立させていると同時に社会が個人の主体性を基礎として社会自身を綜合しているとした。ジンメルの場合「万人に対する万人の綜合」(ルーマン1985: 112)によって社会が可能になっているとルーマンは述べている。眼目は外部の観察者を必要としない点である。

 ルーマンが引き合いに出しているのは、ジンメル『社会学』第1章の付説「社会はいかにして可能か」である。ルーマンは、ここで述べられていた3つのアプリオリのうち最初の2つを説明している。先に指摘しておくと、第1のアプリオリは「人と人との間の関係の分析」(友愛関係)の系譜に属し、第2のアプリオリは「独自存在としての社会的現実の分析」(コイノニア)の系譜に属すことになる。ここは訳語の問題があるので一部翻訳を変えてまとめることにする。

 第1のアプリオリ。人は対人関係において自己と他者をそれぞれ類型化して、基本的にはその役割類型に即して自己を呈示し他者を認識するのであるが、同時にその抽象化された役割からのずれに自分と相手の個性を認識する。これをルーマンは次のように翻訳する。

そうしてみると、ジンメルの表現にとらわれずにいえば、次のようにいえるだろう。すなわち、社会的コミュニケーションにとって不可欠の縮減がおこなわれているのであり、それによってその人が自分自身を一瞥して同一性を保持しうるものとして捉えうるあの図式が考え出されることになる。それゆえに、社会的な複合性と個人の複合性とが、それぞれ他方の複合性を拠り所としてそれぞれの複合性の縮減をおこないうることに基づいて、個人としての統合が作り出されている。(ルーマン1985: 114)

  第2のアプリオリ。ルーマンが引用しているジンメルの言葉。

「もうひとつの範疇のもとでそれぞれの主体は、自分自身を認め、また互いに相手を認め合っており、そうすることによって諸主体に形式があたえられて、経験的な社会を作り出すことができるのだが、そのような範疇は、次のような平凡ともみえる命題で定式化される。すなわち、同じ集団のそれぞれの要素は、たんに社会の構成部分にとどまらないで、さらにそのほかの何物かである。」(ルーマン1985: 115)

 これについてルーマンは次のように結論する。

 ジンメルからすれば、それぞれの人が、一部はまったくその人によって、一部は社会によって構成されているということ、ならびにそれぞれの人は、まさにこのことが他者にもあてはまるのを知っているということが、社会が成り立つための前提条件にほかならず、より的確な術語でいえば、社会の形式が成り立つための先要条件なのである。換言すれば、社会の形式というものは、十全に社会化されることはありえず、そのことを互いに知っている、諸主体の間の関係のことなのである。(ルーマン1985: 117)

 ジンメルはアリストテレス以来の2つの問題を1つの統一的なゼマンティークで考えるところまで行った。それは超越理論に立脚していたからである。超越理論というのはカントの批判哲学のこと。ジンメルはカントの立ち位置から一歩踏み込んだ形になる。次の章ではジンメルの解決を「縮減/変位のテーゼ」(ルーマン1985: 122)と呼んでいる。しかしジンメルの場合、心理学への傾斜が行き先を止めている。これがルーマンのジンメル評価である。

 最後の大家はパーソンズである。かれは『社会的行為の構造』で行為をシステムと捉え「いかにして行為は可能か」を問うた(ルーマン1985: 122)。より正確には「行為の分析的構成要素の間の関係はいかにして可能か」という問題である。その上で「いかにして社会的行為は可能か」という問題を立てると、「行為の客体がオルター・エゴであるばあいに、いかにして行為はその諸構成要素を関係づけられるか」122が問題になる。そうなると「社会的な反照が錯綜してくる」(ルーマン1985: 122)

 オルター・エゴというのは他者、目の前にいる他者のこと。他者に働きかけることを「社会的行為」という。ただしパーソンズの場合、単位は「行為」(単位行為)である。個人ではない。「行為」そのものがすでにシステムであるという認識になる。

 パーソンズの解決は、いわゆる「ダブル・コンティンジェンシー」の公理として示されている。ルーマンが引用するパーソンズの説明は次の通り。

「相互行為を分析するさいの決定的に重要な準拠点は、(1)それぞれの行為者が、行為する主体であると同時に、行為者自身と他者の双方にとって指向される客体であるということ、および(2)それぞれの行為者は、行為する主体としては自分自身と他者にたいして指向しており、指向される客体としては、その主な様相ないし側面のすべてにわたって、行為者自身と他者にたいして意味を有しているという二点である。そうしてみると、行為者は、認識する主体であるとともに認識される客体であり、道具的手段を用いる者であるとともに、かれ自身手段そのものであり、他者にたいして情動的に愛着するとともに、他者から愛着される客体であり、自ら評価を下す者であるとともに評価される客体であり、シンボルの解釈者であるとともにかれ自身シンボルなのである。」(ルーマン1985: 123)

 これは1968年のシルズ編『国際社会科学事典』の「相互作用」の項目からの引用である。翻訳では1951年の『社会システム』の冒頭部分に「ダブル・コンティンジェンシー」の話が読める。ルーマンは、行為の4つの構成要素である行為者・客体・指向・様相のうち1人の行為者のダブル・コンティンジェンシーしか取り上げていないと批判する。(ルーマン1985: 124)

 しかし、ダブル・コンティンジェンシーの概念は「ホッブス的秩序問題」に解法を与える。これは「諸個人が自らの利害関心に基づいて合理的に行為するばあい、いかにして諸個人は何らかの社会秩序の中で生活しうるか」(ルーマン1985: 125)という問題である。

 というのも、価値基盤がその前提として共通に受け入れられたばあいにのみ、行為者たちは、相互依存の不確定な状況でも行為をすることができるからである。このような価値のはたらきが、行為の先要条件であり、したがってまたその合理性の先要条件なのである。(ルーマン1985: 126-127)

 これがパーソンズの解決であった。ルーマンはそれが不十分であるとしているが、一般理論としては高く評価する。社会学者たちは大学の制度化で増大する夥しい業務に追われて、正しく評価できていないと叱っている。「グランド・セオリー」と呼んで特殊領域に押し込めて済む話ではないというのである。(ルーマン1985: 134)

 問題は超越論的な問題設定にある。ライプニッツから始まってカントによって定式化された超越論的な主体の前提である。これは不可避なのかというのである。(ルーマン1985: 135-136)

 ルーマンは、おそらく不可避ではないというのであろう。それは普遍主義を徹底することでできると考えるようである。普遍主義が普遍的に適用されうる概念や規準を生み出し「いかにしてXは可能か」という問題定立を生み出すゼマンティークを発展させるのである。

 そもそも普遍主義は、12世紀の修道院神学と営利指向の経済から始まる。修道院神学は宗教のあり方の基準を設定することで政治や社会に系列化されることを防止し、営利経済は生産や信用制度についての基準を設定することによって同じく政治や社会に系列化されるのを防止した。これはつまり「第二段階のシステム分化」だという(ルーマン1985: 138)。つまり社会システムから宗教システムと経済システムが分化したのちに各システムが自立していったということのようだ。ルーマンによると、このような機能分化の進展によって「普遍主義にそくした社会構造の洞察」(ルーマン1985: 138)が進行したという。

 そして現代。第三段階のシステム分化が進行中である。個々の学問の内部で科学の原理・原則が問われつつある。これは各専門システムのアイデンティティを問い直す動きである。(ルーマン1985: 142)

 最後の章である「パーソンズを超えて」では、諸システムの相互浸透の理論での打開が提案される。(ルーマン1985: 149)

 相互浸透の概念は、(システム分化のばあいとはちがって)諸システムが交互に環境でありながら、相手に浸透していくシステムの特有の複合性とその可変性とが、他方のシステムの構成素として活用されている、そういった複数のシステムの間の関係をいい表わしている。(ルーマン1985: 149)

 パースン・システムと社会システムの相互浸透領域で共有されているのは「行為」ということになる。あるパースンは個々の行為によって社会システムに相互浸透している。逆に、社会システムを構成する行為集合は複数のパースンが自由に行為することによって成立している。このような場合に「体験処理の形式」として媒介的に作動しているのが「意味」である。「意味」がシステム間を接続するのであるが、厳密に可能性を限定するわけではなく、可能性を開くのである。

 それぞれのシステムには意味によってしかるべき作用空間が開かれており、かかる空間は、それ以外の諸システムからみれば、同一でありながら別種のものであるということによって特徴づけられる。このように、作用空間が「同一でありながら別種のものである」ということは、剰余と選択の基本構造がその意味の中でその瞬間における統一体として提示されているというととに基づいてのみ可能なのである。(ルーマン1985: 156)

 このように意味を基軸として考えると、それ以外のすべてのシステムがその部分システムであるといった包括的なシステムを仮定する必要がなくなる。(ルーマン1985: 158)

 つまりスーパー・システムはいらない、すべて意味概念が調整するということである。全体を包括する1つのシステムは必要ないのだ。そのかわりに意味問題の分析が急がれることになる。相互浸透における意味による指示は事象的次元・社会的次元・時間的次元に区分して分析されるべきである。それゆえ「ゼマンティーク」(意味の理論)になるというわけである。 

 以上、旧訳によって「社会秩序はいかにして可能か」論文をたどってきた。新訳によれば、また少し印象がちがうのかも知れないが、今回は大昔の勉強の読み直しというきっかけがあったので、それはまたの機会に譲る。それはそんなに遠くない時期になるはずである。

 ルーマンにしては珍しい学説史的構成の論文だが、結果としてわかるのは、むしろ学史的断絶である。ジンメルを評価した論文として指定されることがあるのは知っているが「主体アプローチとは縁を切りなさい」と言っているのだから、そこは慎重に判断すべきだと思う。しかし「いかにして可能か」という主題定立そのものには社会の機能分化の帰結であるということだから、それは継承したいと思う。


2022年2月23日水曜日

セオリー道場006言説をめぐる統治へ──フーコー『言説の領界』(前半)を読む

読解対象

ミシェル・フーコー『言説の領界 コレージュ・ド・フランス開講講義一九七〇年十二月二日』愼改康之訳、河出文庫、2014年。

レッスンのポイント:長文引用練習

 かつて中村雄二郎訳で出ていた『言語表現の秩序』の新訳である。中村訳の時代には、まだ「言説」という言葉が定着していなかったと思う。内容は副題にあるとおり、教授就任記念講義である。フーコーの思考プロセスにおいては、ちょうど折り返し地点にあたる内容であり、ビフォーとアフターを見渡せる好位置にあると思うので、フーコーの思想を学ぶ上でのとっかかりとしたい。今回は前半を読む。

 開講講義は一つの不安から始まる。

 口に出されたり書かれたりするものとしての物質的現実における言説とはいったい何かということにかかわる不安。我々には属さぬ持続に従っていずれ消え去るべく定められたその一時的存在にかかわる不安。日常的で灰色のその活動の下に、想像し難い力と危険を感じる不安。かくも長いあいだ使用されたことでその荒々しさが減少したかくも多くの語を通して、闘い、勝利、傷、支配、隷属が見いだされはしまいかと推し測る不安。(フーコー2014:10-11)

 何かを語ろうとするときに感じる不安の正体は何か。一方では、いっそ語ることをスルーして対象そのものに接近したいという「欲望」があり、他方には「制度」によって管理されているので心配するなという声がある。いずれも「不安」の表れであるという。ある種の危険に対する不安である。このうち「制度」については次のように述べている。

 言説は法の領界のうちにあるということ。言説の出現はずっと前から監視下に置かれているということ。言説に対し、言説を称えながらもそれを武装解除するような一つの場所がしつらえられているということ。そして、言説が何らかの力を持つことがあるとすれば、その力は制度たる我々に、我々のみに由来するということ。(フーコー2014:10)

 言説にはあらかじめ言説制度が管理していて、その法的ルールに従ってさえいれば、そんなに不安に思わなくてもいいんだよということ。直接的には、教授就任講義という公式の場で自説を開陳する自分の不安と、制度的な支えとが、これから講義していく内容を規定するという自覚を述べているのだが、半世紀後の現在にあっては、言説の環境が大きく変化している。発言権は誰にでもあり、それがたんに潜在的な可能性ではなく、いつでも範囲を指定して言説を発することができる。一見して無政府状態に見える言説の領界。しかし、もう少しフーコーの言うことに耳を傾けてみよう。

 ここでのフーコーの仮説は次のものである。

 あらゆる社会において、言説の産出は、いくつかの手続きによって、すなわち、言説の力と危険を払いのけ、言説の偶然的な出来事を統御し、言説の重々しく恐るべき物質性を巧みにかわすことをその役割とするいくつかの手続きによって、管理され、選別され、組織化され、再分配されるのだ、というものです。(フーコー2014:11-12)

 要するに、手続きが用意されている。それを明らかにしようということである。すでにこの段階で、言説には力があり危険があり偶発的であり物質性をもつということが語られている。それに対して管理・選別・組織・再分配という制度的手続きが用意されていて、それによって言説は管理されているのだということまで言及されている。この事態を詳細に論じていこうというのである。

 まず排除の3つの手続き(システム)について語られている。第一に禁忌。

 すべてを語る権利などないということ、いかなる状況においてもあらゆることについて語りうるわけではないということ、誰もがいかなることについてでも語りうるわけではないということ、これは、周知の事実です。対象をめぐるタブー、状況に応じた儀礼、語る主体の特権的ないし排他的な権利。こうした三つのタイプの禁忌が、互いに交叉し合ったり、強化し合ったり、補い合ったりして、絶えず変更を被る複雑な格子を形作りながら作用しているのです。(フーコー2014:12)

 とくに禁忌が強力に作動している領域としてフーコーはセクシュアリティの領域と政治の領域を指摘している。ここでは言説が欲望および力と結びついている。

 第二に分割と廃棄。理性と狂気の分割。狂気の側の者の言葉は効力のないものとみなされ真理も重要性もなく裁判証言もできない。逆に、狂者の言葉が「隠された真理を語る力、未来を口にする力、他の人々の知恵が感じ取ることのできないものを全くの無邪気さのなかで見る力」を持つことがある。

 第三に「真と偽との対立」ここでフーコーは「真理への意志」という概念を導入する。

 すなわち、何世紀にもわたって我々の歴史を貫いてきた真理への意志は、我々の数々の言説を通じて、かつてどのようなものであったのか、そして今なおどのようなものであり続けているのか、あるいは、我々の知への意志を決定づける分割のタイプは、その非常に一般的な形態においてどのようなものであるのか、と。そうすれば、そのとき姿を見せるのはおそらく、排除のシステム(歴史的で、変更可能で、制度的で、拘束力を伴うシステム)のような何かでしょう。(フーコー2014:19)

「真理への意志」が何らかの制限を加えてきたであろうということだが、そのありようが歴史的に大きく転換してきたというのである。便宜的に三段階に整理してみる。

 第一段階。儀礼に則った特別な人物の言葉。

敬意と恐怖の対象とされていた真なる言説、絶大な権力によって服従を強いていた真なる言説とは、依然として、必要な儀礼に従いしかるべき人物によって発せられる言説のことでした。それは、正義を語り、一人ひとりに対して各自の取り分を割り当てる言説でした。それは、未来を予言しつつ、これから起こるであろうことを告げるだけではなく、それに加えて、その実現に寄与し、人々の賛同を促して、自らを運命とともに織り上げる言説でした。(フーコー2014:20)

 第二段階。特定の人物が真理を保証するのではなく、言説そのものの中に真理があるとみなす段階。

 ところが、その一世紀後にはすでに、最も高次の真理は、もはや言説がそうであるところのものや言説が行うことのなかにではなく、言説が語ることのなかに宿ることになりました。真理が、効果的で儀礼化された正義の言表行為から、言表そのものの方へ、つまり、言表の意味、言表の形式、言表の対象、言表とその参照物との関係の方へと自らの位置を移動させる日がやって来たということ。(フーコー2014:20)

 第三段階。科学的な段階。

 この歴史的分割は確かに、我々の知への意志に対し、その一般的形態を与えました。しかしこの分割は、その後も絶えず自らの位置を移動させ続けました。科学的な大変動の数々は、おそらく、時には一つの発見の帰結として読み解かれうるものでもありますが、しかしそれはまた、真理への意志における新たな形態の出現として読み解かれうるものでもあります。(フーコー2014:21)

 ところで、この真理への意志は、他の排除のシステムと同様、一つの制度的支えを拠り所としています。すなわち、この意志は、教育はもちろんのこと、書物や出版や図書館のシステム、かつての学会や今日の実験室といった、諸々の実践の厚み全体によって、強化されると同時に存続させられるものである、ということです。(フーコー2014:23)

「真理への意志」が多くの言説に対して圧力や拘束力を行使するとも述べている。

 禁じられた言葉、狂気の分割、真理への意志という、言説に課される三つの大きな排除のシステムのうち、私は、第三のシステムについて最も長い時間をかけてお話ししました。それは、最初の二つのシステムが、数世紀前から、第三のシステムの方へと絶えずその向きを変えてきたからです。それは、第三のシステムが、最初の二つをますます自らに引き受け直し、それらに変更を加えると同時にそれらを基礎づけようとしているからです。それは、今や真理への意志に貫かれた最初の二つのシステムが、より脆くより不確かなものとなり続けているのに対し、真理への意志の方は逆に、自らを強化し続け、より根底的なもの、より避けて通ることのできないものとなり続けているからです。(フーコー2014:25)

 以上が外部から行使される手続きである。後半は、内部から行使される手続きに移る。「言説が言説自身によって管理される」(フーコー2014:28)手続きであり「分類、秩序立て、分配の原理として」作用する手続き。一言で言うと、偶然を払いのける手続き。平たく言うと「通りすがりの通行人」には語らせないしくみである。これについては別に扱う予定であるが、とりあえず項目を整理しておく。

 フーコーは、注釈と作者原理と研究分野(ディシプリン)の3つを挙げる。第一に、注釈。第二に、作者原理。第三に、研究分野。

 言説の外からと内からの手続きに続いてフーコーは第三の手続きグループがあるという。第一に、儀礼。第二に、言説結社。第三に、教説(ドクトリン)。第四に、社会的占有。

 哲学の応答。おそらく言説の制限と排除を強化してきた。第一に、創設的主体。第二に、根源的経験。第三に、普遍的媒介。

 言説が宙に浮くという話。それに対抗するためのフーコー自身の三つの決断。第一に、逆転の原則。第二に、非連続性の原則。第三に、種別性の原則。第四に、外在性の原則。

 言説分析についての方針。(フーコー2014:70)

これからのセオリー道場について

 こういうものを授業で説明するということが、これまでの教師生活において皆無だったので(この20年間、私は情報メディアの教員だったから)こういう理論的な話をどの程度までほどいたらいいのか、正直よくわからない。日常的に学生に語るということが、じつはとても大事なのである。それがないので、自分を自分で鍛える道場を始めたわけで、とくに長文引用をあまりしたことがないという自分の弱点にあえてフォーカスして乗り越えようとしているにしても、Facebookに書くようにはなかなかいかないものである。長文引用練習は、精読したあとの二度手間になるからノリが今ひとつということもあるし、こういう作業は文献の著者に従属的になるから、もともと自分が言説世界を切り回したいという性向の強い私にとっては、自分を従属的なスタンスのまま持続するのが難しいのだ。

 長文引用練習に関してはOCRアプリを使用した手順を確定して、だんだん慣れて使えるようになってきたので精読法と引用法まではよしとしよう。

 次の課題は、読むスピードと書くスピードのギャップをなるべく小さくしたいということ。これは、けっこうな難題で、読むことと書くことと考えることなどのなすべきことが明確になってくると、その総量の実質が重くのしかかってくる。この重圧に負けないようにするためには、一方で文献を絞り込んでいく作業が必要で、これは文献のデジタル化の過程で選別を続けている。つまり、線を引いて精読すべき文献と判断したもの以外はどんどんデジタル化している。他方でFacebookに書くスピード並に書いていかないと、いっさいが「祭りの準備」で終わりかねない。

 ここはひとつ個体発生的に進化させてヴァレリー流に切り回すことにしようと思う。つまり隅から隅まで読むことを自分に課さない。多様な読み方を許容するということ。

 書くスピードで言うと、なんとしても文体改造が必要だが、これはこれで荒療治が必要な気がしている。つまり、いったん文体模倣のようなこと(文体練習)を自分に課す必要がありそうだ。いや、その前に模倣したい文体の読み込みを集中的にやる段階がないといけない。これまでも文体については模索を続けてきて、吉本隆明の堅実でマイペースなやり方や木田元や野矢茂樹らの哲学エッセイを研究してきた。評論と哲学エッセイの混合あたりがいいと考えている。

 この文脈で、最近になって大物を思い出して本を取り寄せている哲学者がいる。中村雄二郎である。『臨床の知とは何か』を流し読みしていて、今の私が読んできたものが見事にこなされているのにおどろいた。昔はよくわからなかったが、今の私が模倣すべき人はこの人かも知れない。

 最後に、辻井喬が中村雄二郎について書いている著作集月報の文章の中から、中村に言及する前の記述がおもしろい。下の段に注目。「極めて高い生産性を示す時と、惨めな結果に終り、ついには知的活動を休止してしまう人もいるようである。」前者でありたいと思う。正念場ということだ。

2022年2月15日火曜日

セオリー道場005アンソロジスト・メソッドへの道なのか──ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』をこっそり読んでしまう

読解対象

M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。

レッスンのポイント:長文引用練習

 英語圏の大学における勉強の柱は二つ。一つは五〇〇ページ以上はある分厚い標準教科書。もう一つの柱はアンソロジー(あるいはリーディングス)。その領域の古典的文献や基本論文を抜粋したものである。これでテキストで説明されている命題や理論の最初の形を学ぶ。二本柱の間を取り持つのが教員の役割ということになる。

 さて、アンソロジーを編集する視点から考えてみる。おそらく専門性の高い領域であれば作りやすいのではないか。逆に、広範な領域を横断的に眺めるものになればなるほど作りにくいのではないか。領域が広がると選択肢が拡大して恣意性(あるいは選択眼)も高度になるからである。

 テクスト内在的に語りたいというのが当初の私の願いであった。書評ではないようなスタイル、外書購読のような精読スタイルで、なるべく原文(と言っても基本的に翻訳を使用する)を紹介しながら書き進めていくようにしたいと思ったのである。 

 となると必要になる能力は次の通りである。

(1)多読能力。大量の文献を読むことになる。

(2)有益なパラグラフを選び抜く選択眼。精読が前提。

(3)文献が置かれているコンテクストの理解。

(4)多様な読み方。ときには流し読みや部分読みをすること。

 前提条件は有限な時間と文献の質量とのトレードオフ。学ぼうとする者ならだれしもが抱える問題を「代行」しようとしているわけだから、当然、このトレードオフが圧縮されて到来する。一方で日本は翻訳大国である。今の日本の出版状況は、かつて「12世紀ルネサンス」を呼び起こした多数のアラビア語の翻訳書群と似ている。なじみのある社会学を見ていても英語だけでなくフランス語やドイツ語やイタリア語など夥しい数の翻訳が出版されている。ルーマンの翻訳だけでも40冊ぐらいあるが英語圏では数冊にとどまる。しかも私たちが圧倒的に有利なのは日本語も読めるということである。日本にはオリジナルな思想家が少ないかも知れないが、欧米の思想家(とりわけ英独仏)の学説研究の水準は高い。そういう利点を生かしたい。翻訳の問題については、そのうち主題的に取り上げたい。

 問題は読み方である。文献について述べるわけだから精読が基本なのは言うまでもないが、隅から隅までを理解していないといけないというわけではない。

 読書法の世界では比較的正統派だと思うが、アドラーとドーレンの『本を読む本』には四つの読み方が書いてある。(M・J・アドラー+C・V・ドーレン『本を読む本』外山滋比古・槇未知子訳、講談社学術文庫、一九九七年)注:これからは著者が複数の場合は+でつなくことにしたい。

(1)初級読書

(2)点検読書

(3)分析読書

(4)シントピカル読書

 最後のシントピカル読書というのは、同一主題の複数の本を読みくらべる作業のことである。著者はこれには五段階があるという。(アドラー+ドーレン1997:227-233)

(1)問題箇所を見つけること。

(2)著者に折り合いを付ける(著者のキーワードを見つけて使い方をつかむ。これは一種の翻訳作業になる)。

(3)質問を明確にすること。

(4)論点を定めること。

(5)主題についての論考を分析すること。

 この本も「本は隅から隅まで読め」とは言わない。

 エーコの「反読書」となると「読まない本」が当たり前になるが、それは別の機会に。また、遡るとショーペンハウアーの有名な読書論だと「自分を喪失するから本を読むな」的な論調になる。哲学者はそうかもしれないが、いくらネット社会とは言え、凡人は多少とも何か読まないかぎり死ぬまで無知の人である。

 こうした議論にユニークな観点から論じた本がピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』である。(ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一六年。)

 読書には義務や禁止からなる規範の体系がある。(バイヤール2016:11-13)

(1)読書義務(神聖とされる本は必ず読んでいなければならない)

(2)通読義務(始めから終わりまで読まなければならない。飛ばし読みや流し読みは読まないのと同じである。)

(3)本について語るためには、その本を読んでいなければならない。

 この規範の体系があるために、多くの人(とくに学者)はウソをつかなければならなくなる。これはおかしいだろうというわけである。バイヤールも本書においてときどきウソをつくのであるが、ある意味、本書は本に関するウソについての本でもある。

 タイトルだけで決めつけられがちな本であるが、内容はすこぶるリッチである。

 ムージルの『特性のない男』に登場する図書館司書は所蔵図書をいっさい読まない。「全体の見晴らし」が重要だという。ヴァレリーは読んでいない本について公の場所で「読んでいない」ということをほのめかしながら、その本や著者について賛辞を送る。ヴァレリーは作品そのものと距離を取ろうとする点で流し読みの名手である。エーコの『薔薇の名前』において殺人の理由となる書物はアリストテレスが笑いについて論じた本であるが、それは中世の修道院図書館が表象する「共有図書館なるもの」を台無しにすると殺人犯が考えたためだった。この場合、話題の本は「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」(バイヤール2016:84)になっているという。フロイトの「遮蔽幕(スクリーン)としての記憶」に由来したフレーズだが、防御壁とか盾とか矛先とかダミーとか不可視化装置などの類義語を勝手に連想してしまうが、要するに書物の名前を出した段階で「ここから先は立ち入り禁止」という指令を出していることになるということだろう。ちなみにフロイトの「隠蔽記憶」「遮蔽想起」は「意識にとって許容しがたい他の記憶を隠蔽すること」を指している。(バイヤール2016:85)

 モンテーニュは自分が著作に書いたことをすっかり忘れていた経験を書いている。そもそも『エセー』のテーマの一つは「記憶の消失」だとのことである。(バイヤール2016:90)

 モンテーニュは、自己消失を繰りかえし経験している点で、これまで言及してきたどの作家にもまして「読むこと」と「読まない」こととの境界を無効にする作家であるように思われる。書物というものが、読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念じたいがいかなる有効性ももたなくなる。どんな本も、それを開くにせよ開かないにせよ、別のどんな本とも等価だということになるからである。

 モンテーニュが書物と取り結ぶ関係は、誇張されているように見えるかもしれないが、われわれ自身の書物との関係と本質的には変わらない。われわれが記憶に留めるのは、均質的な書物内容ではない。それはいくつもの部分的な読書から取ってきた、しばしば相互に入り組んだ、さまざまな断片であり、しかもそれはわれわれの個人的な幻想によって歪められている。つまりそれは、フロイトのいう〈遮蔽幕としての記憶〉に似た、捏造された書物の切れはしであって、その機能はとりわけ他の書物を隠蔽することなのである。

 したがって、 ここでモンテーニュにならって問題にすべきは、読書というより「脱−読書」である。これはわれわれを絶え間なく引き込む書物忘却のムーヴメントにほかならない。このムーヴメントは、参照項の消失であると同時に攪乱であり、タイトルと何ページかの記述と化してしまった書物を、われわれの意識の表面に浮かぶ漠たる幻影に変える。

 書物が、知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティーの喪失とも結びついているということは、読書について考察を加えるさいにつねに念頭に置いておかなければならない要素である。これを考慮に入れなければ、読書のポジティヴで蓄積的な側面ばかりを見ることになる。読むということは、たんに情報を得ることではない。それは一方で忘れることでもある(こちらの方が大きいかもしれない)。それはしたがって、われわれの内なる、われわれ自身の忘却に直面することでもあるのだ。

 モンテーニュの文章から見えてくる読書主体のイメージは、統一性のある、自己を保証された主体のイメージではない。それは不確かな、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体、これらの断片が誰のものかも分かっていない主体である。この主体は人生の途上でひっきりなしに難局に直面させられる。そして、自分のものと他人のものとを区別することもできなくなって、ついには書物と出会うたびに自分自身の狂気と対面する羽目になるのである。(バイヤール2016:100-102)

 私たちもついに「脱−読書」の境地に到達したようだ。正直を信条とするモンテーニュに倣うことにしよう。

 ここまでが第Ⅰ部「未読の初段階(「読んでいない」にも色々あって‥‥)になる。読んでない、ざっと読んだ、聞いたことがある、読んだが忘れた、といった四段階を見てきた。

 第Ⅱ部は「どんな状況でコメントするのか」である。本書の白眉と言えるものだが、これを踏まえた上で第Ⅲ部「心がまえ」を重点的に検討したい。ちなみに読み飛ばしたわけではない。第Ⅲ部がおもしろいのだ。余裕があれば最後に戻ってもいいが、これは回収されないと思う。

 第Ⅲ部の最初の章「気後れしない」は、デイヴィッド・ロッジの『交換教授』と『小さな世界』が題材である。この二冊によって「キャンパス・ノヴェル」という文学ジャンルが生まれたという。バイヤールが取り上げるのは『交換教授』の中にある「屈辱」と呼ばれるちょっとした会話ゲームである。「自分がまだ読んでいない有名な本を各人で挙げ、すでにそれを読んだほかの者一人につき一点獲得、というゲーム」(バイヤール2016:188)で『ハムレット』を挙げた生真面目で曖昧さが大嫌いなリングボームが冗談だと笑う参加者たちに対して断固として読んでいないと言い放ってしまったために座がシラけてしまったエピソードが出てくる。この気まずい状況をバイヤールは詳細に分析する。

 このリングボームの行為は、曖昧さを残さないという過ちによって「われわれが自分と他人とのあいだに普通に成立させている決定不能な文化空間から自らを排除するのである」という。(バイヤール2016:193-194)

 この空間において、われわれは、自分自身にも他人にも一定範囲の無知を許す。というのも、あらゆる文化は数々の空白や欠落の周りに構築されるということをよく知っているからである(ロッジは先の引用で「教養のギャップ」について語っている)。しかも、この空白や欠落は、別のたしかな情報を所有する妨げとはならない。

 書物に関する──いや、より一般的に、教養に関する──このこのコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである。この空間は、本が本の虚構によって取って代わられる合意の場としてこれを維持することを目的とする一定数のルールに従う。これはまた、幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間、その主要なルールが守られなければ続けられないようなゲームの空間である。

 この暗黙のルールのひとつに、ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならないというルールがある。なぜかというと、ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されると、また出された問いにはっきりと答えなければならこの空間内部で生きることはたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつは、この空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」ということの意味からしてよく分からないのである。(バイヤール2016:194-195)

 つまり、教養とは個人の無知や知の断片が隠蔽される舞台だということだ。(バイヤール2016:195)

 重要なのは、その人間が潜在的書物からなるこの中間領城の外に出ないということだ。この領域のおかげでわれわれは他人と共生し、コミュニケーションをはかることができるのである。(バイヤール2016:197)

 ここでバイヤールは大学教員の世界(「小さな世界」)を一種の社交空間として語っている。社交空間であるから、それは演技される世界であり、偽善の世界である。逆に言うと特別な空間ではない俗物の社交空間にすぎないということだ。こういう見切りが必要なのだ。

 この社交空間において書物の名前とそれがほのめかすものは独自の機能を果たす。

 こうした文化的コンテクストでは、書物は──読んだものも読んでないものも──第二の言語となる。われわれはこれを使って自分について語ったり、他人の前で自己を表象したり、他人とコミュニケートしたりするのである。書物は、言語と同様、われわれが自分を表現するのに役立つだけでなく、自分を補完するのにも役立つ。つまり、書物から抽出され、手直しされた抜粋によって、われわれの人格に欠けている要素を補い、われわれが抱えている裂け目を塞ぐ、そうした役割を果すのである。

 しかし書物は、言葉と同様、われわれを表象しつつ、われわれを歪めて伝えるものでもある。(バイヤール2016:198)

 われわれが他人と書物について語りながら交換するのは、したがって、われわれの外部にあるような情報である以上に、自己同一性が脅かされる不安な状況にあってわれわれの内的一貫性を保証するのに役立つような、われわれ自身の一部である。恥ずかしさの感情の背後にあって、こうした交換によって脅かされているのは、われわれのアイデンティティーそのものなのである。この潜在的な空間があいまいさを保持しつづける必要があるのはそのためである。(バイヤール2016:199)

 相互のプライドとアイデンティティを守るための言葉として書名が使われる。著者名も同様。「ニーチェみたいにさ」「フーコーが言うように」という具合に。文字通り「遮蔽幕」になる。言われた方は「ここから先は突っ込むなよ」という隠れたシグナルを読み取らなければならない。

 この意味で、このあいまいな社交空間は学校空間の対極にあるといえる。学校空間というのは、そこに住む生徒たちが課題とされた書物をちゃんと読んでいるかどうかを知ることが何よりも大事とされる空間である。そこには完全な読書というものが存在するという幻想が働いている。あいまいさを一掃し、生徒たちが真実を述べているかどうかを確認しようというその狙いも錯覚を孕んでいる。読書というものは真偽のロジックには従わないものだからである。

 書物に関する議論の空間は、遊戯の空間であり、絶え間ない折衝の、したがって偽善の空間である(後略)。(バイヤール2016:199)

 ここで反省したい。私は柄にもなく学校空間を生きていたのだ。というより、学び直しをする過程で、いつのまにか自らを学校空間においてしまっていたのだ。バイヤールの結論はこうだ。

 読んでない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放すべきである。(バイヤール2016:200)

 次の章「自分の考えを押しつける」ではバルザックの『幻滅』に登場して主人公を翻弄する辛口評論家のやり方を取り上げている。その評論家は本を読まないで批評することを自慢げに主人公に語るのである。まるで生徒や学生が本を読まないで読書感想文やレポートを書いて単位をもらったと自慢するように。

 バルザックがここで披露しているのは、私のいう〈ヴァーチャル図書館〉の諸特性の戯画にほかならない。この小説家が描く知識人の小宇宙で重要なのは、もっぱら、そこで立ち動く人々の社会的ポジションである。書物そのものは、陰に追いやられていて、大きな役割を果すことはない。しかも、書物について意見を言う前にそれを読む者はだれもいない。書物は、社会的および心理的諸力のあいだの不安定な関係によって定義される中間的対象に取って代わられているのであって、それじたいでは問題にされないのである。(バイヤール2016:218)

 ここで問題となっているのはしたがって書物そのものではなく、その書物について人々が交わす言葉の相互作用である。(バイヤール2016:222)

 どちらもある一個の作品を読んだことがないことになっているのだが、もし二人とも読んでいないとしたら、どちらも相手が読んでいない(つまり読んだと言って嘘をついている)ということも分からないはずなのである。ある本についての対話のなかで嘘という言葉が意味をもつためには、少なくとも一方が本を読んでいなくてばならあるいは本についてだいたいのことを知っていなければならない。(バイヤール2016:234)

 このように、このヴァーチャルな空間は騙し合いのゲームの空間である。その参加者たちは、他人を購す前に自分自身が錯誤に陥る。(バイヤール2016:234)

 ここで少し戻る。コンテクストの話。

 彼はたしかにこの重要性を戯画化しているが、コンテクストの決定力を強調している点は見逃せない。コンテクストに関心を向けることは、書物というものは永遠に固定されてあるものではなく、動的な対象であり、その変わりやすさは部分的には書物の周りで織りなされる権力関係総体に由来している、ということを思い出すことである。(バイヤール2016:221)

 書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりはわれわれの狂気と向き合うことになるからだ。ただ、それと向き合うリスクを受け入れる──リュシアンよりも決然と──ことをつうじてはじめて、われわれは作品の豊かさにふれると同時に、錯綜したコミュニケーション状況を免れることができるということもまた事実である。

 テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。バルザックのヒーローたちは、〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性を見事に示している。〈ヴァーチャル図書館〉は、本を読んでいるいないにかかわらず、読者を自称する人間たちの意見に惑わされることなく自分のものの見方の正しさを主張しようと心に決めた者の欲求に合わせて、いとも容易に変化するのである。(バイヤール2016:224-225)

 これは、かなりすごい考え方である。本は素材として自由に語ってよしというのである。ホールのエンコーディングとデコーディングというコミュニケーションの理にかなっている。本書はデコーディングの話をしているのだ。

 さて、第Ⅲ部第3章「本をでっち上げる」の題材は『吾輩は猫である』である。ここに「金縁眼鏡の美学者」が登場して苦沙弥先生に架空の本について滔々と語るシーンがある。苦沙弥先生は感心しながら聴いているが、あとあとになって美学者は「そんな本はないんです」と言ってのける。これが「本をでっち上げる」ということである。そしてバイヤールは「それでいい」と言うのである。そのためには「〈他者〉は知っていると考える習慣を断ち切ること」が必要だという。(バイヤール2016:235)

 書物についての言説で問題になる知というのは不確かな知であり、〈他者〉とは話し相手の上に投影された、不安を呼ぶわれわれ自身のイメージであって、そのモデルはかの遺漏なき教養というフィクションである。学校制度によって伝播されるこのフィクションが、われわれが生きたり、考えたりする妨げとなっているのである。

 しかし(他者〉の知を前にしたこの不安は、とりわけ書物にまつわる創造の妨げとなっている。〈他者〉は読んでいる、だから自分より多くのことを知っている、と考えることで、せっかくの創造の契機であったものが、未読者がすがる窮余の策に堕してしまうのである。しかし、本を読んでいる者も読んでいない者も、望むと望まざるとにかかわらず、書物創造の終りのないプロセスのなかに巻き込まれているのだ。真の問題は、したがって、そこからどのように逃れるかではなく、それをいかに活性化し、その射程をいかに拡げるかを知ることなのである。(バイヤール2016:235-236)

 いま私がやっていることも同じなのだろう。テクスト内在的に思考を進めていくことは、たんなる要約や訓詁解釈だけでなく、ときとして創造的な局面に至る瞬間があるかもしれない。そのためには「読者は読んでいる」と想定することをやめなければならない。ちゃんと説明する、そして自分なりの読みを提示する。それをまた自分の中で吟味する。それをまた別の本について述べるときに提示する。少しずつ思考が進む。それがバイヤールの言う〈内なる書物〉となる。それでいいということだ。

 もしわれわれが、本書で分析してきたような多様で複雑な状況において、重要なのは書物についてではなく自分自身について語ること、あるいは書物をつうじて自分自身について語ることであるということを肝に銘じるなら、これらの状況を見る目はかなり変わってくるだろう。なぜなら、いまや重視すべきは、何らかのアクセス可能な与件を出発点とした、作品と自分自身とのさまざまな接触点だということになるからである。その場合、作品のタイトル、〈共有図書館〉における作品の位置、作品を語って聞かせる人間のパーソナリティー、そのときの会話やテクストのやりとりのなかで生み出される雰囲気など、数多くの要素が、ワイルドのいう口実として、作品にさほど拘泥することなく自分自身について語ることを可能にするはずである。(バイヤール2016:264)

 これはやはり高めの能力を必要とすることである。作品を語るという行為は、その人の創造力の高さを結果的に表示するのだ。

 読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、これより社会的認知度の高い活動と同じくらい立派な活動なのだ。(バイヤール2016:269)

 この〈創作者になること〉は、読んでいない本について語る言説だけに関係しているのではない。より高いレベルでは、創造そのものが、その対象が何であろうと、物から一定の距離をとることを要求する。というのも、ワイルドが示しているように、読書と創造とのあいだには一種の二律背反が見られるのであって、あらゆる読者には、他人の本に没頭するあまり、自身の個人的宇宙から遠ざかるという危険があるのだ。読んでいない本についてのコメントが一種の創造であるとしたら、逆に創造も、普物にあまり拘泥しないということを前提としているのである。みずから個人的作品の創作者になることは、したがって、読んでいない本についていかに語るかを学ぶことの論理的な、また望ましい帰結としてあるといえる。この創造は、自己の征服と教養の重圧からの解放に向けて踏み出されたさらなる一歩である。教養というものはしばしば、それを制御するすべを学んでいない者にとって、存在することを、したがってまた作品に生命を与えることを妨げるものなのである。読んでいない本について語る方法を学ぶということが、創造の諸条件との出会いの最初の形であるとするなら、教育に従事するすべての者にはこの実践の意義を説く責任があるということになろう。彼ら以上にそれを伝達するのにふさわしい人間はいないからである。(バイヤール2016:271)

 教育が書物を脱神聖化するという教育本来の役割を十分果さないので、学生たちは自分の本を書く権利が自分たちにあるとは思わないのである。あまりに多くの学生が、書物に払うべきとされる敬意と、書物は改変してはならないという禁止によって身動きをとれなくされ、本を丸暗記させられたり、本に「何が書いてあるか」を言わされたりすることで、自分がもっている逃避の能力を失い、想像力がもっとも必要とされる場面で想像力に訴えることを自らに禁じている。本は読書のたびに再創造されるということを学生に教えることは、数多くの困難な状況から首尾よく、また有益なしかたで脱する方法を彼らに教えることである。というのも、自分の知らないことについて巧みに語るすべを心得ているということは、書物の世界を超えて活かされうることだからである。言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。わけてももっとも重要なもの、すなわち創造の世界が開かれている。われわれが学生たちにできる贈り物として、創造の、つまり自己創造のさまざまな技術にたいする感受性を養うことほど素晴らしい贈り物があるだろうか。あらゆる教育は、それを受ける者を助け、彼らが作品にたいして十分な距離をとり、みずから作家や芸術家になることができるよう導くべきだろう。(バイヤール2016:272-273)

 最後に、自分なりの思考を書いておきたい。それをとりあえず「アンソロジスト・メソッド」と名づけておく。ヒントは日曜読書会をいっしょにやっている池田隆英さん(岡山県立大学)の講義資料の作り方にあった。池田さんは学生に自分で作ったアンソロジーを配って、それについて解説するとのこと。原典を読ませて、そこから議論を立ち上げていくという。それは理想的だなあと思うが、日本語圏では適当なアンソロジーがとても少ないから、手作りせざるを得ないというところがマネできない。私は長めの引用でさえ苦手なのである。かといって、よくある「命題集」では、原典のコンテクストがつかめない。

 たとえばパスカルの『パンセ』を読了した人とは出会ったことがないが、それなりに語ることができるのは、いくつかの有名なフレーズが流通しているからだ。「人間は考える葦である」がそれである。しかし、これは何を言いたいのだろうか。やはり、これだけを抜き出してもパスカルの言いたいことは伝わらない。解釈は自由だが、素材はもう少し多い方がいいのではないか。それが書かれた断章は次のような文章である。

 人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも最も弱いものの一つである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押し潰すためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一滴の水でさえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は自分を殺す宇宙よりも気高いと言える。なぜならば、人間は自分が死ぬことを、また宇宙のほうが自分よりも優位だということを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない。

 だから、わたしたちの尊厳は、すべてこれ、考えることの中に存する。わたしたちはその考えるというところから立ち上がらなければならないのであり、わたしたちが満たす術を知らない空間や時間から立ち上がるのではないのだ。ゆえに、よく考えるよう努力しよう。ここに道徳の原理があるのだ。(断章三四七)(パスカル2012:213)ブレーズ・パスカル『パスカル パンセ抄』鹿島茂編訳、飛鳥新社、二〇一二年。

「人間は考える葦である」というフレーズは、こうしてみると巧みに要約していると言えるが、断章を丸ごと読むと印象はかなり異なるのではないか。要するに「考えよ」と呼びかけているのである。この程度のまとまりがあれば、本全体を読んでいなくても、人類遺産としてのパスカルのメッセージの一部は伝わるのであり、次の局面を想像できるのではないだろうか。これがアンソロジーの美点であり、読まないで堂々と語る主体の創出基盤になるのである。

 単独で大著を書くのもいいが、同じ大著であれば思考に役立つパラグラフを集めたアンソロジーの方が有意義である。なぜならテクストが著者の思考から解放されているから。読者はそのパラグラフだけを読んで思考を始めることができるようにする方がいい。それだけのリソースはすでに人類は作り上げてきたのであり、日本の翻訳文化においてそれはいつでも利用可能になっているからである。池田さんが授業でやっているように、それを素材として池田さん自身が自由に思考を語ればいいし、学生たちがそれぞれに思考を語り合えばいいのである。その結晶が池田さんの来るべき論文や著作になったり、学生たちが自分の人生の中で思い起こして応用する局面が出来するのであれば、それは有益な財産となるはずである。

 逆に言うと、単独で大著(とまでは行かなくとも中規模の書き下ろし作品であっても)を書くためには、そういうプロセスが欠かせないのである。それを抜きにして一定水準の著作は書けないと思う。まして私の場合は理論研究のブランクが長いのだから、入学したての勤勉な大学院生のように、ひたすら文献を読んで書写して自分自身の思考のための教材づくりから着手しなければならない。

 お手本となるものは、学術的なものが少ないというだけで、じつはないわけではない。翻訳の場合、版権の許諾作業が必要なので、どうしても中堅大手出版社のものになる。

 そもそも文学全集はアンソロジーである。そういうブームもあったが、今は過去の話。背景には、もはや大部な作品は読まれないという事実がある。現代の大衆小説であれば大部なものはいくらでもあるが、海外の古典作品の翻訳となると相当ハードルが高くなる。昔からそうだったと言えなくもないが、とりわけ若い人が読書習慣から縁遠くなってしまい、物量をこなすことができなくなった事情が大きいと思う。そこで筑摩書房は、それまでの大全集主義を改めアンソロジーに力を入れた時期があった。文学では『ちくま文学の森』『新・ちくま文学の森』があり、その次に『ちくま哲学の森』シリーズ全八巻が編まれた。内容的には哲学者そのものより人生哲学的な教訓エッセイがほとんどを占める。高校生あたりをターゲットにした感じのものだが、編集力の高さを感じるシリーズである。これに似たのがポプラ社の「百年文庫」で、今これを手放したことを猛烈に後悔している。もうボックスは市場にない。先行する二冊の企画は残しておいた。『諸国物語』と『百年小説』がそれである。「百年文庫」はそのスピンオフになる。これらも文学アンソロジーである。こういうものは出版社にいる(あるいは委託された)アンソロジストへの信頼がないとセールスは成り立たないのだろう。著者名を手がかりにする多くの読書家の目にはとまらなかったのではないか。

 時代的には遡るが、人文社会科学全般に網をかけたのが平凡社の『現代人の思想』シリーズ全二十二巻である。これは全集と言ってもいいような陣容の内容だが、論争的な論文や著作の一部分が大量に収められていて、今や忘れられてしまった著者も多いのである。このうちの三冊が二〇〇〇年に記念復刻されているものの久しく絶版になっていて、平凡社ライブラリーにそっくりそのまま収録できないものかと思う。こういうものでゼミをやって議論すると面白いと思う。

 『世界の名著』シリーズもじつは抄録があって、そのうちのいくつかは中公文庫で全訳化されている。しかし、これは全集というべきだろう。よりアンソロジー的なのは講談社の『人類の知的遺産』シリーズである。全八十巻のうち何冊かは講談社学術文庫で文庫化されている。前半は伝記と著作解題で、後半がアンソロジーになっている。特筆すべきは東洋思想の巨匠にも十分に配慮しているところで、異例なものとしては「達磨」だけで一巻をなすという具合である。フッサールの巻などは学術文庫になっていて読みやすい。これも歴史講座ものと同様にシリーズとして文庫化するといいと思う。買うのは一冊であっても、シリーズの全体観を意識することが重要だと思う。

 じつは大学入試問題集いわゆる過去問集もアンソロジー的な性質を秘めている。現代文という科目の評論文というジャンルがそれである。試しに河合塾による『センター試験過去問レビュー国語』を買ってみた。過去問と解説とで計一八〇〇ページあって八八〇円という驚異の蓄積本だったが、センター試験国語の現代文の設問はすべて日本の著者であった。翻訳は一つもない。同じく駿台予備学校編『京大入試紹介25年現代文2019〜1995』も買ってみたが、ここでもすべて日本人著者である。しかし選り抜かれた文章ばかりで、たいていの場合、他の文献を解説するようなものになっているので、自説をこんこんと述べた大作家の文章ではない。たとえば京大2019年入試問題では、金森修がアガンベンや寺田寅彦の所説を説明している文章が出題されている。もちろん著者の属性にも配慮されるのであろうが、それとともに明晰であることと、何カ所か読み込みに工夫が必要な個所があることが出題の要件である。どこをどれだけ切り取るかは熟考を要する。

 日本語の哲学教科書としてよくできていると思ったのが、菅野盾樹編『現代哲学の基礎概念』大阪大学出版会、二〇〇八年である。引用された文章は基本的に原語の原典である。英独仏というところ。と言っても十行に満たない分量であれば解説付きで理解できる。かつての外書購読に較べるとたいした負担ではなかろう。

 こうして眺めてみると、アンソロジーは索引であり事典であり目録でもあるということだ。小さな図書館の役割を果たしてくれる。

 アンソロジーによって切り取られた原典・著作・論文は思考の道具である。道具でいいのである。踏み台と言ってもいい。これを「亜流」「低俗化」「にせもの」扱いするインテリが大部分であろうが、これまで詳細に検討してきたように、本は必ずしも全部読まなくていいのである。文化総体のテクストの中から切り取った断片をいくつか集めて自分が思考することこそ重要なことなのである。大部な著作を読み切ったところで、それは文化総体のテクストのごく一部分にすぎないということは変わりないのだから。こういう見切りが大事なのだ。その上で、デコーダー(あるいはそう言ってよければ創造的な読み手)としてより創造的な思考やテクストを産出することが大事なのである。そのさい私たち自身は一時的にテクストの奴隷であってもいいが、断じて図書館そのものである必要はないのだ。

セオリー道場004弱い思考に定位する──ヴァッティモ、ロヴァッティ、エーコを読む

読解対象

ジャンニ・ヴァッティモ、ピエル・アルド・ロヴァッティ編著『弱い思考』上村忠男・山田忠彰・金山準・土肥秀行訳、法政大学出版会、2012年。

レッスンのポイント:長文引用練習

 ヴァッティモとロヴァッティ編『弱い思考』において対立概念とされる「強い思考」は、最高原理や究極目標や最終的真理を目指す思考である。

 編者二人による「まえおき」では次のように説明している。

「弱い思考」というタイトルには、こういった最近の思想動向のはらむ問題点についての批判的見解のすべてが込められている。すなわち、基本的に、つぎのような考え方がそのタイトルには込められているのである。(一)形而上学的明証性(したがって根拠のもつ強制力)と、主体の内と外において作動している支配とのあいだには結びつきがあるという、ニーチェの、そしておそらくはマルクスの発見を、真剣に受けとめなければならないということ、(二)だからといって、この発見をただちに──仮面を剥ぎ取り、脱神話化することをつうじて──解放の哲学へと語形変化させるのではなく、現象と言説手続きと「象徴形式」とを存在の可能的な経験の場とみて、これらのものからなる世界に、新しい、より友好的な──というのも、そこでは形而上学にあまり苦しめられず、伸び伸びとくつろぐことができるからであるが──まなざしを向けること、(三)しかしまた、その真意は「シミュラークルを称揚すること」(ドゥルーズ)にあるのではなく──そのようなことをしてみても、とどのつまり、シミュラークルに形而上学的な「オントース・オン〔存在者の存在〕」の重荷を背負わせることになってしまうだけだろう──、(ハイデガーの使っている「リヒトゥング(Lichtung)」という語のありうる意味のひとつに従うなら)おぼろげな光のなかで分節化されうる(それゆえ「推論されうる」)思考をめざすことにあること、(四)解釈学がハイデガーから採用した存在と言語の──きわめて問題の多い──同一化を、形而上学が科学主義的で技術主義的な成果をあげるなかで置き忘れてしまった、根源的な真実の存在を再発見するための方法としてではなく、痕跡や記憶としての存在、あるいは使い古され弱体化してしまった(そしてこのためにのみ注目に値する)存在に新たに出会うための方途として理解すること。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:5)

 私としては「現象と言説手続きと『象徴形式』とを存在の可能的な経験の場とみて、これらのものからなる世界に、新しい、より友好的なまなざしを向けること」に着目したい。たいせつなことは、世界の背後に存在する何かを想定するのではなく、経験可能な「現象と言説手続きと『象徴形式』」に即して世界を語ることである。形而上学的な何かによって境界づけられないような仕方で、ということだ。

 ヴァッティモは自分の論考で次のように念を押している。

 わたしたちが出発点とすることのできる経験、またわたしたちが忠実でなければならない経験とは、なによりもまず先にあるもの (innanzitutto)の経験であり、概して日常的な経験である。そして、このような経験はつねに歴史的な性質を付与され濃密な文化の累積を支えとする経験でもある。なんらかの還元とかエポケーをつうじて歴史文化的な地平へのわたしたちの同意を中断することによって到達しうるような、経験の可能性の先験的[超越論的]条件といったものは存在しない。経験の可能性の条件はつねに歴史的な性質をおびている。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:10-11)

 さらに真理の概念について次のように述べている。

 真理は、明証というタイプのノエシス的把握の対象ではない。そうではなくて、すでにつねにそのつどあたえられている一定の手続きを尊重しながらなされる検証過程の結果である(《現存在〉であるかぎりでわたしたちを構成する世界の投企)。いいかえると、それは形而上学的ないしは論理学的なものではなくて修辞学的な性質を有している。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:31)

 このような「真理の修辞学的なとらえ方」をしたい。これによって新しい「配置」つまり知の配置が見えてくるかもしれない。

 ロヴァッティは「経験の過程でのさまざまな変容」論文の「弱い思考とはなにを意味するのか」という節において、哲学者の名前を出さない説明の仕方で語る。

 わたしたちがもろもろの事物に付与している意味、わたしたちのノーマルな知とでも呼びうるものは、通常、反省を要求することのない自動的なものとしてわたしたちに提供される。しかし、じつをいうと、そのように自動的とみえるのは、一連の論理的・文化的な操作一般の結果なのである。わたしたちは、自分たちが引きずり込まれている潮流はたえず水位が上昇し水量も増すと考えており、自分たちの認識が進歩していくことをなんら疑っていない。そしてたしかにわたしたちの自由になる情報量が増大しており、大小の知の網の目が細かくなっていることには疑いがない。しかし、それはなによりも名称の問題なのだ。使われる術語は増えるが、操作のタイプそのものは変わらない。わたしたちに提供される自動的で反省を要求することがないように見えるものは、じっさいには力ずくで遂行される単純化の結果でしかない。そして、その単純化はとりもなおさず抽象化の過程にほかならない。というのも、それは事物を経験の総体から分離して最小限のものに還元し一点に統合すること、いろいろと放棄がなされたり遺漏が生じたりするのを犠牲にしても、いくつかの単純な要素、いつも同一で、あらゆる認識の固定した流出路をなす要素を手に入れることを目指すからである。日常的なもののありきたりの論理は、単純化と抽象の最大限値に服従させられてしまう。認識と伝達の行為はこうして途方もなく容易なものとなり、社会的な力を獲得するにいたるのである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:36-64)

 とくに注目すべきは「わたしたちに提供される自動的で反省を要求することがないように見えるものは、じっさいには力ずくで遂行される単純化の結果でしかない。そして、その単純化はとりもなおさず抽象化の過程にほかならない。」という記述である。「力づく」なんだ。それが私たちの教科書として立ち現れてきたり経験値として押しつけられてきたりするということである。教科書主義も前例主義も根は一つだ。力づくの単純化なのである。

 フーコー流に言えば強い思考は排除し切り捨てる。それに抗するためには、関係の束を解きほどき、解きほどいたものをそのまま保存するようなやり方で記述するしかないのではないか。

 この本に収められた「反ポルフュリオス」という論考の中で、ウンベルト・エーコはさらに独特の解釈を論じてみせてくれる。エーコは、思考は意味論的に強い「辞書」ではなく、弱い「百科事典」であるべきだというのだ。『弱い思考』が一九八三年刊行なので、おそらくこの論考が元になる詳論が一九八四年の単著『記号論と言語哲学』第2章「辞書対百科事典」になるのだろう。

 エーコは強い思考には二つの理想があるという。経験界あるいは自然界の複雑さの理由を明らかにする思考であること、そしてコントロール可能な程度に縮減されているが世界の構造を反映している世界モデルを構築することである。このように要約してみると、強い思考がいかに虫のいい要求を掲げているか、よくわかる。それは経験界あるいは自然界の複雑さをきちんと反映していなければならない。しかも、その世界モデルはコントロールできないほど複雑であってはならないというのであるから。

 この部分だけでフッサールを思い出す。晩年のフッサールは、ガリレイ物理学に始まる世界の数学化こそが現代の悲惨を帰結していると主張していた。この数学化こそが典型的な強い思考ではないか。

 エーコ論文に話を戻すと、意味論的に強い思考は「辞書」だという。

 理想的な辞書はつぎのような特質をもつ。

(1)有限な構成要素を接合して、不特定多数の語量の意味を表現することができなければならない。

(2)右の構成要素はより小さな構成要素で解釈されてはならず(さもなければ、1の要件が満たされないであろう)、原素 (primitivi)を構成しなければならない。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:83-84)

 しかし、このような「辞書の理論的理想は実現不可能であり、どんな辞書も、純粋性を侵食する百科事典的要素を含んでいる」という。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:84)

 エーコはこのことをその原初形態としてポルフュリオス『アリストテレス範疇論入門』を取り上げて論証する。この論証は私にはわからない。系統樹によって論理を組み立てるやり方の破綻(エーコはこれを「論理的痙攣」と呼ぶ)として理解しておく。

 しかし、これは辞書を引く時にしばしば経験する無限ループと関連があるくらいのことはわかる。少数のモデル言語によって世界の自然言語を説明できるわけがない。

 というわけで、理論モデルとしての辞書はじつは「擬装された百科事典」ということになる。これによって自然言語とモデル言語の区別がなくなり、理論的メタ言語と対象言語の区別がなくなる。このごたまぜな感じが百科事典なのだ。

 百科事典は解釈の、したがって、無限の記号過程 (semiosi illimitata)のパース的原理によって支配されている。言語が表現するどんな思考も力動的対象(あるいは物自体)の「強い」思考では決してなく、それ自身他の表現によって解釈することができる直接的対象(純粋な内容)の思考である。この表現は、自立的な記号過程において他の直接的対象を参照させるのである。たとえ、パースのパースペクティヴにおいて、解釈者のこのひと連なりが習慣を、したがって、自然的世界の変形という様態を生じさせるとしても。しかし、力動的対象としての世界に関するこの行為の結果は、それ自身他の直接的対象を介して解釈されなければならず、こうして、自己自身の外へひんぱんにあらわれ、自己自身へとひんぱんに閉じこもるという、記号過程の円環が生じるのである (Eco 1979, 2 参照)。

 百科事典における意味論的思考が「弱い」というのは、表現のためにわれわれが言語をどのように使うかをうまく説明できないという意味ではない。この思考は、意味の法則を文脈と状況の継続的な境界設定にしたがわせる。百科事典における意味論は、ある言語の表現の生成と解釈のための規則を提供することを拒否しないが、この規則は、文脈へと方向づけられている。意味論は実用論を組みいれている(辞書は、記号論化されているとはいえ、世界の認識を組みいれている)。百科事典を生産的に弱くしているのは、百科事典によっては、決定的で、閉じた表現が決して与えられないという事実、百科事典的表現は決してグローバルではなく、つねにローカルであり、特定の文脈と状況に際して提供され、記号論的活動に限定されたパースペクティヴを構成するという事実である。つぎに見るように、もし百科事典的モデルがアルゴリズムを供給するならば、そうしたアルゴリズムは、迷宮を進むことを可能にするアルゴリズムのように、近視眼的でしかありえない。百科事典は合理性の完全なモデルを提供するのではなく(整序された世界を一義的な仕方で表現するのではなく)、合理的であることの規則を、それぞれの段階で、条件を協議するための規則を提供するのである。その条件が、整序されていない(あるいは、秩序の基準が見逃されている)世界に──秩序のなんらかの暫定的な基準にしたがって理(ことわり)を与えるためにわれわれが言語を使えるようにするのである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:107-108)

 まず「無限の記号過程」とはどういうことか。篠原資明『エーコ──記号の時空』講談社、1999年には次のように説明されている。

解釈項の理論

 パースの記号論、とりわけその解釈項の理論を、エーコは高く評価する。パース自身による解釈項の定義は、かなりばらつきのあるものだが、エーコは、実り多い仮説と断ったうえで、次の定義を採用するだろう。すなわち、解釈項とは、「同一の対象と結びつけられる別の表象である」のだと。さらに続けて次のように言い換えている(『記号論』2.7.1)(篠原資明1999:120)

 ここからエーコの『記号論』が引用される。孫引きになるが、とりあえずここで学んでしまう。『記号論』を正面から読解する作業は近いうちに来るはずだから。

 記号の解釈項とは何であるかを明らかにしようとすれば、別の記号でそれを名指すことが必要になろうし、その記号はまた別の記号で名指されるといったふうに続いていくのである。この点で、無限の記号過程が始まる。これは、逆説的に思えるかもしれないが、完全に自らの手段によるだけで自らを検証しうるような記号体系の基礎を保証する唯一のものなのである。(篠原資明1999:120)

 こうしてみると「記号過程の円環」というのは再帰的循環のことではないかと思う。

 第二に「意味の法則を文脈と状況の継続的な境界設定にしたがわせる。」とはどういうことか。これは「グローバルではなくローカル」という言明に通じる。要するに普遍的ということはないのだ。必ず限定された領域における文脈に依存しているということ。

 第三にアルゴリズム云々の議論は「機械的に延長していくとどうなるか」ということである。どうなるのか。それは迷宮になるとエーコは言う。百科事典モデルでは、ポルフュリオスの樹形図のように「多次元的な迷宮を二次元的な図式に還元する試み」(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:109)は徹底的に排除される。迷宮は迷宮として現象するということだ。迷宮としてエーコが挙げるのは、一方向的な迷宮、迷路、網状組織の三つのタイプである。網状組織についてはリゾームにも言及されている。そして、これこそが百科全書で採用された迷宮だという。エーコは百科全書の編集方針を参考要求して長めの引用をしている。これについてはあとで検討しよう。むしろエーコはこの序論に準拠して「弱い思考」について(あるいは百科事典的モデルについて)語っているように見える。

 「反ポルフュリオス」論文の最後は次のようなパラグラフで締められている。

 理性の危機が語られるとき、グローバル化した理性が念頭にある。これは、世界に(世界がそうであるから、あるいは、そうであるならば)適用される、その「力強く」定義されたイメージを提供することを欲していた。迷宮の思考、百科事典の思考は、推測的で文脈依存的であるかぎり、弱くはあるが、しかし合理的である。というのも、この思考は間主観的コントロールを可能にし、断念にも、独我論にも流れ込まないからである。これが合理的であるのは、包括性を要求しないからである。これが弱いのは、相手の勢いを自分のものとする東洋の闘士が弱いのと同様である。彼は、他者が創りだした状況で、勝ち誇って応答するための(推測可能な)方法を後で見つけるために、相手に屈服しようとする。東洋の闘士は、前もって整えられた規則をもたず、外から与えられるすべてのできごとを一時的に規制するための推測的なマトリクスをもっている。そして、適切な、最終的条件へと、できごとを変えるのである。格闘は強い辞書次第だと信じているひとの前では、彼は「弱い」。彼はときどき強く、勝利する。彼は合理的であることに満足しているからである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:114)

 とくに「これが合理的であるのは、包括性を要求しないからである。」に注目したい。弱い思考の、これが最大の強さだと思う。

 じつはこれに似た考え方について論じたことがある。それはレヴィ=ストロースの「バラ模様型」の言説である。この発言は、クロード・レヴィ=ストロース/ディディエ・エリボン『遠近の回想』竹内信夫訳、みすず書房、 1991年にある。

 では現在、ひとたびプロポリス言説圏に入った人がどのような言説に遭遇することになるのか。紙数の関係でプロセス抜きの印象批評的な説明にならざるを得ないが、それなりに共通するものと変奏されるものとに分けて整理しておこう。

 第一に、それは徹底した自己中心性の言説である。他の民間医療や健康食品については言及しない。と同時に他の健康食品を批判する言説もまたほとんどない。禁欲的なまでの自己完結性と言っていいかもしれない。それは神話について語ったレヴィ−ストロースの次の説明そのままである。「中心にどんな神話を選ぼうとも、その変異形がその周囲に広がっていて、バラ模様の形を作っているのです。それがだんだん広がっていきながら複雑な形を作り上げる。またそのバラ模様の周辺に位置している変異形を一つ選んで、それを新しい中心に据えるとしますね。すると同じことが起きて、別のバラ模様が描き出されるのです。この新しいバラ模様は、最初のバラ模様と部分的には重なり合っていますが、それからはみ出したところもある。」(レヴィ=ストロース 1988=1991:230)

 おそらくバラ模様を描くプロポリス言説圏の場合も、アガリクス言説圏、クロレラ言説圏、キチン・キトサン言説圏、霊芝言説圏、そして赤ワイン=ポリフェノール言説圏などと相互に重なり合いながら、それぞれの自己中心的世界を描くのであろう。比較の視点は用意されない。(野村一夫「メディア仕掛けの民間医療──プロポリス言説圏の知識社会学」佐藤純一編『文化現象としての癒し──民間医療の現在』2000:121-122) 

 この論文を書いて以降、バラ模様型言説については放置していた。再確認が必要だ。

 最後に、エーコが引用した『百科全書』の編集方針の記述を読んでみたい。中略を二つ含んでいる。

 学問と技術との一般的〔全体的〕体系は曲りくねった道をなす一種の迷路であり、そのなかへ精神は自分がとるべき道をあまり知らずに入ってゆくのである。……しかし、この無秩序は、精神の本分から生じるまったく哲学的な無秩序であるが、そのままでは、精神をそこに写しだすことが望まれている百科全書の樹を醜いものにするか、あるいはむしろそれを完全に壊してしまうであろう。

 さらに、私たちが「論理学」に関してすでに明らかにしたように、他のすべての学問の諸原理を内蔵していると見なされ、このため百科全書的順序においては当然最上位を占めるはずの学問の大部分が、観念の生成史的順序において同じ地位を占めることはない。なぜなら、こうした学問は〔時間的に〕最初に創り出されたのではないからである。……

 要するに、私たちの知識の体系はさまざまな部門から構成され、そのいくつかは同じひとつの結合点をもっている。この結合点から出発しても、一度にすべての道に入ることはできないから、どの道を選択するかは個々の精神の生来の資質が定める。……

 私たちの知識の百科全書的順序に関しては事情は同じではない。この順序は、私たちの知識をできるかぎり小さい場所に寄せ集めて、いわば哲学者をこの広大な迷路の上で、主要な学問と技術を一度に見わたせるような非常に高い視点に位置づけることで、成立する。すなわち、哲学者は、その高い視点から、自分の理論的考察の対象とその対象に加えうる〔技術的〕操作を一目で見ることができ、人間知識の一般的諸部門と、それらを分離・結合する諸点とを見分けて特徴づけることができ、さらにときには、各部分をひそかに関係づけている秘密の通路をかいま見ることさえもできよう。それは一種の世界全図である。この地図は、主要な国々の位置と相互依存、ある国から他の国へと直通する道、を示さなければならないが、この道は数知れない障害物によってしばしば遮断されている。しかもこの障害物は各国の住民と旅行者にしか知られえず、非常に詳細な個別的な地図にしか示されえないであろう。これらの個別的な地図がこの「百科全書」の個々の諸項目にあたり、「系統図」あるいは「体系」が個別的な地図をまとめる世界全図となるであろう〔ディドロ、ダランベール『百科全書──序論および代表項目』桑原武夫訳編、岩波文庫、一九七四年、六五─六七頁〕。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:112-113)

 序論を書いたのはダランベールである。ダランベールは人間知識の全体を系統樹で提示してはいるが、エーコが引用しているのは、そのことに但し書きをしている部分である。これはネットワーク上に設置されたハイパーテキストを想起すれば今はかんたんに理解できる。そして、まさにバラ模様状ではないか。これこそ「弱い思考」なのだ。

 さらに私は「弱い思考」にキュビズムを加えたい。「弱い思考」に出会う前は「理論的キュビズムの立場を取る」と宣言していたくらいなのだ。キュビズムを成立させたのはブラックとピカソの二人であり、その直前には後期セザンヌがいた。この三人は遠近法という「強い思考」から脱出して、もののかたちの描き方を根本から変えた人たちである。近いうちに私はとりあえずこの三人の画家に焦点を当てて「弱い思考」としてのキュビズムについて論じてみたい。手元には次の三冊を用意した。

ニール・コックス『キュビズム』田中正之訳、岩波世界の美術シリーズ、岩波書店、2003年。

飯田善國『ピカソ』岩波書店、1983年。

アルベール・グレーズ『キュービスム』貞包博幸訳、中央公論美術出版、1993年。

 これからは、屈強で偏狭な「強い思考」に別れを告げて、輪郭のはっきりしない「弱い思考」に移行する作業に入る。一見すると手広いぼんやりした作業だが、ネットワーク上のものについてはすでに明確なイメージを私はもっているので、それほど困難は感じない。ただ、手数が多いだけである。

2022年2月14日月曜日

セオリー道場003原ファシズムとは何か、そして知識人はそれにどのように抵抗したか──ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』とホルヘ・センプルン『人間という仕事』

 読解対象

 ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』和田忠彦訳、岩波現代文庫、2018年。

 ホルヘ・センプルン『人間という仕事──フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル』小林康夫・大池惣太郎訳、未来社、2015年。

レッスンのポイント:長文引用練習・特性列挙練習

原ファシズムとは何か

 エーコは自身が体験したイタリア・ファシズムは固有の哲学を持っていない、あったのは修辞だけだと述べる。しかしイタリア・ファシズムこそ軍事宗教やフォークロアを初めて作り出したとする。(エーコ2018:38-39)

 しかし、全体主義運動においてイタリア・ファシズムは、その一部にしか過ぎないのに、なぜ「ファシズム」という言葉がその全体を表すようになってしまったのか。エーコは聴衆を「提喩(メトニミー)の機能」の謎に直面させる。つまり、ナチズムは明確な明確な政治綱領宣言をもち人種差別とアーリア主義の理論を装備し反キリスト教思想の陣容を備えていた点で、唯一無比である。それに対してファシズムの方はそのような陣容はなく、もっとファジーな存在であったために、他の政治運動や政治体制と家族的類似性を形成しやすいということである。(エーコ2018:46-47)

 いずれにしても、たとえ政治体制が転覆され、その結果、体制のイデオロギーが批判され非合法化されることはありうるとしても、体制とそのイデオロギーの背後には、かならず特定の考え方や感じ方、一連の文化的習慣、不分明な本能や不可解な衝動が渦巻く星雲のようなものが存在するわけです。(エーコ2018:36)

 かつてイヨネスコが「大切なのは言葉だけだ、それ以外は無駄話だ」と言ったことがあります。言語的習慣は往々にして、表出されない感情の重要な兆候なのです。(エーコ2018:36)

 エーコは、このような言葉の特徴に焦点を当てて、ファシズムと呼ばれる政治運動に典型的に現れる特徴を十四点あげて、それを「原ファシズム(Ur-fascismo)」もしくは「永遠のファシズム(fascismo eterno)」と呼ぶ。「原」というのは原初的ということであり、「永遠の」というのは「歴史上存在したあのイタリア・ファシズムではなく、他にも将来的にも出現しうる」というような意味合いであろう。この十四点の特徴がとても的中度が高いので、順次ていねいに読んでいきたい。

 一点目は「伝統崇拝」。

 結論からいえば、「知の発展はありえない」のです。真実はすでに紛れようもないかたちで告げられているのですから、わたしたちにできることは、その謎めいたメッセージを解釈しつづけることだけなのです。ファシズム運動の一つひとつの目録を点検し、そこから主要な伝統主義思想家たちを洗い出せばすむことです。(エーコ2018:49)

 なぜなら、この知的伝統は混合主義的なものであって、対立する考え方が併存する矛盾をもともと抱えているから。それらの伝統を任意に組み合わせてしまうところがファシズムだということ。

 二点目は「モダニズムの拒絶」。啓蒙主義や理性を近代の堕落とみなす。それゆえ非合理主義と規定される。

 三点目は「行動のための行動を崇拝する」こと。考えることは去勢の一形態とされ、自由主義的な知的世界は告発と攻撃の対象になる。

 四点目は「混合主義であるために批判を受け入れられない」こと。「意見の対立は裏切り行為」とみなされる。

 五点目は「余所者排除」であり「人種差別主義」であること。

 六点目は「欲求不満に陥った中間階級へのよびかけ」であること。

 七点目はナショナリズムであるがゆえに「陰謀の妄想」がその心性の根源にあること。「外国人嫌い」の感情に訴えるのが手っ取り早い手段になる。

 八点目は頻繁にレトリックの調子を変えるために「敵は強すぎたりも弱すぎたりもする」こと。結果的に敵の力を客観的に把握できない。それが体質になっている。

 九点目は「生のための闘争」ではなく「闘争のための生」とされること。あるのは最終解決のみであり平和主義は悪とされる。

 十点目は「大衆エリート主義」を標榜すること。

 十一点目は「一人ひとりが英雄になるべく教育される」必要が強調される。英雄主義が規律となる。「原ファシズムの英雄は、死こそ英雄的人生に対する最高の恩賞であると告げられ、死に憧れるのです。」(エーコ2018:56)

 十二点目は永久戦争や英雄主義が困難なためマチズモのように性の問題にすり替えること。男根の代償としての武器いじり。

 十三点目は「質的ポピュリズム」。

 原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意志」をあらわすのです。人間存在をどのように量としてとらえたところで、それが共通意志をもつことなどありえませんから、指導者はかれらの通訳をよそおうだけです。委託権を失った市民は行動に出ることもなく、〈全体をあらわす一部〉として駆り出され、民衆の役割を演じるだけです。こうして民衆は演劇的機能にすぎないものとなるわけです。(エーコ2018:57)

 十四点目は「新言語(ニュースピーク)」を使用すること。貧弱な語彙と平易な構文に限定して総合的で批判的な思考ができないようにする。ニュースピークとはオーウェルが『一九八四年』の中で使用した用語法で、最近出た新訳の中では付録として「ニュースピークの諸原理」がある。これはまたの機会に集中して扱いたい。ジョージ・オーウェル『1984』田内志文訳、角川文庫、2021年。

 以上十四点を一気にまとめてきたが、それらは相互に呼応している要素として説明されており、それをあえて切り分けて分節化して見せているのである。がっちり組まれた特性群だと、なかなかきれいに適用できないことがあるから、あえて要素をばらして並列しているのである。そのおかげで、これらは歴史的現在の政治を評価するさいの徴候測定装置として役立つ。

 原ファシズムが感情政治あるいは感情動員の形式であることがよくわかる。そして、この感情は言葉あるいは言説によって動員されるのである。

 ここにはいくつかの塊があるように思うが、その塊はある程度までは必然的につながる。ここの含まれた修辞学的要素が相互に結合することで、そこに求心力が生じて一種のハブになる。ハブができるとネットワーク外部性が作動してハブと周囲のノードが次々に連結して明確な物語性を持つようになる。そういうことだとすると、ばらばらに言説が生み出されていくプロセスにおいて接合の力を絶たないといけないということになる。それが例外状態を成立させないための手立てである。

 エーコのこのやり方は言説分析の一つのスタイルであるように感じる。じつは私もかつてこのような形で健康主義(ヘルシズム)を説明したことがある。野村一夫「健康クリーシェ論──折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造」佐藤純一・池田光穂・野村一夫・寺岡伸悟・佐藤哲彦『健康論の誘惑』文化書房博文社、2000年。

表2 折込広告における健康クリーシェの諸類型

■近代医学模倣言説系(1)栄養学的言説(2)検査値言説(3)医学的権威主義(4)ストレス言説

■伝統回帰・減算主義的言説系(5)非西洋医療権威主義(6)伝統主義(7)自然治癒力主義(8)薬の忌避・薬害への恐怖(9)無添加主義(10)素材よければ主義

■道徳言説系(11)継続は力なり言説(12)良薬口に苦し言説(13)リスク放置非難言説(14)嗜癖不道徳説(15)死の恐怖(16)性的健康(17)フェティシズム的道徳

■救済言説系(18)まだ間に合う言説(19)万病解決言説(20)お手軽主義(21)遍歴言説(22)生まれ変わり言説

■身体アイデンティティ言説系(23)体質という個性(24)恋愛共同体への誘惑

■承認言説系(25)半信半疑言説(26)他者の承認(27)マスコミで話題言説

■汎用言説系(28)健康の汎用性

 これは原ヘルシズムではなく最小公倍数としてのヘルシズムである。ここから抽出して原ヘルシズムの構成要素を組み直すことができそうである。それは今後の課題としたい。

 また「換喩とは何か」について書くつもりでいたが、今回は見送る。レトリック論について重点的に書く計画があるので、そこでやることにしたい。

ファシズムと闘う、あるいはファシズムに耐える

 センプルン『人間という仕事』副題は「フッサール、ブロック、オーウェルと抵抗のモラル」である。原題では「抵抗のモラル」となっている。

 読み始めは、いったいどんな共通点があるのかと思ったが、三者がそれぞれの場所で一九三〇年代のヨーロッパの危機に直面して、どのような精神で抵抗したかについての講演であった。しかし実際には三者だけでなく、その周辺や同時期に行動した知識人の話がたくさん出てきて、ナチズム、ファシズム、スターリニズムに席巻されるヨーロッパの知識人たちの群像が語られる。フッサールとオーウェルはある程度わかっているがアナール学派のマルク・ブロックの抵抗活動と最期についてはよく知らなかった。センプルンはブロックの『奇妙な敗北』を主軸に語っている。センプルンは三者に共通する抵抗精神を「批判的合理性」「理性の勇敢さ」「民主主義に対する信」「民主的理性」と呼ぶ。こういう確信こそこれからも反復して学び直すべきものだということである。

 さて、もう少し詳しく見ていこう。最初の講演は「エトムント・フッサール 一九三五年五月、ウィーン」と題されている。フッサール晩年のウィーン講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」についての章である。この講演の最後の部分は次のようになっている。センプルンの翻訳書から抜き出してみる。

 ヨーロッパ存続の危機には二つしか出口がありません。ヨーロッパがそれ本来の理性的生の意味から遠のいて没落し、精神に対する憎悪と野蛮のなかに失墜するか、それとも理性の勇敢さ(ヒロイズム)によって自然主義を最終的に超克し、そこから哲学の精神を通して再生するかです。ヨーロッパにとって最も危ぶむべきは倦怠であります。良きヨーロッパ人として、この危険のなかの危険と戦おうではありませんか。戦いが果てしなく続くことに怯まぬ勇気をもって。そのとき私たちは目にするでしょう。このニヒリズムの猛火、人間性に対し西洋が使命を帯びていることを疑わせる絶望の逆巻く炎、巨大な倦怠の灰傭から、新たな内的生と新たな精神的活力に満ちた不死鳥が、人間の遠大な未来の保証として蘇るのを。なぜならば、精神のみは不減なのですから。(センプルン2015:11)

「戦おうではありませんか」の文は意外な感じがする。平凡社ライブラリーに収められた清水他吉・手川誠士郎編訳では次のような訳文になっている。

 もしわれわれが、「善きヨーロッパ人」として、無限に続く闘いにも挫(くじ)けぬ勇気をもち、諸々の危機のなかでも最も重大なこの危機に立ち向かうならば(後略)(M・ハイデッガーほか『30年代の危機と哲学』清水多吉・手川誠士郎編訳、平凡社ライブラリー、1999:95)

 ここでは「立ち向かうならば」と訳されているのは、「立ち向かおう、そうすれば」ということだと理解しておく。センプルンは「戦おうではありませんか」という呼びかけを特筆しているので、ここではそれに従う。

 それほど切迫した一九三五年のヨーロッパ。その危機において知性の抵抗はどのようであったかをセンプルンは描き出す。歴史的背景は次の四点。独仏の和解の失敗、一九二九年の経済恐慌、計画主義の発展、大衆化の拡大。そしてスターリン主義の増幅。このなし崩し的な歴史の転回の中で、七十六歳のフッサールを始め、フロイト、ヤスパース、ムージル、ジード、マルク・ブロック、アルブヴァックス、ベンヤミン、レオン・ブルム、オーウェルたちの知的抵抗が描かれる。短い講演の中にヨーロッパ知識人の動向が収められている。フロイトは一九二〇年から二一年にかけての『集団心理学と自我分析』の中でいち早く大衆化現象に言及し「大衆化の現象においてはカリスマ的なリーダーが現われ、その出現が決定的な役割を果たす」(センプルン2015:15)ことを指摘していた。ムージルはフッサールの講演のひと月後のパリ講演で「集団主義(コレクティヴィズム)の興隆を問題にしていた。センプルンはこう述べている。

 私が思うにフッサールこそ初めて、哲学的観点から、知的観点から三〇年代の危機と将来の危機に対する唯一の解決策としてヨーロッパの超国家性を構築する必要を表明したのです。(センプルン2015:43)

 そして、それを真に受けて受け継いで死んだのがマルク・ブロックだという。彼が一九四〇年に原稿を書いた『奇妙な敗北』にそれが読み取れるという。この本については、そのうち正面から取り上げることにしたい。

 これらの事態を引き起こしたナチズムの進展についての再確認になるが、センプルンが強調している中で再認識したことを三点あげておきたい。

 第一に、現代的なユダヤ人排斥運動が始まったのはフランスのドレフュス事件からだということ。ここから伝統的な反ユダヤ主義は大衆的な反ユダヤ主義、民衆的な反ユダヤ主義に移行したということ。

 第二に、「ドイツにおける野蛮はむき出しで、おおっぴらであり、隠されることすらしていなかった」(センプルン2015:19)のに、それがそのまま実行され続けた背景は「民主主義諸国が完全譲歩の態度をとったこと」(センプルン2015:53)だという。ヒトラーは「誰も行動を起こさないことを知っていた」(センプルン2015:54)。

 第三に、フッサールとブロックとオーウェルに共通していたのは「批判的理性、民主的理性に対する同じ信念」「ヨーロッパ的批判精神の起源にある批判的理性」(センプルン2015:106)だということ。

 もちろん彼らが成す同一性、彼らが成す精神的共同体には微妙な差異があります。三人のうちおそらく最もヨーロッパ的なのはエトムント・フッサールでしょう。ブロックやオーウェルの場合と違い、フッサールにとってヨーロッパの問題は彼の考察の中心にありました。フッサール は実際、[ドイツではなく]中央ヨーロッパの知識階級(インテリゲンチャ)として語っています。つまり、(理性という言葉のカント的な意味における)世界市民主義(コスモポリタニズム)に最も慣れた地域の知識階級(インテリゲンチャ)としてです。彼はまた、災厄を前にしながら、その終りについて、災厄のあとにやってくるはずのことについて語っています。マルク・ブロックとオーウェルは反対に、災厄のなかで、つまり爆弾の下、ナチスの侵略のさなか、あるいはその可能性の脅威のなかで語っています。ブロックが語ったのは他国による占領下であり、オーウェルが語ったのは他国に占領されるという見通しのなかででした。(センプルン2015:106)

 その一方でハイデガーはフライブルク大学総長時代に次のようなことを考えていたという。

 フェディエが細心の慎み深さをもって「不幸なる大学総長の年」と書いた時代のテクストがすべて収めてあるわけですが、この巻で目にする最も衝撃的な事実とは、大量の文書、声明文、調査書、大学本部の回状の終りに、あの欠かすべからざる敬礼が──もちろん当時のドイツ語の挨拶「ハイル・ヒットラー」のことを言っています──記されているということではありません。最も衝撃的な事実、それは、この大哲学者が三度か四度、自分の哲学において最も内密で最も個人的な主題(史実性、歴史性、現存在(ダーザイン)の世界への関係)を取り上げ、それをナチズムの公準との関連で再解釈し、そこに新しい生命を──あるいは死をと言うべきでしょう──与えているということです。(センプルン2015:17-18)

 このあたりには先輩あるいは師匠であったフッサールとヤスパースの警告が書簡として残っている。この点については別稿を期したい。最後に私たちが教訓として学び取るべき言葉をひとつ。それは「民主的理性」という言葉である。これから常用したいと思う。

セオリー道場002眺望的思考についての予備的考察

読解対象

野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。

野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。

野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。

レッスンのポイント:キーワード選択練習

眺望的思考とは何か

 「眺望」という言葉のヒントは、野矢茂樹『心と他者』中公文庫2012年および『心という難問:空間・身体・意味』2016年から得た。野矢茂樹は1995年刊行の『心と他者』の眺望論から『哲学・航海日誌I・II』を経て『心という難問』で眺望論を完成させた。『心という難問』では「知覚の眺望構造」「感覚の眺望構造」の章で眺望論を詳細に説明している。野矢の理論は主として「他者の心を理解できるのか」に焦点を当てているので、本研究計画とは方向が異なる。しかし、たんに「パースペクティブの複数性」ということ以上のことを指摘している。つまり複数のパースペクティブはキュビズム絵画のように同時に世界了解に描き込まれているということである。単純な例として「図と地」の議論を思い出してみるとよい。どっちが図でどっちが地なのかは、このさいどうでもよい。要するには私たちはどちらも同時に見ているのである。注意の当て方によって「図と地」が現象する。どちらも同時に注意するとキュビズム絵画のようになる。

 この議論を手がかりに眺望的思考について考えてみたい。世の中には多様な考え方や理論があり、それらはそれぞれに妥当性領域をもつ。つまり、特定の妥当性領域においてはその考え方や理論は正しいとされる。それらの考え方や理論は相互に排他的であることが多い。本研究計画では、それをたんに志向性のちがいと見なして、同時に一定の妥当性をもつものとして扱いたい。これはたんに複眼的でありたいということではなく、志向性のちがいを評価するメタ認知を採用するということである。

 それがどこまで可能なのかはわからない。おそらくは専門知をいくら集積させても眺望的思考には至らない。専門知は境界を作ってその外部を排除するからである。そうではなくリベラルアーツに拓かれた知識をパッチワーク的に集積させる方が可能だと踏んでいる。

グランドヴュー

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』最終行を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名なフレーズで締めている。この本の冒頭「序」の第2パラグラフにも同様の言明があって、本書の中心命題であることが示されている。すなわち「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じ得ないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」(野矢茂樹訳2003:9)

「沈黙しなければならない」というのは、通常「説明の禁止」もしくは「語ってしまうことの傲慢」をたしなめているように感じられるが、そういうことではないのではないか。

 命題の中で世界は実験的にそのつど構成される。だから言い得ることは明晰に言えるが、そうでないものは言いようがないので結果的に沈黙することになる。沈黙したくて沈黙するのではない。わからないことについては沈黙すべきだというのでもない。もともと思考しようがなく表現しようもないのだ。

 学問の役割は、論理空間において概念と命題から構成される知識を供給することによって、人びとが生きる事実空間を言及可能なものに加工するのである。そしてこの加工技術は学問だけがもつのではなく芸術や文学や宗教にも存在する。それらはそれぞれの領域において自律的に論理空間を創造するので自然調和することはない。論理空間におけるこうした多元的な世界観とコスモロジーが事実空間の見え方を多重モードにする。だから私たちの経験する(語りうる)世界はいつも多重モードなのである。つまり私たちはキュビズム的世界を生きているのである。

 それぞれの論理空間の限界線は領域によって異なる。日常生活の慣習的行動に内在する経験値からなる論理空間の限界のその先まで科学的論理世界は説明できるし、さらに宗教的論理空間はその先の複数世界について説明できるということはある。しかし、それらはすべて各論理空間で使用される言語による。私たちはその言語で語られる限界までは行けるが、その先はただの暗闇だということ。ウィトゲンシュタインは「ナンセンス」と断じていた。

 当たり前のこと? いや、そうでもない。論理空間からしか事実空間を捉えられないとすると、私たちが知っているあらゆる事実空間はすべて論理空間の投影だということになる。

 同様のことをデュルケムがわかりやすく言明している。ウィトゲンシュタインとデュルケムを組み合わせるのは奇異に思われるかもしれないが、じつはジェイムソンが『政治的無意識』の冒頭掲示でそれをやっている。

「言語を想像することは、生活様式を想像することを意味する。」ウィトゲンシュタイン

「概念の全システムによって表出される世界とは、社会がみずからに対して表象するような世界であるといってよく、それゆえ、社会だけがそのような世界の表象に欠くことのできない一般化された理念を供給できる。・・・宇宙は、それが思惟されるかぎり、そのときにのみ存在する。また宇宙をまるごと全体として思惟できるのは社会だけである。それゆえ、宇宙は一社会のなかに場所を占め、社会の内的生活の一要素となる。まただからこそ、社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。全体性の概念そのものは、社会の概念の抽象的形式にすぎない。それはすべてを包括する全体であり、他のすべてのクラスがそこに吸収されなければならないような至高のクラスなのである。」デュルケム

 後者はデュルケム『宗教生活の原初形態』原著630ページの引用である。山崎亮訳では下巻435ページだった。最後の最後のところである。一見して、ふつうの常識人には受け容れがたい社会学主義の表明に見えるが、経験的研究の果てに辿り着いたメタ理論である。

 ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」がここでは「社会がみずからに対して表象するような世界」と語られている。「概念の全システムによって表出される世界」とは「事実空間」に対応している。このように考えればジェイムソンが2人を並べている理由も理解できる。つまり2人は同じことを言っているのだ。ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」をデュルケムは社会の外部にあるものと述べているだけである。すなわち「社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。」

 社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。詳細な検討は後回しにして、ウィトゲンシュタインが「言語」こそが限界を決めるとしたのと、デュルケムが「社会」こそが限界を決めるとしたのは、ほぼ同じ事態だと理解できるのではないか。あるいはウィトゲンシュタインの「論理空間」とデュルケムの「社会」はほぼ同じことだと理解できるのではないか。メタ理論的なこの仮説をこれから始める私たちの探究の足場としたい。

 清水幾太郎『倫理学ノート』にはウィトゲンシュタインについての章が3つ収められているが、この中で注目したいのは次のことである。後期ウィトゲンシュタインの集大成である『哲学的探究』への道筋にプラグマティズムとくに若い友人のもたらしたパースの間接的影響があって、プラグマティズムが得意な子どもの扱いが、もっぱら大人だけを想定してきた哲学を乗り越える契機になったと指摘されている。もちろん大学をやめたあとの小学校教師時代の経験も大きいのだろう。つまり「子どもの哲学」を発見したことが後期の『哲学的探究』の「生活形式」「言語ゲーム」の理論に展開したのではないかということである。かつてミードを勉強した社会学者がのちのち言語ゲーム論に触れたときに感じたデジャブ感はこれかと思った。

 もう1つ、通常「言語ゲーム」と訳されている元の言葉はSprachspielであるが、この英訳への違和感が素直に書かれている。本人がそうしているので文句は言えないが、英語でも日本語でも慣用的に使われている意味からかなり離れていることに注意しないと訳がわからなくなる。清水が言うには、Spielは「活動」の意味があって、それをGameに置き換えるのには少しムリがある。ウィトゲンシュタイン自身はgameの部分をイタリックにしているが、それじゃ「際限のない多様性」は伝わらんよということ。そして前期の『論理哲学論考』の沈黙テーゼに匹敵する『哲学的探究』の締めのテーゼは「ザラザラした大地に戻ろう!」だという。私なりに言うと、これは一種の社会学的着地である。論理哲学を裏切りラッセルを裏切り大人の哲学を裏切って、氷上のツルツルの地平からザラザラした大地に着地したという理解である。これなら納得できる。清水がこのあたりを書いていたのは70年代で、清水はコンピュータの時代は『論理哲学論考』が極めたツルツルの氷上の世界の時代になるだろうと文明批評的に結んでいる。じっさい半世紀後の私たちの全生活に数学とアルゴリズムが浸透していることを思えば「ザラザラした大地に戻ろう!」というスローガンは身に染みる。これを社会学的着地として、これからの探究の作業仮説としたい。

参考文献解題

野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。

野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。

野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。

 この一連の哲学エッセイには「眺望」に関するヒントだけでなく、どのような文体で書くかについてヒントを得た。もともと「俯瞰」という言葉は上空から見下ろすという超越論的なニュアンスを伴うので、別の言葉として「眺望」を考えていた文脈で出会った。加藤郁乎『眺望論』を参照したあとだった。「眺望」であれば、対象と同じ地平の見晴らしのよい場所に立つというニュアンスが出るのでちょうどよいと考えた。野矢「眺望論」については、のちにまとめて検討したい。

フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識──社会的象徴行為としての物語』平凡社ライブラリー、2010年。

 この本からは冒頭掲示のみを参照したので、孫引きに当たるが、ウィトゲンシュタインとデュルケムが並んでいることにヒントを得たので、そのままページごと引用した。ジェイムソンはラディカルな批評家であるが、ここのところ考えていることのヒントがありそうなので、これものちに検討することにしたい。ジェイムソンだけでなく、じつは批評理論と呼ばれる文学理論に多くのヒントがあることはわりと最近になって知った。批評の対象の多くは文学作品ということになるが、世界というテクストを言説分析する試みにとっては先行研究に当たるはずで、方法論として学ぶことが多い。

エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態──オーストラリアにおけるトーテム体系』上・下、山崎亮訳、ちくま学芸文庫、2014年。

 長らく「原初形態」として呼ばれてきたが、新訳では「基本形態」となった。本研究では基本的に「デュルケム」と表記するが、この翻訳では「デュルケーム」である。こちらの方が昔風である。ジェイムソンの翻訳は英訳からおこなわれているようなので、あらためて新訳の方の該当個所を引用しておきたい。

 概念(コンセプト)の体系全体が表わしている世界は、社会が思い描く世界であるので、ただ社会のみが、それによって世界が表象されるはずの最も一般的な諸概念を、われわれに提供しうる。ただ、すべての個別的な主体を包み込みうる[社会という]一主体のみが、そのような目的を実現することができるのである。宇宙は、それが思考されるかぎりにおいて、はじめて現存するのであるから、またそれは、社会によってしか全体的に思考されることはないのであるから、宇宙は社会のうちに位置を占めているのである。宇宙は、社会の内的な生活の一要素となる。このように社会それ自体が全体的な類(ジャンル)なのであって、その外部には何も現存しない。全体性の概念は、社会の概念の抽象的な形態にすぎない。社会は、すべての事物を包含する全体なのであり、諸他のクラスをすべて含む至高のクラスなのである。これこそが、これらの原始的分類──そこではすべての領域における存在が、人間と同様の資格で社会的枠組みのなかに位置づけられ、分類されていた──が立脚している深い原理なのである。」(デュルケーム2014:435)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年。

 ウィトゲンシュタインについては、中期と後期と後継者の研究をそれぞれ読解する予定。

清水幾太郎『倫理学ノート』講談社学術文庫、2000年。

 最初の刊行は1972年。清水が学習院大学を辞めて独立したときのもの。研究ノート的な色彩が強いが、ノンジャンルの研究を始めたころの作品で、文体上の参考にもした。本書についてはヴィーコについての章もあるので、再び取り上げることになると思う。

取り組み方に関するメモ

 シュンペーターもウイーンの人なんだと唸るフレーズ。

 克服をではなく理解を、批判をではなく習得を、単なる是認もしくは否認をではなく、分析と各命題における正しいものの抽出とを、われわれは望むものである。(シュムペーター1983:7)
シュムペーター『理論経済学の本質と主要内容』大野忠男・木村健康・安井琢磨訳、岩波文庫、1983年。

 シュムペーター二五歳のときの著作デビューの大著の冒頭部分から引用。
 若きシュンペーターの考えに全面的に同意する。先行研究に対してクリティカルに取り組むのは当然だが、ポジティブなものが何も提示できないのでは困る。「結局、何が言いたいの?」と聴き直したくなる。先行研究の場合、学べる点を探し出すのが基本であり、そういうものがないのであれば、そもそも取り上げなければいい。とくに狭小な専門の壁に抵触する決意のもとでは、こういう態度が必要だと思う。

セオリー道場001小説こそが生活世界を明るみにしてきた──ミラン・クンデラ『小説の技法』を読む

今回の読解対象

ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。

レッスンのポイント:長文引用練習

 詩については多くの詩論を読んできて、それなりに理解できていた。しかし小説についてはそうではなかった。小説の批評の方は理解できる。では、小説そのものは?

 半ばあきらめかけては小説論を読んでいたところの一冊。ここでは冒頭の論考「評判の悪いセルバンテスの遺産」にフォーカスを絞って考えてみたい。

 私の思考をわしづかみしたのは冒頭フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の元になった一連の講演から始まっていることだった。

 死の三年前の一九三五年、エトムント・フッサールはウィーンとプラハでヨーロッパ的人間性の危機に関する有名な講演をおこなった。彼にとって「ヨーロッパ的」という形容詞は、古代のギリシャ哲学とともに生まれ、地理的なヨーロッパを越えて、(たとえばアメリカに)広がった精神的同一性のことを指している。古代のギリシャ哲学こそが〈歴史〉において最初に、世界(総体としての世界)を解決すべき問題として把握し、しかじかの実際的欲求を満たすためではなく「人間が認識の情熱にとりつかれた」がゆえに、世界に問いかけたというのである。

 フッサールが語っている危機はじつに根深いものに思われたので、はたしてヨーロッパはこの危機の後も生き残ることができるかどうかと、彼自身が自問したほどだった。彼はこの危機の根源が近代の黎明期に、ガリレイやデカルト、すなわち世界を技術・数学的探求のたんなる一対象に還元して、その地平から人生の具体的世界、彼の言葉では「生活世界 die Lebenswelt」を排除したヨーロッパ諸科学の一方的な性格にあると信じていた。

 人間は諸科学の飛躍的な発展によって、様々に専門化された領域のトンネルに押しやられ、知識が増えれば増えるほど、世界の全体もじぶん自身も見失っていった。その結果、フッサールの弟子のハイデガーが「存在忘却」という美しく、ほとんど魔術的な言い回しで呼んだものの中に沈みこむことになった。

 かつてデカルトによって「自然の支配者にして所有者」の地位にまで祭り上げられた人間は今や、人間を超え、人間を凌駕し、所有する諸力(技術、政治、〈歴史〉などの力)にとってはたんなる事物にすぎなくなった。これらの諸力には人間の具体的な存在、人間の「生活世界 die Lebenswelt」はもはやなんの値打ちも面白みもないものになって霞んでしまい、あらかじめ忘れられているのだ。(クンデラ2016:11-12)

 このときフッサールは大学教授の名簿から外され、国際学会への出張も認められず、事実上公的研究活動ができなかった。つまり自身も1933年に誕生したヒトラー政権から正式に排除された状態であった。この講演は1935年。ウィーンとプラハにおける講演である。このとき自由な学問活動は統一されたドイツでは不可能になり、中欧の歴史的都市においてなされたのである。

 勇み足で先取りをして言っておくと、彼自身を排除したナチズムは、ヨーロッパ近代のプロジェクトのゆがめられたヴァージョンだった。その分岐点にいるのはガリレイで、彼は自然の数学化に舵を切った。自然の数学化によるリアルな現実へのアクセス(それは絶えざる近似値への接近)だった。これによって生活世界のディテールは根こそぎ「存在忘却」されることになったというのである。

 しかしクンデラは、それは近代の両義性を指摘したのであって、近代のプロジェクトには他の重要な知的潮流があるのだという。

 私ならむしろ、このふたりの偉大な哲学者は、堕落であると同時に進歩であり、人間的なもののすべてと同じく、誕生のうちに終罵の萌芽を含んでいたこの時代の両義性を明るみに出したのだと言うだろう。このような両義性があるからといって、ヨーロッパのこの四世紀が貶められていいとは思えないし、哲学者ではなく小説家である私としては、なおさらそれに愛着を感ずる。というのも、私にとって近代の創始者はデカルトだけではなく、またセルバンテスでもあるからだ。(クンデラ2016:13)

 このふたりの現象学者が近代を評価するさいに考慮するのを怠ったのは、おそらくセルバンテスだろう。つまり私は、哲学と諸科学が人間存在を忘却したというのが事実なら、セルバンテスとともに一つの偉大なヨーロッパの芸術が形成され、この芸術が当の存在忘却の探求に他ならないことが、よけい明瞭に分かると言いたいのだ。(クンデラ2016:13)

 セルバンテスに始発点を持つ、小説の伝統と進歩。これこそが忘却された生活世界を掘り起こしてきたとクンデラは主張する。

 じっさい、ハイデガーが『存在と時間』の中で分析し、これまでの哲学全体によって打ち捨てられていると判断した実存の主要なテーマのすべては、この四世紀のヨーロッパの小説によって明るみに出され、示され、解き明かされてきたのである。小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに〈歴史〉に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸 terra incognita」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の提えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(クンデラ2016:13-14)

 小説は近代の端緒からたえず人間に忠実に伴ってきた。この端緒から、「認識の情熱」(フッサールがヨーロッパ的精神性の本質とみなす情熱)が小説にとりついて、小説は人間の具体的な生活を吟味し、これを「存在忘却」から保護して、「生活世界」に絶え間なく照明をあてることになった。この意味において、ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰りかえし述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラルなのだ。(クンデラ2016:14)

 フッサールがヨーロッパ的精神とみなす「認識の情熱」つまり「総体としての世界を問題として認識したい」という思考には、小説という系譜も存在するというのだ。そしてそれは近代の生活世界の方に照明を当てる。

 小説はヨーロッパの所産であり、様々な言語でなされていても、小説の諸発見はヨーロッパ全体のものだということである。諸発見の継承(すでに書かれたものの加算ではない)こそがヨーロッパの小説史となっているのであり、このような超国民的なコンテクストにおいてのみ、一つの作品の価値(つまりその発見の射程)が十全に検討され、理解されるのである。(クンデラ2016:14-15)

 ここで一区切り。一般的に小説はそれぞれの地域や国の環境や生活や風俗を描き出すと思われてきたと認識していたが、それは世界そのものを認識したいという、もう一つの方法だということだ。では、なぜそうした認識への欲求が小説というスタイルに結晶することになったのか。

 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。(クンデラ2016:15)

 ここで述べられているのは、神なき世界としてのヨーロッパ近代のスタートラインで生じた認識上の混乱である。この混乱はおそらく視覚障害のあった人が手術によって視野を獲得したその瞬間に生じる混乱のようなものだと思う。あるいは逆に眼の病気によって視覚を喪失した人に生じる混乱のようなものかもしれない。後者については、梅棹忠夫『夜はまだあけぬか』(講談社文庫、1995年)に詳しい記述がある。あるいは幼少から幽閉されたまま育ったカスパル・ハウザーの例。しかし、ミクロな場面にフォーカスしていくと、それが必ずしも特殊な経験でないことはあきらかである。夏目漱石『三四郎』に始まる、地方の農村から都会に出てきた青年たちが共通に体験する混乱を想像してみればいい。これは前近代的社会から近代的世界に降り立った人間に共通する体験である。

 このような事態をより一般化すると、現象学とその後継者たちが「自明性の喪失」と呼ぶ現象に他ならない。「自明性の喪失」は社会学でも広く使われている捉え方である。

 デルタ株によるコロナ感染第5波の渦中にある現在の東京においても「自明性の喪失」による認識の混乱は続いている。時間と空間を共有し皮膚感覚で交流することによって親密な関係を築いてきた人たちの自明性は、ちょうど「図と地の反転」のように感染対策上の回避事項になっている。そういうとき、新しい状況において従来の認識を切り換えられない人たちや、ビジネスモデルを切り換えられない組織の人たちが、どうしていいかわからないまま居直ってみせることで感染は拡大し混乱がますます複雑化する。みんなパンデミックに投げ出されたドン・キホーテなのだ。

 その混乱のなかで際立つのは多声性である。これまでは伽藍いっぱいを満たしてきた絶対者の声が相対的に小さく残響するように変化していく過程で、そこに置かれた人たちはくちぐちに問い・怒り・泣き叫ぶ。それら多数の声は、相互に反応し合って、複雑な残響を構成していく。

 セルバンテスとともに世界を両義性として理解し、唯一の絶対的な真理ではなく、互いに異論を唱え合う多数の相対的な真実(登場人物と呼ばれる想像的自我に体現される真実)に直面しなければならず、その結果、唯一の確信として不確信性の知恵をもつようになるのにも、やはり大きな力が必要とされる。(クンデラ2016:16)

 小説の登場人物は作者によって創作された自我である。それら想像上の自我は小説空間の中でくちぐちに現状認識を語り、自分の心情を語る。同意する他の想像的自我があるかと思えば、ムキになって反論する想像的自我もある。小説空間において絶対的なワンヴォイスは存在しない。読者がそのような小説空間にひとたび入るや、相対的な真実が浮遊する世界を受け入れざるを得なくなる。

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ·カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。 

 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。(クンデラ2016:16)

 結論が宙に浮いた状態に耐えられないという無能さ。むしろ「宙ぶらりんの恐怖」と呼ぶべきか。

 推理小説のように必ず結論に導いてくれるスタイルが好まれるのは、一度読み出したら結末まで読まないとおさまらないのは理の当然とも言える。「宙ぶらりんの恐怖」から逃げ出したいから。結末が存在するという確信があるから。

 物語構造が繰り返し使用される作品群が並列的に林立するのも「和解」の仕方なのだろう。キャンベルの言う「ヒーローズ・ジャーニー」にせよ折口信夫の「貴志流離譚」にせよ、物語のプロットはある程度収斂する。収斂するから物語だとも言える。物語において読者はある程度の予測を立てて読むから、途中で投げ出さない。

 この場合、解決へ向かっているのだと確信できることが重要で「すべては回収される」との確信があるから「宙ぶらりんの恐怖」に耐えられるのだ。ジェットコースター(絶叫マシン)もかならず帰還できるから耐えられる。この場合はむしろ「システムへの信頼」と言うべきなのかもしれないが。

 ここからは20世紀的世界認識に入る。そこで小説空間が遭遇するのは理由なき権力の姿である。

 力は露骨、カフカの小説におけるのと同じように露骨なのである。じっさい、法廷がKを処刑することによってなんら得るものがないのと同様、城は測量士をやきもきさせることによってなんの得をするわけでもない。(クンデラ2016:21)

 いや、ちがう。力の攻撃性はまったく利害を超えたもの、動機のないものであり、それはおのれの意欲しか欲せず、ただたんに不合理なものなのだ。(クンデラ2016:21)

 したがってカフカとハシェクは、次のような途方もない逆説に私たちを直面させる。すなわち、近代のあいだ、デカルト的理性は中世から引き継がれたあらゆる価値を一つひとつ腐食させていった。だが、理性の全面的な勝利の瞬間に世界の舞台を占拠することになるのは、たんに不合理なもの(ただおのれの意欲しか欲しない力)なのだ。なぜなら、この不合理なものを阻止できるような、共通に認められた価値体系などもはや何もないのだから。(クンデラ2016:21-22)

 クンデラがフッサールとハイデッガーを通して指示している「デカルト的理性」という近代的なるものは、社会学で「システム」と呼ぶ一連の制度構成体のことだと思う。ハーバーマスの有名な対立図式を借りると「システムによる生活世界の植民地化」において生起する状況のことだと理解していいと思う。クンデラの意をくむと「植民地化」の代わりに「侵食」と呼んでもいい。

 この不合理な力を二〇世紀小説はどのように描いたか。クンデラは次のように総括する。

 人間がただおのれの魂の怪物とだけ闘っていればよかった最後の平和な時代、ジョイスとプルーストの時代は過ぎ去った。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホらの小説では、怪物は外からやってくる。それが〈歴史〉と呼ばれるものだが、この怪物はもはや冒険家たちの列車とは似ても似つかない、非人格的で、統御も計測もできず、理解を超える──そして誰も逃れられないものだった。この時(一九一四年の戦争直後)に中央ヨーロッパが輩出した偉大な小説家たちは、近代の最後の逆説に気づき、触れ、捉えたのだった。(クンデラ2016:23)

 逆に、これらの小説家たちは「ただ小説だけが発見できること」を発見する。(クンデラ2016:23)

 例えばマックス・ウェーバーが官僚制について、あるいは国家について、あるいはカリスマの日常化と教団・教義の構築について述べるとき、そして「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」で、もとは「絶対的孤独の感情」から個人として覚醒した信徒たちのBerufから離陸した資本主義というシステムがやがて個人のそうした心情とはまったく無関係に作動する巨大な自動機械になっていくプロセスを描いてみせたように、近代というプロジェクトの無慈悲で無責任なありようを、カフカのような小説家は、そのとんでもなく不条理な設定と展開でもって指し示しているのである。ウェーバーが「鉄の檻」と呼んだものをカフカは「城」と呼ぶ。

 「鉄の檻」も「城」も徹底的な一元化システムであるから、多様で多声的で両義的な生活世界を表現する小説は、必ずそのような強大な力と対立する。

 人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。この非両立性は異端派と共産党幹部、人権擁護派と拷問者をへだてる非両立性よりもさらに根深い。なぜなら、この非両立性は政治的もしくは道徳的であるばかりか、存在論的なものだからだ。これは唯一の〈真理〉に基づく世界と両義的かつ相対的な小説の世界とは、それぞれまったく別の質料によってつくられているということに他ならない。全体主義的な〈真理〉は相対性、懐疑、問いかけを排除し、したがって私が小説の精神と呼びたいものとは断じて和解できないのである。(クンデラ2016:26)

 スターリン主義の帝国では、小説史はほぼ半世紀前に停止している。したがって、小説の死というのはなんら根拠のない考えではなく、すでにじっさいに起こったことなのだ。そして私たちは今や、小説がいかにして死にかけるものかを知っている。つまり小説は消滅するのではなく、その歴史が停止し、あとに残るのがただ反復の時代であり、そこでは小説がその固有の精神を取りのぞかれた形式を再製するのみである。だからそれは誰にも気づかれず、誰にも衝撃をあたえない、隠された死になるのだ。(クンデラ2016:27)

 ここで語られているのは、全体主義における発禁、検閲、イデオロギー的圧力による小説の終焉である。小説というジャンルがなくなるわけではなく、ありきたりのパターンをひたすら反復するだけになって、次に開くべき局面が現れなくなってしまうということである。お決まりのパターンを何度でも繰り返すだけの、スタイルとして意外性のないマス・プロダクトな小説群は夥しい数量で生産され続けるだけで、世界認識の新しい局面を切り拓くことがないというのである。

 こうなるプロセスをクンデラは次のように描いている。

 だが残念ながら、小説もまた、世界の意味だけでなく作品の意味をも還元する還元の白蟻にさいなまれる。小説は(文化全体と同様)ますますメディアの掌中に握られ、地球の歴史の統合を代行するこのメディアが還元の過程を増幅し、誘導する。彼らは最大多数に、みんなに、人類全体に受け容れられるような同じ単純化と紋切り型を全世界に配給する。だからいろんな機関で様々に違った政治的利害が表明されることなどはさして重要ではない。この表面上の違いの蔭には共通の精神が支配しているのだから。左派であれ右派であれ、《タイム》誌から《シュピーゲル》誌までのアメリカやドイツの政治週刊誌にざっと目を通すだけで充分だ。彼らはいずれも同じ人生観をもち、この人生観が目次構成の同じ順序、同じ見出し、同じジャーナリズム形式、同じ語彙と文体、同じ芸術趣味、彼らにとって重要なものと無意味なものとが判断される同じ序列などのなかに反映されている。様々な政治的違いの蔭に隠されているマスメディアのこのような共通の精神が私たちの時代精神なのであり、この精神は小説の精神とは反対のもののように私には思われる。(クンデラ2016:31)

 小説の精神とは複雑性の精神であり、それぞれの小説は読者に「物事はきみが思っているより複雑なのだ」と言う。これが小説の永遠の真実なのだが、この真実は問いに先立ち、問いを排除する単純で迅速な答えの喧騒の中ではだんだん聞かれなくなる。私たちの時代精神にとっては、正しいのはアンナなのかカレーニンなのかであり、知ることの困難さと真実の捉え難さを語るセルバンテスの古い知恵などは迷惑で無益に思われるのだ。(クンデラ2016:31-32)

 「還元の白蟻」というのは、ものごとをステレオタイプに還元して終わりにしてしまう作用のことである。ものごとの複雑さに耐えることができないから単純化してしまう乱暴なやり方こそが現代の時代精神なのだろう。誰でも知っている既成の方程式に変数を入れるだけの処理。社会学ではおなじみの「システムの複雑性の縮減」がまさに複雑性を複雑なままに表現する小説の精神をなぎ倒すのである。

 クンデラは「還元の白蟻」について次のように描写する。

 地球の歴史の統合、意地悪くも神が達成を許したこのヒューマニストの夢は、目が眩むほどの還元の過程に伴われている。還元の白蟻たちが久しい以前から人間生活を蝕み、最高の愛すらも結局取るに足らない思い出の残骸にされてしまうのは事実である。しかし、この呪いは現代社会の性格によって途方もなく強化される。人間の生活はその社会的な機能に還元され、一国民の歴史はいくつかの出来事に還元され、これらの出来事が今度は一つの片寄った解釈に還元される。社会生活は政治的な闘争に還元され、この政治的な戦いはただ地球の二大強国の対決に還元される。人間はまさしく還元の渦巻きの中にいて、そこではフッサールが語った「生活世界」はどうしても霞んでしまい、存在は忘却の中に落ちこんでしまう。(クンデラ2016:30)

 このような「還元の白蟻」の典型として、ブロッホが抵抗した「キッチュ」がある。

 もう一人の大小説家、ヘルマン・ブロッホはキッチュの波に逆らうけれども、結局打ちのめされる現代小説の英雄的な努力について語ることになります。キッチュという言葉は何が何でも、最大多数の者たちに気に入られたいという態度を指します。気に入られるためには、みんなが聞きたがっていることを承認し、紋切り型の考えに奉仕しなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えという愚行を美と感動の言葉に翻訳することです。キッチュは、私たちがじぶん自身、私たちが考え、感じることの凡庸さにほろりとして注ぐ涙を引き出します。(クンデラ2016:228)

 コロナ禍にあって東京オリンピックが開催されている現時点でこれを読んでしまうと、テレビが視れなくなる。今さらではあるが、まさにテレビはこうした還元の装置である。

 「還元の白蟻」については、本書第7部の「エルサレム講演」の結び近くに「世界の出来事の因果的連続への還元」についての記述がある。

 十八世紀の合理主義はライプニッツの有名な文句「理由なく存在するものは何もない(nihil est sine ratione)」に基づいています。このような確信に刺激された科学は万物の何故を熱心に検討し、その結果、存在するものすべてが説明でき、したがって計算できると考えるようになりました。じぶんの人生になんらかの意味があることを願う人間は、原因も目的もないようなどんな行いも断念することになり、あらゆる伝記はそんなふうに書かれることになります。人生は原因、結果、失敗、それに成功の明るい軌跡として現れ、人間はみずからの行為の因果関係を示す繋がりにじりじりと眼差しを注ぎ、死に向かう狂おしい走行をますます速めることになります。(クンデラ2016:225-228)

 すべての物事をありきたりな因果関係に還元するというのも「還元の白蟻」なのである。それはなぜか。

 ポエジーは行動の中ではなく、行動が中断するところ、原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあると言うのです。スターンの小説は、実存のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのであります。それは計算できないものの中、因果関係の反対側に、理由がないまま(sine ratione)に、ライプニッツの文句の反対側にあるのだ、と。(クンデラ2016:226)

 このような例としてクンデラはフローベールによる「愚行の発見」を取り上げる。これこそ一九世紀最大の発見だと言う。

 もちろんフローベール以前にも、愚行が存在することを疑う者はいませんでしたが、それはすこし別なふうに理解され、たんに知識の欠如、教育によって正されうる欠陥と見なされていたのです。ところがフローベールの小説では、愚行は人間の実生活と不可分の側面になり、日々の生活を通して、愛の床や死の床まで哀れなエンマにつきまとうのです。(クンデラ2016:226?)

 しかし、フローベールの愚行の見方において、もっともショッキングでスキャンダラスなのは次のこと、すなわち愚行は科学、技術、進歩、現代性などを前にしても消えることなく、逆に進歩とともに、愚行もまた進歩する!ということなのです。(クンデラ2016:227)

 フローベールは底意地の悪い情熱を傾けて、じぶんの周囲の人々が利口であり、事情に通じていると見せようとして口にする、紋切り型の決まり文句を収集し、これをもとに有名な『紋切り型辞典』を作りました。この表題を使ってこう言いましょう。現代の愚行とは無知ではなく、紋切り型の考えの無−思考を意味しているのだ、と。フローベールのこの発見は、世界の未来にとって、マルクスやフロイトのもっとも衝撃的な考えよりずっと重要です。なぜなら、階級闘争のない、あるいは精神分析のない未来を想像できても、紋切り型の考えの抗しがたい増大のない未来は想像できないからです。紋切り型の考えはコンピューターのなかに登録され、マスメディアによって伝播されて、やがてどんな独創的で個人的な思考をも押しつぶし、その結果、近代のヨーロッパ文化の本質そのものを窒息させる力となりかねないのです。(クンデラ2016:227)

 では、当のフローベールはどのような小説を思い描いていたのか。気になるのでフローベールの書簡から引用しておく。いかにして紋切り型から距離を取るかについての決意と読める一節。

 ぼくにとって美しいと思われるもの、ぼくが書いてみたいもの、それは何についてでもない書物、外部との繋がりをもたず、地球が支えもなく宙に浮かんでいるように、文体の内的な力でみずからを支えている書物、できれば主題がほとんどないか、少なくとも主題がほとんど見えないような書物です。最も美しい作品とは、最も素材の少ない作品です。表現が思考に近づけば近づくほど、語は思考に密着して消えてゆき、いっそう美しくなる。(堀江敏幸編2016:732)

 このような志の高さは、たんに純粋なのではない。それは抵抗の精神である。

 私が知っていると信じるのはただ、小説がもはや私たちの時代精神とは平和に生きられないということだけだ。もし小説がなお、発見されていないものを発見しつづけたいのであれば、なお小説として「進歩」したいのであれば、世界の進歩に抗してしかそれをなしえないのだ。(クンデラ2016:33)

 生活世界の複雑な事実を「存在忘却」から守ることに小説の意味があるとするクンデラの議論に照らして、あるいはクンデラが「小説の知恵」と呼ぶことに照らして(クンデラ2016:220)ここで自分の立ち位置について思うことは、生活世界の事実は複雑なディテールの内部にしかないということ、数学化やアルゴリズム化による機械的単純化に抵抗し立ち向かわないかぎり、生活世界の事実の理解はできないということだ。まずはノーと言うこと。

 最後に、私自身のための読書案内をしておく。

 クンデラは「聞き届けられなかった呼びかけの墓場」としての小説の歴史を次のリストにまとめている。

遊びの呼びかけ:軽さ(ディドロ)

夢の呼びかけ:夢と現実の融合、想像力の爆発(カフカ)

思考の呼びかけ:知的な総合(ブロッホとムージル)

時間の呼びかけ:個人生活の時間から解放された集団の時間とヨーロッパの時間への拡大(ブロッホ、アラゴン、フエンテス)(クンデラ2016:28)

 こうしてみるとカフカ以外の作家の小説を読んだことがない。たとえば、ブロッホについては、最近『希望の原理』を入手したばかりで、小説としては長編の『誘惑者』が筑摩書房の古い筑摩世界文學大系にあり、後継のセレクト集である世界文学全集にも収められていた。どちらもかなりな大著である。世界文学全集は全巻揃いを購入したので、たいていの作家の作品は読める。筑摩世界文學大系については、こういう作業の中で端本を一冊ずつ買っている。ムージルについては、同じ全集に中編小説4編が収められていた。有名な『特性のない男』はレーヴィットが参照していたことがあって大昔から探しているが、翻訳はムージル全集に収められたものしかなく、長編であることもあってかなり高価になっている。アラゴンとフエンテスについてはまったくわからない。その点では、入手しやすいカフカを優先的に読みたいと思う。そして、そもそもセルバンテスの『ドン・キホーテ』について私はほとんど手に取ったことがなかった。完全版は筑摩世界文學大系にある。簡略版が集英社文庫ヘリテージシリーズ『ポケットマスターピース13セルバンテス』にある。派生ストーリーをカットして短くしたもので、私はこれで挑戦しようと思う。これだと四〇〇ページ。

 積み残し。1度は論じたいと思った引用なので、資源ゴミとして引用だけを記録しておく。

 第2部の「小説の技法についての対談」では次のような発言があった。

 人間と世界はかたつむりとその殻のように結びついているのであり、世界は人間の一部であり、人間の次元であって、世界が変わるにつれ、実存(in-der-Welt-sein)もまた変わるというものです。(クンデラ2016:55)

 第3部の「『夢遊の人々』によって示唆された覚書」では、ブロッホの小説が明らかにした「象徴の森」について次のように述べている。

 個人的なものであれ集団的なものであれ、あらゆる行動の基になっているのが混同のシステム、象徴的思考のシステムだと、ブロッホは私たちに理解させる。この非合理的なシステムが理性による考察よりもどれだけ私たちの態度を変えるものか見るには、私たち自身の生活を検討するだけで充分だ。(クンデラ2016:92)

 もう一度ボードレールの詩を引けば、人間は「象徴の森」の中で迷っている子供だ。(成熟の基準とは、象徴に抵抗する能力に他ならない。しかし、人類はますます幼稚になっていく。(クンデラ2016:93)

 同じ論考から。

 あらゆる偉大な作品には(そしてまさしくそれが偉大な作品だからこそ)未完成な部分がある。ブロッホは彼が達成したすべてのものだけではなく、目指したが到達できなかったすべてのものによっても私たちの創作意欲を掻きたてる。彼の作品の未完成の部分は私たちを次のような探求に誘うのだ。(1)徹底した簡略化の技法(このおかげで構築的な明瞭さを失わずに現代世界における実存の複雑性を見わたすことができる)。(2)小説的な対位法の技法(これによって哲学、物語、夢が唯一の音楽に接合できる)。(3)小説に特有のエッセーの技法(すなわち明白なメッセージをもたらそうとするのではなく、あくまで仮説的、遊戯的、イロニー的なものとしてとどまるエッセーの技法)である。(クンデラ2016:96)

 94ページを参照して上記を解釈すると、(1)は「ただ小説だけが発見できるもの」を追及できるということ。(2)は「小説には並外れた統合力があること」。(3)は小説は「遊びと仮定の領域」にあり、小説の外にある「断定の領野」にはないということ。これは112ページを参照。

 小説精神とは継続性の精神であり、それぞれの作品は先立つ作品への答えとなり、それぞれの作品の中には先行する作品の経験がそっくり含まれている。しかし私たちの時代精神は今日性(アクチュアリテ)の上に固定されている。今日性はじつに外向的で夥しいから、私たちの地平から過去を追い払い、時間を唯一現在の瞬間に還元してしまう。このような体系の中に加えられる小説はもはや作品(持続し、過去と未来を繋げるべきもの)ではなく、他の出来事と同じような今日の出来事、明日のない行為になってしまうのである。(クンデラ2016:32)

 平和にではなく戦争によって一体化する世界について。

 たとえば近代は様々な個別の文明に分かれていたが、いつの日か一体性を、そして一体性とともに、永遠の平和を見出す人類という夢をはぐくんできた。こんにち、地球の歴史は分割できない一つの一体性を成しているが、久しく夢みられてきたあの人類の一体性を実現し保証しているのは、たえず所を変える恒常的な戦争なのだ。人類の一体性とは、誰も、どこにも逃れられないということを意味するのである。(クンデラ2016:22)

 かつては私もまた、私たちの作品や行動を裁く唯一適格な審判は未来によってなされるとみなしていた。のちになって、未来との馴れ合いは最悪の順応主義であり、最強者への卑劣な追従だと理解した。というのも、未来はつねに現在よりも強いからだ。じっさい、私たちを裁くのはたしかに未来なのだろうが、しかしそれはきっといかなる適性もなしに、なのである。(クンデラ2016:33)