セオリー道場004弱い思考に定位する──ヴァッティモ、ロヴァッティ、エーコを読む

読解対象

ジャンニ・ヴァッティモ、ピエル・アルド・ロヴァッティ編著『弱い思考』上村忠男・山田忠彰・金山準・土肥秀行訳、法政大学出版会、2012年。

レッスンのポイント:長文引用練習

 ヴァッティモとロヴァッティ編『弱い思考』において対立概念とされる「強い思考」は、最高原理や究極目標や最終的真理を目指す思考である。

 編者二人による「まえおき」では次のように説明している。

「弱い思考」というタイトルには、こういった最近の思想動向のはらむ問題点についての批判的見解のすべてが込められている。すなわち、基本的に、つぎのような考え方がそのタイトルには込められているのである。(一)形而上学的明証性(したがって根拠のもつ強制力)と、主体の内と外において作動している支配とのあいだには結びつきがあるという、ニーチェの、そしておそらくはマルクスの発見を、真剣に受けとめなければならないということ、(二)だからといって、この発見をただちに──仮面を剥ぎ取り、脱神話化することをつうじて──解放の哲学へと語形変化させるのではなく、現象と言説手続きと「象徴形式」とを存在の可能的な経験の場とみて、これらのものからなる世界に、新しい、より友好的な──というのも、そこでは形而上学にあまり苦しめられず、伸び伸びとくつろぐことができるからであるが──まなざしを向けること、(三)しかしまた、その真意は「シミュラークルを称揚すること」(ドゥルーズ)にあるのではなく──そのようなことをしてみても、とどのつまり、シミュラークルに形而上学的な「オントース・オン〔存在者の存在〕」の重荷を背負わせることになってしまうだけだろう──、(ハイデガーの使っている「リヒトゥング(Lichtung)」という語のありうる意味のひとつに従うなら)おぼろげな光のなかで分節化されうる(それゆえ「推論されうる」)思考をめざすことにあること、(四)解釈学がハイデガーから採用した存在と言語の──きわめて問題の多い──同一化を、形而上学が科学主義的で技術主義的な成果をあげるなかで置き忘れてしまった、根源的な真実の存在を再発見するための方法としてではなく、痕跡や記憶としての存在、あるいは使い古され弱体化してしまった(そしてこのためにのみ注目に値する)存在に新たに出会うための方途として理解すること。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:5)

 私としては「現象と言説手続きと『象徴形式』とを存在の可能的な経験の場とみて、これらのものからなる世界に、新しい、より友好的なまなざしを向けること」に着目したい。たいせつなことは、世界の背後に存在する何かを想定するのではなく、経験可能な「現象と言説手続きと『象徴形式』」に即して世界を語ることである。形而上学的な何かによって境界づけられないような仕方で、ということだ。

 ヴァッティモは自分の論考で次のように念を押している。

 わたしたちが出発点とすることのできる経験、またわたしたちが忠実でなければならない経験とは、なによりもまず先にあるもの (innanzitutto)の経験であり、概して日常的な経験である。そして、このような経験はつねに歴史的な性質を付与され濃密な文化の累積を支えとする経験でもある。なんらかの還元とかエポケーをつうじて歴史文化的な地平へのわたしたちの同意を中断することによって到達しうるような、経験の可能性の先験的[超越論的]条件といったものは存在しない。経験の可能性の条件はつねに歴史的な性質をおびている。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:10-11)

 さらに真理の概念について次のように述べている。

 真理は、明証というタイプのノエシス的把握の対象ではない。そうではなくて、すでにつねにそのつどあたえられている一定の手続きを尊重しながらなされる検証過程の結果である(《現存在〉であるかぎりでわたしたちを構成する世界の投企)。いいかえると、それは形而上学的ないしは論理学的なものではなくて修辞学的な性質を有している。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:31)

 このような「真理の修辞学的なとらえ方」をしたい。これによって新しい「配置」つまり知の配置が見えてくるかもしれない。

 ロヴァッティは「経験の過程でのさまざまな変容」論文の「弱い思考とはなにを意味するのか」という節において、哲学者の名前を出さない説明の仕方で語る。

 わたしたちがもろもろの事物に付与している意味、わたしたちのノーマルな知とでも呼びうるものは、通常、反省を要求することのない自動的なものとしてわたしたちに提供される。しかし、じつをいうと、そのように自動的とみえるのは、一連の論理的・文化的な操作一般の結果なのである。わたしたちは、自分たちが引きずり込まれている潮流はたえず水位が上昇し水量も増すと考えており、自分たちの認識が進歩していくことをなんら疑っていない。そしてたしかにわたしたちの自由になる情報量が増大しており、大小の知の網の目が細かくなっていることには疑いがない。しかし、それはなによりも名称の問題なのだ。使われる術語は増えるが、操作のタイプそのものは変わらない。わたしたちに提供される自動的で反省を要求することがないように見えるものは、じっさいには力ずくで遂行される単純化の結果でしかない。そして、その単純化はとりもなおさず抽象化の過程にほかならない。というのも、それは事物を経験の総体から分離して最小限のものに還元し一点に統合すること、いろいろと放棄がなされたり遺漏が生じたりするのを犠牲にしても、いくつかの単純な要素、いつも同一で、あらゆる認識の固定した流出路をなす要素を手に入れることを目指すからである。日常的なもののありきたりの論理は、単純化と抽象の最大限値に服従させられてしまう。認識と伝達の行為はこうして途方もなく容易なものとなり、社会的な力を獲得するにいたるのである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:36-64)

 とくに注目すべきは「わたしたちに提供される自動的で反省を要求することがないように見えるものは、じっさいには力ずくで遂行される単純化の結果でしかない。そして、その単純化はとりもなおさず抽象化の過程にほかならない。」という記述である。「力づく」なんだ。それが私たちの教科書として立ち現れてきたり経験値として押しつけられてきたりするということである。教科書主義も前例主義も根は一つだ。力づくの単純化なのである。

 フーコー流に言えば強い思考は排除し切り捨てる。それに抗するためには、関係の束を解きほどき、解きほどいたものをそのまま保存するようなやり方で記述するしかないのではないか。

 この本に収められた「反ポルフュリオス」という論考の中で、ウンベルト・エーコはさらに独特の解釈を論じてみせてくれる。エーコは、思考は意味論的に強い「辞書」ではなく、弱い「百科事典」であるべきだというのだ。『弱い思考』が一九八三年刊行なので、おそらくこの論考が元になる詳論が一九八四年の単著『記号論と言語哲学』第2章「辞書対百科事典」になるのだろう。

 エーコは強い思考には二つの理想があるという。経験界あるいは自然界の複雑さの理由を明らかにする思考であること、そしてコントロール可能な程度に縮減されているが世界の構造を反映している世界モデルを構築することである。このように要約してみると、強い思考がいかに虫のいい要求を掲げているか、よくわかる。それは経験界あるいは自然界の複雑さをきちんと反映していなければならない。しかも、その世界モデルはコントロールできないほど複雑であってはならないというのであるから。

 この部分だけでフッサールを思い出す。晩年のフッサールは、ガリレイ物理学に始まる世界の数学化こそが現代の悲惨を帰結していると主張していた。この数学化こそが典型的な強い思考ではないか。

 エーコ論文に話を戻すと、意味論的に強い思考は「辞書」だという。

 理想的な辞書はつぎのような特質をもつ。

(1)有限な構成要素を接合して、不特定多数の語量の意味を表現することができなければならない。

(2)右の構成要素はより小さな構成要素で解釈されてはならず(さもなければ、1の要件が満たされないであろう)、原素 (primitivi)を構成しなければならない。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:83-84)

 しかし、このような「辞書の理論的理想は実現不可能であり、どんな辞書も、純粋性を侵食する百科事典的要素を含んでいる」という。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:84)

 エーコはこのことをその原初形態としてポルフュリオス『アリストテレス範疇論入門』を取り上げて論証する。この論証は私にはわからない。系統樹によって論理を組み立てるやり方の破綻(エーコはこれを「論理的痙攣」と呼ぶ)として理解しておく。

 しかし、これは辞書を引く時にしばしば経験する無限ループと関連があるくらいのことはわかる。少数のモデル言語によって世界の自然言語を説明できるわけがない。

 というわけで、理論モデルとしての辞書はじつは「擬装された百科事典」ということになる。これによって自然言語とモデル言語の区別がなくなり、理論的メタ言語と対象言語の区別がなくなる。このごたまぜな感じが百科事典なのだ。

 百科事典は解釈の、したがって、無限の記号過程 (semiosi illimitata)のパース的原理によって支配されている。言語が表現するどんな思考も力動的対象(あるいは物自体)の「強い」思考では決してなく、それ自身他の表現によって解釈することができる直接的対象(純粋な内容)の思考である。この表現は、自立的な記号過程において他の直接的対象を参照させるのである。たとえ、パースのパースペクティヴにおいて、解釈者のこのひと連なりが習慣を、したがって、自然的世界の変形という様態を生じさせるとしても。しかし、力動的対象としての世界に関するこの行為の結果は、それ自身他の直接的対象を介して解釈されなければならず、こうして、自己自身の外へひんぱんにあらわれ、自己自身へとひんぱんに閉じこもるという、記号過程の円環が生じるのである (Eco 1979, 2 参照)。

 百科事典における意味論的思考が「弱い」というのは、表現のためにわれわれが言語をどのように使うかをうまく説明できないという意味ではない。この思考は、意味の法則を文脈と状況の継続的な境界設定にしたがわせる。百科事典における意味論は、ある言語の表現の生成と解釈のための規則を提供することを拒否しないが、この規則は、文脈へと方向づけられている。意味論は実用論を組みいれている(辞書は、記号論化されているとはいえ、世界の認識を組みいれている)。百科事典を生産的に弱くしているのは、百科事典によっては、決定的で、閉じた表現が決して与えられないという事実、百科事典的表現は決してグローバルではなく、つねにローカルであり、特定の文脈と状況に際して提供され、記号論的活動に限定されたパースペクティヴを構成するという事実である。つぎに見るように、もし百科事典的モデルがアルゴリズムを供給するならば、そうしたアルゴリズムは、迷宮を進むことを可能にするアルゴリズムのように、近視眼的でしかありえない。百科事典は合理性の完全なモデルを提供するのではなく(整序された世界を一義的な仕方で表現するのではなく)、合理的であることの規則を、それぞれの段階で、条件を協議するための規則を提供するのである。その条件が、整序されていない(あるいは、秩序の基準が見逃されている)世界に──秩序のなんらかの暫定的な基準にしたがって理(ことわり)を与えるためにわれわれが言語を使えるようにするのである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:107-108)

 まず「無限の記号過程」とはどういうことか。篠原資明『エーコ──記号の時空』講談社、1999年には次のように説明されている。

解釈項の理論

 パースの記号論、とりわけその解釈項の理論を、エーコは高く評価する。パース自身による解釈項の定義は、かなりばらつきのあるものだが、エーコは、実り多い仮説と断ったうえで、次の定義を採用するだろう。すなわち、解釈項とは、「同一の対象と結びつけられる別の表象である」のだと。さらに続けて次のように言い換えている(『記号論』2.7.1)(篠原資明1999:120)

 ここからエーコの『記号論』が引用される。孫引きになるが、とりあえずここで学んでしまう。『記号論』を正面から読解する作業は近いうちに来るはずだから。

 記号の解釈項とは何であるかを明らかにしようとすれば、別の記号でそれを名指すことが必要になろうし、その記号はまた別の記号で名指されるといったふうに続いていくのである。この点で、無限の記号過程が始まる。これは、逆説的に思えるかもしれないが、完全に自らの手段によるだけで自らを検証しうるような記号体系の基礎を保証する唯一のものなのである。(篠原資明1999:120)

 こうしてみると「記号過程の円環」というのは再帰的循環のことではないかと思う。

 第二に「意味の法則を文脈と状況の継続的な境界設定にしたがわせる。」とはどういうことか。これは「グローバルではなくローカル」という言明に通じる。要するに普遍的ということはないのだ。必ず限定された領域における文脈に依存しているということ。

 第三にアルゴリズム云々の議論は「機械的に延長していくとどうなるか」ということである。どうなるのか。それは迷宮になるとエーコは言う。百科事典モデルでは、ポルフュリオスの樹形図のように「多次元的な迷宮を二次元的な図式に還元する試み」(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:109)は徹底的に排除される。迷宮は迷宮として現象するということだ。迷宮としてエーコが挙げるのは、一方向的な迷宮、迷路、網状組織の三つのタイプである。網状組織についてはリゾームにも言及されている。そして、これこそが百科全書で採用された迷宮だという。エーコは百科全書の編集方針を参考要求して長めの引用をしている。これについてはあとで検討しよう。むしろエーコはこの序論に準拠して「弱い思考」について(あるいは百科事典的モデルについて)語っているように見える。

 「反ポルフュリオス」論文の最後は次のようなパラグラフで締められている。

 理性の危機が語られるとき、グローバル化した理性が念頭にある。これは、世界に(世界がそうであるから、あるいは、そうであるならば)適用される、その「力強く」定義されたイメージを提供することを欲していた。迷宮の思考、百科事典の思考は、推測的で文脈依存的であるかぎり、弱くはあるが、しかし合理的である。というのも、この思考は間主観的コントロールを可能にし、断念にも、独我論にも流れ込まないからである。これが合理的であるのは、包括性を要求しないからである。これが弱いのは、相手の勢いを自分のものとする東洋の闘士が弱いのと同様である。彼は、他者が創りだした状況で、勝ち誇って応答するための(推測可能な)方法を後で見つけるために、相手に屈服しようとする。東洋の闘士は、前もって整えられた規則をもたず、外から与えられるすべてのできごとを一時的に規制するための推測的なマトリクスをもっている。そして、適切な、最終的条件へと、できごとを変えるのである。格闘は強い辞書次第だと信じているひとの前では、彼は「弱い」。彼はときどき強く、勝利する。彼は合理的であることに満足しているからである。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:114)

 とくに「これが合理的であるのは、包括性を要求しないからである。」に注目したい。弱い思考の、これが最大の強さだと思う。

 じつはこれに似た考え方について論じたことがある。それはレヴィ=ストロースの「バラ模様型」の言説である。この発言は、クロード・レヴィ=ストロース/ディディエ・エリボン『遠近の回想』竹内信夫訳、みすず書房、 1991年にある。

 では現在、ひとたびプロポリス言説圏に入った人がどのような言説に遭遇することになるのか。紙数の関係でプロセス抜きの印象批評的な説明にならざるを得ないが、それなりに共通するものと変奏されるものとに分けて整理しておこう。

 第一に、それは徹底した自己中心性の言説である。他の民間医療や健康食品については言及しない。と同時に他の健康食品を批判する言説もまたほとんどない。禁欲的なまでの自己完結性と言っていいかもしれない。それは神話について語ったレヴィ−ストロースの次の説明そのままである。「中心にどんな神話を選ぼうとも、その変異形がその周囲に広がっていて、バラ模様の形を作っているのです。それがだんだん広がっていきながら複雑な形を作り上げる。またそのバラ模様の周辺に位置している変異形を一つ選んで、それを新しい中心に据えるとしますね。すると同じことが起きて、別のバラ模様が描き出されるのです。この新しいバラ模様は、最初のバラ模様と部分的には重なり合っていますが、それからはみ出したところもある。」(レヴィ=ストロース 1988=1991:230)

 おそらくバラ模様を描くプロポリス言説圏の場合も、アガリクス言説圏、クロレラ言説圏、キチン・キトサン言説圏、霊芝言説圏、そして赤ワイン=ポリフェノール言説圏などと相互に重なり合いながら、それぞれの自己中心的世界を描くのであろう。比較の視点は用意されない。(野村一夫「メディア仕掛けの民間医療──プロポリス言説圏の知識社会学」佐藤純一編『文化現象としての癒し──民間医療の現在』2000:121-122) 

 この論文を書いて以降、バラ模様型言説については放置していた。再確認が必要だ。

 最後に、エーコが引用した『百科全書』の編集方針の記述を読んでみたい。中略を二つ含んでいる。

 学問と技術との一般的〔全体的〕体系は曲りくねった道をなす一種の迷路であり、そのなかへ精神は自分がとるべき道をあまり知らずに入ってゆくのである。……しかし、この無秩序は、精神の本分から生じるまったく哲学的な無秩序であるが、そのままでは、精神をそこに写しだすことが望まれている百科全書の樹を醜いものにするか、あるいはむしろそれを完全に壊してしまうであろう。

 さらに、私たちが「論理学」に関してすでに明らかにしたように、他のすべての学問の諸原理を内蔵していると見なされ、このため百科全書的順序においては当然最上位を占めるはずの学問の大部分が、観念の生成史的順序において同じ地位を占めることはない。なぜなら、こうした学問は〔時間的に〕最初に創り出されたのではないからである。……

 要するに、私たちの知識の体系はさまざまな部門から構成され、そのいくつかは同じひとつの結合点をもっている。この結合点から出発しても、一度にすべての道に入ることはできないから、どの道を選択するかは個々の精神の生来の資質が定める。……

 私たちの知識の百科全書的順序に関しては事情は同じではない。この順序は、私たちの知識をできるかぎり小さい場所に寄せ集めて、いわば哲学者をこの広大な迷路の上で、主要な学問と技術を一度に見わたせるような非常に高い視点に位置づけることで、成立する。すなわち、哲学者は、その高い視点から、自分の理論的考察の対象とその対象に加えうる〔技術的〕操作を一目で見ることができ、人間知識の一般的諸部門と、それらを分離・結合する諸点とを見分けて特徴づけることができ、さらにときには、各部分をひそかに関係づけている秘密の通路をかいま見ることさえもできよう。それは一種の世界全図である。この地図は、主要な国々の位置と相互依存、ある国から他の国へと直通する道、を示さなければならないが、この道は数知れない障害物によってしばしば遮断されている。しかもこの障害物は各国の住民と旅行者にしか知られえず、非常に詳細な個別的な地図にしか示されえないであろう。これらの個別的な地図がこの「百科全書」の個々の諸項目にあたり、「系統図」あるいは「体系」が個別的な地図をまとめる世界全図となるであろう〔ディドロ、ダランベール『百科全書──序論および代表項目』桑原武夫訳編、岩波文庫、一九七四年、六五─六七頁〕。(ヴァッティモ、ロヴァッティ2012:112-113)

 序論を書いたのはダランベールである。ダランベールは人間知識の全体を系統樹で提示してはいるが、エーコが引用しているのは、そのことに但し書きをしている部分である。これはネットワーク上に設置されたハイパーテキストを想起すれば今はかんたんに理解できる。そして、まさにバラ模様状ではないか。これこそ「弱い思考」なのだ。

 さらに私は「弱い思考」にキュビズムを加えたい。「弱い思考」に出会う前は「理論的キュビズムの立場を取る」と宣言していたくらいなのだ。キュビズムを成立させたのはブラックとピカソの二人であり、その直前には後期セザンヌがいた。この三人は遠近法という「強い思考」から脱出して、もののかたちの描き方を根本から変えた人たちである。近いうちに私はとりあえずこの三人の画家に焦点を当てて「弱い思考」としてのキュビズムについて論じてみたい。手元には次の三冊を用意した。

ニール・コックス『キュビズム』田中正之訳、岩波世界の美術シリーズ、岩波書店、2003年。

飯田善國『ピカソ』岩波書店、1983年。

アルベール・グレーズ『キュービスム』貞包博幸訳、中央公論美術出版、1993年。

 これからは、屈強で偏狭な「強い思考」に別れを告げて、輪郭のはっきりしない「弱い思考」に移行する作業に入る。一見すると手広いぼんやりした作業だが、ネットワーク上のものについてはすでに明確なイメージを私はもっているので、それほど困難は感じない。ただ、手数が多いだけである。

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