セオリー道場001小説こそが生活世界を明るみにしてきた──ミラン・クンデラ『小説の技法』を読む

今回の読解対象

ミラン・クンデラ『小説の技法』第1部「評判の悪いセルバンテスの遺産」 西永良成訳、岩波文庫、2016、9-34ページ。

レッスンのポイント:長文引用練習

 詩については多くの詩論を読んできて、それなりに理解できていた。しかし小説についてはそうではなかった。小説の批評の方は理解できる。では、小説そのものは?

 半ばあきらめかけては小説論を読んでいたところの一冊。ここでは冒頭の論考「評判の悪いセルバンテスの遺産」にフォーカスを絞って考えてみたい。

 私の思考をわしづかみしたのは冒頭フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の元になった一連の講演から始まっていることだった。

 死の三年前の一九三五年、エトムント・フッサールはウィーンとプラハでヨーロッパ的人間性の危機に関する有名な講演をおこなった。彼にとって「ヨーロッパ的」という形容詞は、古代のギリシャ哲学とともに生まれ、地理的なヨーロッパを越えて、(たとえばアメリカに)広がった精神的同一性のことを指している。古代のギリシャ哲学こそが〈歴史〉において最初に、世界(総体としての世界)を解決すべき問題として把握し、しかじかの実際的欲求を満たすためではなく「人間が認識の情熱にとりつかれた」がゆえに、世界に問いかけたというのである。

 フッサールが語っている危機はじつに根深いものに思われたので、はたしてヨーロッパはこの危機の後も生き残ることができるかどうかと、彼自身が自問したほどだった。彼はこの危機の根源が近代の黎明期に、ガリレイやデカルト、すなわち世界を技術・数学的探求のたんなる一対象に還元して、その地平から人生の具体的世界、彼の言葉では「生活世界 die Lebenswelt」を排除したヨーロッパ諸科学の一方的な性格にあると信じていた。

 人間は諸科学の飛躍的な発展によって、様々に専門化された領域のトンネルに押しやられ、知識が増えれば増えるほど、世界の全体もじぶん自身も見失っていった。その結果、フッサールの弟子のハイデガーが「存在忘却」という美しく、ほとんど魔術的な言い回しで呼んだものの中に沈みこむことになった。

 かつてデカルトによって「自然の支配者にして所有者」の地位にまで祭り上げられた人間は今や、人間を超え、人間を凌駕し、所有する諸力(技術、政治、〈歴史〉などの力)にとってはたんなる事物にすぎなくなった。これらの諸力には人間の具体的な存在、人間の「生活世界 die Lebenswelt」はもはやなんの値打ちも面白みもないものになって霞んでしまい、あらかじめ忘れられているのだ。(クンデラ2016:11-12)

 このときフッサールは大学教授の名簿から外され、国際学会への出張も認められず、事実上公的研究活動ができなかった。つまり自身も1933年に誕生したヒトラー政権から正式に排除された状態であった。この講演は1935年。ウィーンとプラハにおける講演である。このとき自由な学問活動は統一されたドイツでは不可能になり、中欧の歴史的都市においてなされたのである。

 勇み足で先取りをして言っておくと、彼自身を排除したナチズムは、ヨーロッパ近代のプロジェクトのゆがめられたヴァージョンだった。その分岐点にいるのはガリレイで、彼は自然の数学化に舵を切った。自然の数学化によるリアルな現実へのアクセス(それは絶えざる近似値への接近)だった。これによって生活世界のディテールは根こそぎ「存在忘却」されることになったというのである。

 しかしクンデラは、それは近代の両義性を指摘したのであって、近代のプロジェクトには他の重要な知的潮流があるのだという。

 私ならむしろ、このふたりの偉大な哲学者は、堕落であると同時に進歩であり、人間的なもののすべてと同じく、誕生のうちに終罵の萌芽を含んでいたこの時代の両義性を明るみに出したのだと言うだろう。このような両義性があるからといって、ヨーロッパのこの四世紀が貶められていいとは思えないし、哲学者ではなく小説家である私としては、なおさらそれに愛着を感ずる。というのも、私にとって近代の創始者はデカルトだけではなく、またセルバンテスでもあるからだ。(クンデラ2016:13)

 このふたりの現象学者が近代を評価するさいに考慮するのを怠ったのは、おそらくセルバンテスだろう。つまり私は、哲学と諸科学が人間存在を忘却したというのが事実なら、セルバンテスとともに一つの偉大なヨーロッパの芸術が形成され、この芸術が当の存在忘却の探求に他ならないことが、よけい明瞭に分かると言いたいのだ。(クンデラ2016:13)

 セルバンテスに始発点を持つ、小説の伝統と進歩。これこそが忘却された生活世界を掘り起こしてきたとクンデラは主張する。

 じっさい、ハイデガーが『存在と時間』の中で分析し、これまでの哲学全体によって打ち捨てられていると判断した実存の主要なテーマのすべては、この四世紀のヨーロッパの小説によって明るみに出され、示され、解き明かされてきたのである。小説は固有の仕方、固有の論理によって、人生の様々な諸相を一つひとつ発見してきた。すなわち、セルバンテスの同時代人たちとともに冒険とは何かを問い、サミュエル・リチャードソンとともに「内面に生起するもの」を検討し、秘められた感情生活を明るみに出しはじめ、バルザックとともに〈歴史〉に根ざす人間を発見し、フローベールとともにそれまで「未知の大陸 terra incognita」だった日常性を探求し、トルストイとともに人間の決断と行動に介入する非理性的なものに関心を寄せた。小説は時間を測定して、マルセル・プルーストとともに過去の捉えがたい瞬間を、ジェームズ・ジョイスとともに現在の提えがたい瞬間を測定した。トーマス・マンとともに時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた、等々。(クンデラ2016:13-14)

 小説は近代の端緒からたえず人間に忠実に伴ってきた。この端緒から、「認識の情熱」(フッサールがヨーロッパ的精神性の本質とみなす情熱)が小説にとりついて、小説は人間の具体的な生活を吟味し、これを「存在忘却」から保護して、「生活世界」に絶え間なく照明をあてることになった。この意味において、ただ小説だけが発見できることを発見することこそ小説の唯一の存在理由だ、と執拗に繰りかえし述べたヘルマン・ブロッホを私は理解し、彼に賛同する。それまで未知だった実存の一部分でも発見しない小説は不道徳であり、認識こそが小説の唯一のモラルなのだ。(クンデラ2016:14)

 フッサールがヨーロッパ的精神とみなす「認識の情熱」つまり「総体としての世界を問題として認識したい」という思考には、小説という系譜も存在するというのだ。そしてそれは近代の生活世界の方に照明を当てる。

 小説はヨーロッパの所産であり、様々な言語でなされていても、小説の諸発見はヨーロッパ全体のものだということである。諸発見の継承(すでに書かれたものの加算ではない)こそがヨーロッパの小説史となっているのであり、このような超国民的なコンテクストにおいてのみ、一つの作品の価値(つまりその発見の射程)が十全に検討され、理解されるのである。(クンデラ2016:14-15)

 ここで一区切り。一般的に小説はそれぞれの地域や国の環境や生活や風俗を描き出すと思われてきたと認識していたが、それは世界そのものを認識したいという、もう一つの方法だということだ。では、なぜそうした認識への欲求が小説というスタイルに結晶することになったのか。

 神がそれまで宇宙とその価値の秩序を統御して善悪を区別し、それぞれの事物に一つの意味をあたえていた場所からゆっくりと立ち去ろうとしていたとき、ドン・キホーテは家の外に出てみたものの、世界を世界として認識することがもはやできなくなっていた。〈最高審判者〉がいない世界は、突如恐るべき両義性をまとって現れ、神の唯一の〈真理〉は多数の相対的な真実に解体されて、人間たちがそれを分かちもつことになった。このようにして近代の世界、それとともに近代のイメージとモデルとしての小説が誕生した。(クンデラ2016:15)

 ここで述べられているのは、神なき世界としてのヨーロッパ近代のスタートラインで生じた認識上の混乱である。この混乱はおそらく視覚障害のあった人が手術によって視野を獲得したその瞬間に生じる混乱のようなものだと思う。あるいは逆に眼の病気によって視覚を喪失した人に生じる混乱のようなものかもしれない。後者については、梅棹忠夫『夜はまだあけぬか』(講談社文庫、1995年)に詳しい記述がある。あるいは幼少から幽閉されたまま育ったカスパル・ハウザーの例。しかし、ミクロな場面にフォーカスしていくと、それが必ずしも特殊な経験でないことはあきらかである。夏目漱石『三四郎』に始まる、地方の農村から都会に出てきた青年たちが共通に体験する混乱を想像してみればいい。これは前近代的社会から近代的世界に降り立った人間に共通する体験である。

 このような事態をより一般化すると、現象学とその後継者たちが「自明性の喪失」と呼ぶ現象に他ならない。「自明性の喪失」は社会学でも広く使われている捉え方である。

 デルタ株によるコロナ感染第5波の渦中にある現在の東京においても「自明性の喪失」による認識の混乱は続いている。時間と空間を共有し皮膚感覚で交流することによって親密な関係を築いてきた人たちの自明性は、ちょうど「図と地の反転」のように感染対策上の回避事項になっている。そういうとき、新しい状況において従来の認識を切り換えられない人たちや、ビジネスモデルを切り換えられない組織の人たちが、どうしていいかわからないまま居直ってみせることで感染は拡大し混乱がますます複雑化する。みんなパンデミックに投げ出されたドン・キホーテなのだ。

 その混乱のなかで際立つのは多声性である。これまでは伽藍いっぱいを満たしてきた絶対者の声が相対的に小さく残響するように変化していく過程で、そこに置かれた人たちはくちぐちに問い・怒り・泣き叫ぶ。それら多数の声は、相互に反応し合って、複雑な残響を構成していく。

 セルバンテスとともに世界を両義性として理解し、唯一の絶対的な真理ではなく、互いに異論を唱え合う多数の相対的な真実(登場人物と呼ばれる想像的自我に体現される真実)に直面しなければならず、その結果、唯一の確信として不確信性の知恵をもつようになるのにも、やはり大きな力が必要とされる。(クンデラ2016:16)

 小説の登場人物は作者によって創作された自我である。それら想像上の自我は小説空間の中でくちぐちに現状認識を語り、自分の心情を語る。同意する他の想像的自我があるかと思えば、ムキになって反論する想像的自我もある。小説空間において絶対的なワンヴォイスは存在しない。読者がそのような小説空間にひとたび入るや、相対的な真実が浮遊する世界を受け入れざるを得なくなる。

 人間は善悪が明確に区別できる世界を願う。というのも、理解する前に判断したいという御しがたい生得の欲望が心にあるからだ。この欲望の上に諸々の宗教やイデオロギーが基づいている。これらは相対的で両義的な小説の言語を明白で断定的な言説の形に言い表せる場合にしか小説と和解できず、つねに誰かが正しいことを要求する。アンナ·カレーニナが偏狭な暴君の犠牲者なのか、カレーニンが不道徳な女性の犠牲者なのか、そのどちらかでなければならないのだ。あるいは、無実なKが不正な法廷によって粉砕されるのか、裁判所の背後に神の正義が隠れているのだからKは有罪なのか、そのどちらかでなければならないのだ。 

 この「どちらかでなければならない」ということの内に、人間的事象の本質的な相対性に耐えることができない無能性、〈最高審判者〉の不在を直視できない無能性が内包されている。このような無能性のために、小説の知恵(不確実性の知恵)を受け容れ、理解することが困難になるのである。(クンデラ2016:16)

 結論が宙に浮いた状態に耐えられないという無能さ。むしろ「宙ぶらりんの恐怖」と呼ぶべきか。

 推理小説のように必ず結論に導いてくれるスタイルが好まれるのは、一度読み出したら結末まで読まないとおさまらないのは理の当然とも言える。「宙ぶらりんの恐怖」から逃げ出したいから。結末が存在するという確信があるから。

 物語構造が繰り返し使用される作品群が並列的に林立するのも「和解」の仕方なのだろう。キャンベルの言う「ヒーローズ・ジャーニー」にせよ折口信夫の「貴志流離譚」にせよ、物語のプロットはある程度収斂する。収斂するから物語だとも言える。物語において読者はある程度の予測を立てて読むから、途中で投げ出さない。

 この場合、解決へ向かっているのだと確信できることが重要で「すべては回収される」との確信があるから「宙ぶらりんの恐怖」に耐えられるのだ。ジェットコースター(絶叫マシン)もかならず帰還できるから耐えられる。この場合はむしろ「システムへの信頼」と言うべきなのかもしれないが。

 ここからは20世紀的世界認識に入る。そこで小説空間が遭遇するのは理由なき権力の姿である。

 力は露骨、カフカの小説におけるのと同じように露骨なのである。じっさい、法廷がKを処刑することによってなんら得るものがないのと同様、城は測量士をやきもきさせることによってなんの得をするわけでもない。(クンデラ2016:21)

 いや、ちがう。力の攻撃性はまったく利害を超えたもの、動機のないものであり、それはおのれの意欲しか欲せず、ただたんに不合理なものなのだ。(クンデラ2016:21)

 したがってカフカとハシェクは、次のような途方もない逆説に私たちを直面させる。すなわち、近代のあいだ、デカルト的理性は中世から引き継がれたあらゆる価値を一つひとつ腐食させていった。だが、理性の全面的な勝利の瞬間に世界の舞台を占拠することになるのは、たんに不合理なもの(ただおのれの意欲しか欲しない力)なのだ。なぜなら、この不合理なものを阻止できるような、共通に認められた価値体系などもはや何もないのだから。(クンデラ2016:21-22)

 クンデラがフッサールとハイデッガーを通して指示している「デカルト的理性」という近代的なるものは、社会学で「システム」と呼ぶ一連の制度構成体のことだと思う。ハーバーマスの有名な対立図式を借りると「システムによる生活世界の植民地化」において生起する状況のことだと理解していいと思う。クンデラの意をくむと「植民地化」の代わりに「侵食」と呼んでもいい。

 この不合理な力を二〇世紀小説はどのように描いたか。クンデラは次のように総括する。

 人間がただおのれの魂の怪物とだけ闘っていればよかった最後の平和な時代、ジョイスとプルーストの時代は過ぎ去った。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホらの小説では、怪物は外からやってくる。それが〈歴史〉と呼ばれるものだが、この怪物はもはや冒険家たちの列車とは似ても似つかない、非人格的で、統御も計測もできず、理解を超える──そして誰も逃れられないものだった。この時(一九一四年の戦争直後)に中央ヨーロッパが輩出した偉大な小説家たちは、近代の最後の逆説に気づき、触れ、捉えたのだった。(クンデラ2016:23)

 逆に、これらの小説家たちは「ただ小説だけが発見できること」を発見する。(クンデラ2016:23)

 例えばマックス・ウェーバーが官僚制について、あるいは国家について、あるいはカリスマの日常化と教団・教義の構築について述べるとき、そして「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」で、もとは「絶対的孤独の感情」から個人として覚醒した信徒たちのBerufから離陸した資本主義というシステムがやがて個人のそうした心情とはまったく無関係に作動する巨大な自動機械になっていくプロセスを描いてみせたように、近代というプロジェクトの無慈悲で無責任なありようを、カフカのような小説家は、そのとんでもなく不条理な設定と展開でもって指し示しているのである。ウェーバーが「鉄の檻」と呼んだものをカフカは「城」と呼ぶ。

 「鉄の檻」も「城」も徹底的な一元化システムであるから、多様で多声的で両義的な生活世界を表現する小説は、必ずそのような強大な力と対立する。

 人間的事象の相対性と両義性に基盤を置く世界のモデルとしての小説は、全体主義の世界とは両立できない。この非両立性は異端派と共産党幹部、人権擁護派と拷問者をへだてる非両立性よりもさらに根深い。なぜなら、この非両立性は政治的もしくは道徳的であるばかりか、存在論的なものだからだ。これは唯一の〈真理〉に基づく世界と両義的かつ相対的な小説の世界とは、それぞれまったく別の質料によってつくられているということに他ならない。全体主義的な〈真理〉は相対性、懐疑、問いかけを排除し、したがって私が小説の精神と呼びたいものとは断じて和解できないのである。(クンデラ2016:26)

 スターリン主義の帝国では、小説史はほぼ半世紀前に停止している。したがって、小説の死というのはなんら根拠のない考えではなく、すでにじっさいに起こったことなのだ。そして私たちは今や、小説がいかにして死にかけるものかを知っている。つまり小説は消滅するのではなく、その歴史が停止し、あとに残るのがただ反復の時代であり、そこでは小説がその固有の精神を取りのぞかれた形式を再製するのみである。だからそれは誰にも気づかれず、誰にも衝撃をあたえない、隠された死になるのだ。(クンデラ2016:27)

 ここで語られているのは、全体主義における発禁、検閲、イデオロギー的圧力による小説の終焉である。小説というジャンルがなくなるわけではなく、ありきたりのパターンをひたすら反復するだけになって、次に開くべき局面が現れなくなってしまうということである。お決まりのパターンを何度でも繰り返すだけの、スタイルとして意外性のないマス・プロダクトな小説群は夥しい数量で生産され続けるだけで、世界認識の新しい局面を切り拓くことがないというのである。

 こうなるプロセスをクンデラは次のように描いている。

 だが残念ながら、小説もまた、世界の意味だけでなく作品の意味をも還元する還元の白蟻にさいなまれる。小説は(文化全体と同様)ますますメディアの掌中に握られ、地球の歴史の統合を代行するこのメディアが還元の過程を増幅し、誘導する。彼らは最大多数に、みんなに、人類全体に受け容れられるような同じ単純化と紋切り型を全世界に配給する。だからいろんな機関で様々に違った政治的利害が表明されることなどはさして重要ではない。この表面上の違いの蔭には共通の精神が支配しているのだから。左派であれ右派であれ、《タイム》誌から《シュピーゲル》誌までのアメリカやドイツの政治週刊誌にざっと目を通すだけで充分だ。彼らはいずれも同じ人生観をもち、この人生観が目次構成の同じ順序、同じ見出し、同じジャーナリズム形式、同じ語彙と文体、同じ芸術趣味、彼らにとって重要なものと無意味なものとが判断される同じ序列などのなかに反映されている。様々な政治的違いの蔭に隠されているマスメディアのこのような共通の精神が私たちの時代精神なのであり、この精神は小説の精神とは反対のもののように私には思われる。(クンデラ2016:31)

 小説の精神とは複雑性の精神であり、それぞれの小説は読者に「物事はきみが思っているより複雑なのだ」と言う。これが小説の永遠の真実なのだが、この真実は問いに先立ち、問いを排除する単純で迅速な答えの喧騒の中ではだんだん聞かれなくなる。私たちの時代精神にとっては、正しいのはアンナなのかカレーニンなのかであり、知ることの困難さと真実の捉え難さを語るセルバンテスの古い知恵などは迷惑で無益に思われるのだ。(クンデラ2016:31-32)

 「還元の白蟻」というのは、ものごとをステレオタイプに還元して終わりにしてしまう作用のことである。ものごとの複雑さに耐えることができないから単純化してしまう乱暴なやり方こそが現代の時代精神なのだろう。誰でも知っている既成の方程式に変数を入れるだけの処理。社会学ではおなじみの「システムの複雑性の縮減」がまさに複雑性を複雑なままに表現する小説の精神をなぎ倒すのである。

 クンデラは「還元の白蟻」について次のように描写する。

 地球の歴史の統合、意地悪くも神が達成を許したこのヒューマニストの夢は、目が眩むほどの還元の過程に伴われている。還元の白蟻たちが久しい以前から人間生活を蝕み、最高の愛すらも結局取るに足らない思い出の残骸にされてしまうのは事実である。しかし、この呪いは現代社会の性格によって途方もなく強化される。人間の生活はその社会的な機能に還元され、一国民の歴史はいくつかの出来事に還元され、これらの出来事が今度は一つの片寄った解釈に還元される。社会生活は政治的な闘争に還元され、この政治的な戦いはただ地球の二大強国の対決に還元される。人間はまさしく還元の渦巻きの中にいて、そこではフッサールが語った「生活世界」はどうしても霞んでしまい、存在は忘却の中に落ちこんでしまう。(クンデラ2016:30)

 このような「還元の白蟻」の典型として、ブロッホが抵抗した「キッチュ」がある。

 もう一人の大小説家、ヘルマン・ブロッホはキッチュの波に逆らうけれども、結局打ちのめされる現代小説の英雄的な努力について語ることになります。キッチュという言葉は何が何でも、最大多数の者たちに気に入られたいという態度を指します。気に入られるためには、みんなが聞きたがっていることを承認し、紋切り型の考えに奉仕しなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えという愚行を美と感動の言葉に翻訳することです。キッチュは、私たちがじぶん自身、私たちが考え、感じることの凡庸さにほろりとして注ぐ涙を引き出します。(クンデラ2016:228)

 コロナ禍にあって東京オリンピックが開催されている現時点でこれを読んでしまうと、テレビが視れなくなる。今さらではあるが、まさにテレビはこうした還元の装置である。

 「還元の白蟻」については、本書第7部の「エルサレム講演」の結び近くに「世界の出来事の因果的連続への還元」についての記述がある。

 十八世紀の合理主義はライプニッツの有名な文句「理由なく存在するものは何もない(nihil est sine ratione)」に基づいています。このような確信に刺激された科学は万物の何故を熱心に検討し、その結果、存在するものすべてが説明でき、したがって計算できると考えるようになりました。じぶんの人生になんらかの意味があることを願う人間は、原因も目的もないようなどんな行いも断念することになり、あらゆる伝記はそんなふうに書かれることになります。人生は原因、結果、失敗、それに成功の明るい軌跡として現れ、人間はみずからの行為の因果関係を示す繋がりにじりじりと眼差しを注ぎ、死に向かう狂おしい走行をますます速めることになります。(クンデラ2016:225-228)

 すべての物事をありきたりな因果関係に還元するというのも「還元の白蟻」なのである。それはなぜか。

 ポエジーは行動の中ではなく、行動が中断するところ、原因と結果のあいだを繋ぐ橋が砕け、思考が甘美で無為な自由をさ迷うところにあると言うのです。スターンの小説は、実存のポエジーは逸脱の中にこそあると言っているのであります。それは計算できないものの中、因果関係の反対側に、理由がないまま(sine ratione)に、ライプニッツの文句の反対側にあるのだ、と。(クンデラ2016:226)

 このような例としてクンデラはフローベールによる「愚行の発見」を取り上げる。これこそ一九世紀最大の発見だと言う。

 もちろんフローベール以前にも、愚行が存在することを疑う者はいませんでしたが、それはすこし別なふうに理解され、たんに知識の欠如、教育によって正されうる欠陥と見なされていたのです。ところがフローベールの小説では、愚行は人間の実生活と不可分の側面になり、日々の生活を通して、愛の床や死の床まで哀れなエンマにつきまとうのです。(クンデラ2016:226?)

 しかし、フローベールの愚行の見方において、もっともショッキングでスキャンダラスなのは次のこと、すなわち愚行は科学、技術、進歩、現代性などを前にしても消えることなく、逆に進歩とともに、愚行もまた進歩する!ということなのです。(クンデラ2016:227)

 フローベールは底意地の悪い情熱を傾けて、じぶんの周囲の人々が利口であり、事情に通じていると見せようとして口にする、紋切り型の決まり文句を収集し、これをもとに有名な『紋切り型辞典』を作りました。この表題を使ってこう言いましょう。現代の愚行とは無知ではなく、紋切り型の考えの無−思考を意味しているのだ、と。フローベールのこの発見は、世界の未来にとって、マルクスやフロイトのもっとも衝撃的な考えよりずっと重要です。なぜなら、階級闘争のない、あるいは精神分析のない未来を想像できても、紋切り型の考えの抗しがたい増大のない未来は想像できないからです。紋切り型の考えはコンピューターのなかに登録され、マスメディアによって伝播されて、やがてどんな独創的で個人的な思考をも押しつぶし、その結果、近代のヨーロッパ文化の本質そのものを窒息させる力となりかねないのです。(クンデラ2016:227)

 では、当のフローベールはどのような小説を思い描いていたのか。気になるのでフローベールの書簡から引用しておく。いかにして紋切り型から距離を取るかについての決意と読める一節。

 ぼくにとって美しいと思われるもの、ぼくが書いてみたいもの、それは何についてでもない書物、外部との繋がりをもたず、地球が支えもなく宙に浮かんでいるように、文体の内的な力でみずからを支えている書物、できれば主題がほとんどないか、少なくとも主題がほとんど見えないような書物です。最も美しい作品とは、最も素材の少ない作品です。表現が思考に近づけば近づくほど、語は思考に密着して消えてゆき、いっそう美しくなる。(堀江敏幸編2016:732)

 このような志の高さは、たんに純粋なのではない。それは抵抗の精神である。

 私が知っていると信じるのはただ、小説がもはや私たちの時代精神とは平和に生きられないということだけだ。もし小説がなお、発見されていないものを発見しつづけたいのであれば、なお小説として「進歩」したいのであれば、世界の進歩に抗してしかそれをなしえないのだ。(クンデラ2016:33)

 生活世界の複雑な事実を「存在忘却」から守ることに小説の意味があるとするクンデラの議論に照らして、あるいはクンデラが「小説の知恵」と呼ぶことに照らして(クンデラ2016:220)ここで自分の立ち位置について思うことは、生活世界の事実は複雑なディテールの内部にしかないということ、数学化やアルゴリズム化による機械的単純化に抵抗し立ち向かわないかぎり、生活世界の事実の理解はできないということだ。まずはノーと言うこと。

 最後に、私自身のための読書案内をしておく。

 クンデラは「聞き届けられなかった呼びかけの墓場」としての小説の歴史を次のリストにまとめている。

遊びの呼びかけ:軽さ(ディドロ)

夢の呼びかけ:夢と現実の融合、想像力の爆発(カフカ)

思考の呼びかけ:知的な総合(ブロッホとムージル)

時間の呼びかけ:個人生活の時間から解放された集団の時間とヨーロッパの時間への拡大(ブロッホ、アラゴン、フエンテス)(クンデラ2016:28)

 こうしてみるとカフカ以外の作家の小説を読んだことがない。たとえば、ブロッホについては、最近『希望の原理』を入手したばかりで、小説としては長編の『誘惑者』が筑摩書房の古い筑摩世界文學大系にあり、後継のセレクト集である世界文学全集にも収められていた。どちらもかなりな大著である。世界文学全集は全巻揃いを購入したので、たいていの作家の作品は読める。筑摩世界文學大系については、こういう作業の中で端本を一冊ずつ買っている。ムージルについては、同じ全集に中編小説4編が収められていた。有名な『特性のない男』はレーヴィットが参照していたことがあって大昔から探しているが、翻訳はムージル全集に収められたものしかなく、長編であることもあってかなり高価になっている。アラゴンとフエンテスについてはまったくわからない。その点では、入手しやすいカフカを優先的に読みたいと思う。そして、そもそもセルバンテスの『ドン・キホーテ』について私はほとんど手に取ったことがなかった。完全版は筑摩世界文學大系にある。簡略版が集英社文庫ヘリテージシリーズ『ポケットマスターピース13セルバンテス』にある。派生ストーリーをカットして短くしたもので、私はこれで挑戦しようと思う。これだと四〇〇ページ。

 積み残し。1度は論じたいと思った引用なので、資源ゴミとして引用だけを記録しておく。

 第2部の「小説の技法についての対談」では次のような発言があった。

 人間と世界はかたつむりとその殻のように結びついているのであり、世界は人間の一部であり、人間の次元であって、世界が変わるにつれ、実存(in-der-Welt-sein)もまた変わるというものです。(クンデラ2016:55)

 第3部の「『夢遊の人々』によって示唆された覚書」では、ブロッホの小説が明らかにした「象徴の森」について次のように述べている。

 個人的なものであれ集団的なものであれ、あらゆる行動の基になっているのが混同のシステム、象徴的思考のシステムだと、ブロッホは私たちに理解させる。この非合理的なシステムが理性による考察よりもどれだけ私たちの態度を変えるものか見るには、私たち自身の生活を検討するだけで充分だ。(クンデラ2016:92)

 もう一度ボードレールの詩を引けば、人間は「象徴の森」の中で迷っている子供だ。(成熟の基準とは、象徴に抵抗する能力に他ならない。しかし、人類はますます幼稚になっていく。(クンデラ2016:93)

 同じ論考から。

 あらゆる偉大な作品には(そしてまさしくそれが偉大な作品だからこそ)未完成な部分がある。ブロッホは彼が達成したすべてのものだけではなく、目指したが到達できなかったすべてのものによっても私たちの創作意欲を掻きたてる。彼の作品の未完成の部分は私たちを次のような探求に誘うのだ。(1)徹底した簡略化の技法(このおかげで構築的な明瞭さを失わずに現代世界における実存の複雑性を見わたすことができる)。(2)小説的な対位法の技法(これによって哲学、物語、夢が唯一の音楽に接合できる)。(3)小説に特有のエッセーの技法(すなわち明白なメッセージをもたらそうとするのではなく、あくまで仮説的、遊戯的、イロニー的なものとしてとどまるエッセーの技法)である。(クンデラ2016:96)

 94ページを参照して上記を解釈すると、(1)は「ただ小説だけが発見できるもの」を追及できるということ。(2)は「小説には並外れた統合力があること」。(3)は小説は「遊びと仮定の領域」にあり、小説の外にある「断定の領野」にはないということ。これは112ページを参照。

 小説精神とは継続性の精神であり、それぞれの作品は先立つ作品への答えとなり、それぞれの作品の中には先行する作品の経験がそっくり含まれている。しかし私たちの時代精神は今日性(アクチュアリテ)の上に固定されている。今日性はじつに外向的で夥しいから、私たちの地平から過去を追い払い、時間を唯一現在の瞬間に還元してしまう。このような体系の中に加えられる小説はもはや作品(持続し、過去と未来を繋げるべきもの)ではなく、他の出来事と同じような今日の出来事、明日のない行為になってしまうのである。(クンデラ2016:32)

 平和にではなく戦争によって一体化する世界について。

 たとえば近代は様々な個別の文明に分かれていたが、いつの日か一体性を、そして一体性とともに、永遠の平和を見出す人類という夢をはぐくんできた。こんにち、地球の歴史は分割できない一つの一体性を成しているが、久しく夢みられてきたあの人類の一体性を実現し保証しているのは、たえず所を変える恒常的な戦争なのだ。人類の一体性とは、誰も、どこにも逃れられないということを意味するのである。(クンデラ2016:22)

 かつては私もまた、私たちの作品や行動を裁く唯一適格な審判は未来によってなされるとみなしていた。のちになって、未来との馴れ合いは最悪の順応主義であり、最強者への卑劣な追従だと理解した。というのも、未来はつねに現在よりも強いからだ。じっさい、私たちを裁くのはたしかに未来なのだろうが、しかしそれはきっといかなる適性もなしに、なのである。(クンデラ2016:33)

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  1. 1年前のFBから。
    予約していた佐渡島・吉野『これから研究を書くひとのためのガイドブック[第2版]』(ひつじ書房)が届いた。来年度は大学院の「研究方法と倫理」をやらなくて済んだので、論文作法本のフォローはもうしなくてもいいかと思っていたが、いよいよ学部の方で卒論が必修の学生対象にゼミ募集する段階になったので、再びフォローを再開。経済学と経営学のハードなゼミの「経済論文」はそれ専用の書き方本があるが、私のゼミはむしろ人文系の論文作法でよいから、ちょうどいい感じである。たとえば、ブロック引用と要約引用の仕方を別立てで説明していることなんかは、じつは剽窃や盗用を予防する点でとても有効だと思う。まじめな留学生はとくに注意を要する点である。「「私語り」から脱出する」とか「抽象度の調節をする」とか、議論しながら詰めていくといいポイントである。本書は「書く」段階の話なので、これ以上は望まないが(望むと『シカゴ・スタイル』8000円也になってしまう)論文初心者(つまり学生と博士前期課程)を指導する上で1番やっかいなのは、前提知識となる文献とくに書籍レベルの分量のあるものを1冊も読んでいないで取りかかろうとすることで、頭の中にテーマ地図が用意できていないまま、いきなり路上に出ようとすることである。少なくとも数冊は読んだ上でテーマ設定して自分の行く道を決めて行かないと、たいてい迷子になって頓挫する。まあ、ふつうは講義やゼミで教科書や専門書をそれなりにこなしてから論文指導に入るものだろうから心配ないのかもしれないが、学生は好んで道を外れようとするもの。外れるなら、その先にある基本文献は自分で探して自分で読み切る覚悟が必要だと思う。
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    とくに注目したいのは「ブロック引用」のこと。私自身はこれまでほとんどやってこなかった。印刷物の場合、そういう字数が確保できない場合がほとんどという事情もあるが、長い引用はめんどくさいということもある。引用は正確でないといけないから気を遣う。私は自分の文章はいくらでも書けるが、人様の文章を引用するとなると、とたんにめんどくさくなって止まってしまう。要するにExcelで作られた書類がめんどくさいのと同じ気分になる。しかし、それでは習熟した分野についてはいいが、必ずしもそうではない分野について書こうとするときにはうまく行かないのだ。そういうときはブロック引用を駆使して先人に学ぶスタイルにした方が前に進めるのではないか。そう考えて、ここ数ヶ月は長めの引用の練習をしている。あいかわらず打ち直すのがめんどくさいので、ゼミ生に教えてもらったCamScanner+というiPhoneアプリを使っている。フラットスキャナやスキャンスナップのOCRソフトに較べると認識率はかなり悪いが、手軽に撮ってすぐにテキストをAirDropでiMacに転送できるので、手直しはそれほど苦ではない。学生が論文を書くときも、たいていは習熟しているわけではないから、最初はブロック引用だらけで草稿(研究ノート)を書いていくといいと思う。最後まで到達したあとで、要約引用にしたり、論点にまとめなおす編集的な作業に持って行けば、そこそこコントロールされた論文になるような気がする。少なくとも文献から丸写しの文章を自分の地の文に入れてしまうことはなくなる。そんなことを考えた。

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  2. これも去年のFBから。
    はたと気がついた。私にとって長い引用が苦痛なのはブラインドタッチじゃないからだ。2つではなく3つの局面を一致させなければならないから。2つの局面の一致だと一致させなければならない関係は1つだが、3つの局面となると3つの関係を一致させなければならないから。

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