セオリー道場002眺望的思考についての予備的考察

読解対象

野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。

野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。

野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。

レッスンのポイント:キーワード選択練習

眺望的思考とは何か

 「眺望」という言葉のヒントは、野矢茂樹『心と他者』中公文庫2012年および『心という難問:空間・身体・意味』2016年から得た。野矢茂樹は1995年刊行の『心と他者』の眺望論から『哲学・航海日誌I・II』を経て『心という難問』で眺望論を完成させた。『心という難問』では「知覚の眺望構造」「感覚の眺望構造」の章で眺望論を詳細に説明している。野矢の理論は主として「他者の心を理解できるのか」に焦点を当てているので、本研究計画とは方向が異なる。しかし、たんに「パースペクティブの複数性」ということ以上のことを指摘している。つまり複数のパースペクティブはキュビズム絵画のように同時に世界了解に描き込まれているということである。単純な例として「図と地」の議論を思い出してみるとよい。どっちが図でどっちが地なのかは、このさいどうでもよい。要するには私たちはどちらも同時に見ているのである。注意の当て方によって「図と地」が現象する。どちらも同時に注意するとキュビズム絵画のようになる。

 この議論を手がかりに眺望的思考について考えてみたい。世の中には多様な考え方や理論があり、それらはそれぞれに妥当性領域をもつ。つまり、特定の妥当性領域においてはその考え方や理論は正しいとされる。それらの考え方や理論は相互に排他的であることが多い。本研究計画では、それをたんに志向性のちがいと見なして、同時に一定の妥当性をもつものとして扱いたい。これはたんに複眼的でありたいということではなく、志向性のちがいを評価するメタ認知を採用するということである。

 それがどこまで可能なのかはわからない。おそらくは専門知をいくら集積させても眺望的思考には至らない。専門知は境界を作ってその外部を排除するからである。そうではなくリベラルアーツに拓かれた知識をパッチワーク的に集積させる方が可能だと踏んでいる。

グランドヴュー

 ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』最終行を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名なフレーズで締めている。この本の冒頭「序」の第2パラグラフにも同様の言明があって、本書の中心命題であることが示されている。すなわち「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じ得ないことについては、ひとは沈黙せねばならない。」(野矢茂樹訳2003:9)

「沈黙しなければならない」というのは、通常「説明の禁止」もしくは「語ってしまうことの傲慢」をたしなめているように感じられるが、そういうことではないのではないか。

 命題の中で世界は実験的にそのつど構成される。だから言い得ることは明晰に言えるが、そうでないものは言いようがないので結果的に沈黙することになる。沈黙したくて沈黙するのではない。わからないことについては沈黙すべきだというのでもない。もともと思考しようがなく表現しようもないのだ。

 学問の役割は、論理空間において概念と命題から構成される知識を供給することによって、人びとが生きる事実空間を言及可能なものに加工するのである。そしてこの加工技術は学問だけがもつのではなく芸術や文学や宗教にも存在する。それらはそれぞれの領域において自律的に論理空間を創造するので自然調和することはない。論理空間におけるこうした多元的な世界観とコスモロジーが事実空間の見え方を多重モードにする。だから私たちの経験する(語りうる)世界はいつも多重モードなのである。つまり私たちはキュビズム的世界を生きているのである。

 それぞれの論理空間の限界線は領域によって異なる。日常生活の慣習的行動に内在する経験値からなる論理空間の限界のその先まで科学的論理世界は説明できるし、さらに宗教的論理空間はその先の複数世界について説明できるということはある。しかし、それらはすべて各論理空間で使用される言語による。私たちはその言語で語られる限界までは行けるが、その先はただの暗闇だということ。ウィトゲンシュタインは「ナンセンス」と断じていた。

 当たり前のこと? いや、そうでもない。論理空間からしか事実空間を捉えられないとすると、私たちが知っているあらゆる事実空間はすべて論理空間の投影だということになる。

 同様のことをデュルケムがわかりやすく言明している。ウィトゲンシュタインとデュルケムを組み合わせるのは奇異に思われるかもしれないが、じつはジェイムソンが『政治的無意識』の冒頭掲示でそれをやっている。

「言語を想像することは、生活様式を想像することを意味する。」ウィトゲンシュタイン

「概念の全システムによって表出される世界とは、社会がみずからに対して表象するような世界であるといってよく、それゆえ、社会だけがそのような世界の表象に欠くことのできない一般化された理念を供給できる。・・・宇宙は、それが思惟されるかぎり、そのときにのみ存在する。また宇宙をまるごと全体として思惟できるのは社会だけである。それゆえ、宇宙は一社会のなかに場所を占め、社会の内的生活の一要素となる。まただからこそ、社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。全体性の概念そのものは、社会の概念の抽象的形式にすぎない。それはすべてを包括する全体であり、他のすべてのクラスがそこに吸収されなければならないような至高のクラスなのである。」デュルケム

 後者はデュルケム『宗教生活の原初形態』原著630ページの引用である。山崎亮訳では下巻435ページだった。最後の最後のところである。一見して、ふつうの常識人には受け容れがたい社会学主義の表明に見えるが、経験的研究の果てに辿り着いたメタ理論である。

 ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」がここでは「社会がみずからに対して表象するような世界」と語られている。「概念の全システムによって表出される世界」とは「事実空間」に対応している。このように考えればジェイムソンが2人を並べている理由も理解できる。つまり2人は同じことを言っているのだ。ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬもの」をデュルケムは社会の外部にあるものと述べているだけである。すなわち「社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。」

 社会は、それを超えたところにはなにも存在しないような、すべてを包みこむ類とみなしていいのである。詳細な検討は後回しにして、ウィトゲンシュタインが「言語」こそが限界を決めるとしたのと、デュルケムが「社会」こそが限界を決めるとしたのは、ほぼ同じ事態だと理解できるのではないか。あるいはウィトゲンシュタインの「論理空間」とデュルケムの「社会」はほぼ同じことだと理解できるのではないか。メタ理論的なこの仮説をこれから始める私たちの探究の足場としたい。

 清水幾太郎『倫理学ノート』にはウィトゲンシュタインについての章が3つ収められているが、この中で注目したいのは次のことである。後期ウィトゲンシュタインの集大成である『哲学的探究』への道筋にプラグマティズムとくに若い友人のもたらしたパースの間接的影響があって、プラグマティズムが得意な子どもの扱いが、もっぱら大人だけを想定してきた哲学を乗り越える契機になったと指摘されている。もちろん大学をやめたあとの小学校教師時代の経験も大きいのだろう。つまり「子どもの哲学」を発見したことが後期の『哲学的探究』の「生活形式」「言語ゲーム」の理論に展開したのではないかということである。かつてミードを勉強した社会学者がのちのち言語ゲーム論に触れたときに感じたデジャブ感はこれかと思った。

 もう1つ、通常「言語ゲーム」と訳されている元の言葉はSprachspielであるが、この英訳への違和感が素直に書かれている。本人がそうしているので文句は言えないが、英語でも日本語でも慣用的に使われている意味からかなり離れていることに注意しないと訳がわからなくなる。清水が言うには、Spielは「活動」の意味があって、それをGameに置き換えるのには少しムリがある。ウィトゲンシュタイン自身はgameの部分をイタリックにしているが、それじゃ「際限のない多様性」は伝わらんよということ。そして前期の『論理哲学論考』の沈黙テーゼに匹敵する『哲学的探究』の締めのテーゼは「ザラザラした大地に戻ろう!」だという。私なりに言うと、これは一種の社会学的着地である。論理哲学を裏切りラッセルを裏切り大人の哲学を裏切って、氷上のツルツルの地平からザラザラした大地に着地したという理解である。これなら納得できる。清水がこのあたりを書いていたのは70年代で、清水はコンピュータの時代は『論理哲学論考』が極めたツルツルの氷上の世界の時代になるだろうと文明批評的に結んでいる。じっさい半世紀後の私たちの全生活に数学とアルゴリズムが浸透していることを思えば「ザラザラした大地に戻ろう!」というスローガンは身に染みる。これを社会学的着地として、これからの探究の作業仮説としたい。

参考文献解題

野矢茂樹『心と他者』中公文庫、2012年。

野矢茂樹『哲学・航海日誌Ⅰ・Ⅱ』中公文庫、2010年。

野矢茂樹『心という難問──空間・身体・意味』講談社、2016年。

 この一連の哲学エッセイには「眺望」に関するヒントだけでなく、どのような文体で書くかについてヒントを得た。もともと「俯瞰」という言葉は上空から見下ろすという超越論的なニュアンスを伴うので、別の言葉として「眺望」を考えていた文脈で出会った。加藤郁乎『眺望論』を参照したあとだった。「眺望」であれば、対象と同じ地平の見晴らしのよい場所に立つというニュアンスが出るのでちょうどよいと考えた。野矢「眺望論」については、のちにまとめて検討したい。

フレドリック・ジェイムソン『政治的無意識──社会的象徴行為としての物語』平凡社ライブラリー、2010年。

 この本からは冒頭掲示のみを参照したので、孫引きに当たるが、ウィトゲンシュタインとデュルケムが並んでいることにヒントを得たので、そのままページごと引用した。ジェイムソンはラディカルな批評家であるが、ここのところ考えていることのヒントがありそうなので、これものちに検討することにしたい。ジェイムソンだけでなく、じつは批評理論と呼ばれる文学理論に多くのヒントがあることはわりと最近になって知った。批評の対象の多くは文学作品ということになるが、世界というテクストを言説分析する試みにとっては先行研究に当たるはずで、方法論として学ぶことが多い。

エミール・デュルケーム『宗教生活の基本形態──オーストラリアにおけるトーテム体系』上・下、山崎亮訳、ちくま学芸文庫、2014年。

 長らく「原初形態」として呼ばれてきたが、新訳では「基本形態」となった。本研究では基本的に「デュルケム」と表記するが、この翻訳では「デュルケーム」である。こちらの方が昔風である。ジェイムソンの翻訳は英訳からおこなわれているようなので、あらためて新訳の方の該当個所を引用しておきたい。

 概念(コンセプト)の体系全体が表わしている世界は、社会が思い描く世界であるので、ただ社会のみが、それによって世界が表象されるはずの最も一般的な諸概念を、われわれに提供しうる。ただ、すべての個別的な主体を包み込みうる[社会という]一主体のみが、そのような目的を実現することができるのである。宇宙は、それが思考されるかぎりにおいて、はじめて現存するのであるから、またそれは、社会によってしか全体的に思考されることはないのであるから、宇宙は社会のうちに位置を占めているのである。宇宙は、社会の内的な生活の一要素となる。このように社会それ自体が全体的な類(ジャンル)なのであって、その外部には何も現存しない。全体性の概念は、社会の概念の抽象的な形態にすぎない。社会は、すべての事物を包含する全体なのであり、諸他のクラスをすべて含む至高のクラスなのである。これこそが、これらの原始的分類──そこではすべての領域における存在が、人間と同様の資格で社会的枠組みのなかに位置づけられ、分類されていた──が立脚している深い原理なのである。」(デュルケーム2014:435)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年。

 ウィトゲンシュタインについては、中期と後期と後継者の研究をそれぞれ読解する予定。

清水幾太郎『倫理学ノート』講談社学術文庫、2000年。

 最初の刊行は1972年。清水が学習院大学を辞めて独立したときのもの。研究ノート的な色彩が強いが、ノンジャンルの研究を始めたころの作品で、文体上の参考にもした。本書についてはヴィーコについての章もあるので、再び取り上げることになると思う。

取り組み方に関するメモ

 シュンペーターもウイーンの人なんだと唸るフレーズ。

 克服をではなく理解を、批判をではなく習得を、単なる是認もしくは否認をではなく、分析と各命題における正しいものの抽出とを、われわれは望むものである。(シュムペーター1983:7)
シュムペーター『理論経済学の本質と主要内容』大野忠男・木村健康・安井琢磨訳、岩波文庫、1983年。

 シュムペーター二五歳のときの著作デビューの大著の冒頭部分から引用。
 若きシュンペーターの考えに全面的に同意する。先行研究に対してクリティカルに取り組むのは当然だが、ポジティブなものが何も提示できないのでは困る。「結局、何が言いたいの?」と聴き直したくなる。先行研究の場合、学べる点を探し出すのが基本であり、そういうものがないのであれば、そもそも取り上げなければいい。とくに狭小な専門の壁に抵触する決意のもとでは、こういう態度が必要だと思う。

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