社会学感覚8−3 アイデンティティ

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
自我論/アイデンティティ論

「わたしはわたしだ」という思い

 電話をかけられた人の「どちらさまですか」という問いに、話し手があっさりと「わたしだ」と答えることがある。これは暗に「声で判断しろ」といっているようなもので、傲慢かつ受け手依存的な答だが、けっこう通じるものである。しかし、これは当人のごくかぎられた親密な活動領域にのみ妥当することで、当然のことながら答になっていない。けれども、このささいな場面にかいまみることができるのは「わたしはわたしだ」という強烈な思いである。この「わたしはわたしだ」という感覚を一般に「アイデンティティ」(identity)という▼1。
 賢治がみぬいていたように、自我が多数の他者との関係から構成されるかぎり、自我は社会における矛盾を内部にかかえこまざるをえない。その矛盾するさまざまな自我像のなかから、なるべく矛盾の少ないものを選択し、あるいは受け入れて、ある程度の統一性をつくりあげてゆく。これが「アイデンティティ」である。強いて定義すると「自分はいつも同じ自分である」という確信や実感のことだ。
 すでにのべたように、本質的に自我は多面的かつ流動的な現象である。しかし、われわれには、とりとめもなく推移してゆくものと思えないのは、近代社会においては自我に一貫性をもたらそうとする内外の圧力がはたらくからだ。外的には〈ある程度〉の人格的一貫性を求める社会の期待が存在する。自分の一貫性に強く固執するのは「かたくな」とみられるし、状況ごとにまったく異なる人格になってしまうのも信頼性をうしなうか、ときには「精神病」とみなされる。ある程度の許容範囲でなければ社会との摩擦が生じてしまう。他方、個人にも内的緊張を回避しようとする力が働く。

アイデンティティ・クライシス

 精神分析の研究者であるロナルド・D・レインによると「自己のアイデンティティ、とは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話[ストーリー]である▼2。」つまり自分を納得させる一種の物語だというのである。しかし、これには他者の承認が必要だ。つまり、アイデンティティを維持するためには、自分の主張するアイデンティティをたえず承認し肯定してくれる他者がいなければならない。レインのことばを借りると「〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである▼3。」つまり、ある程度統一された自我の感覚すなわちアイデンティティは、ふたつの大きな要素から成り立っている。公式風に表現すると――
 アイデンティティ=自己定義+他者による承認
 だから、アイデンティティというものは、他者との社会関係が明確で、自己定義と他者による定義とが相互に矛盾の少ないものであれば安定するだろうし、人は自己定義を承認してくれるような他者をえらぶものだ。反対に、他者との関係が曖昧だったり、他者による定義が自分にとって好ましくないものだったりするとアイデンティティは不安定なものになる。その結果として一種の心理的危機におちいることがある。これを「アイデンティティ・クライシス」(identity crisis)という。
たとえば、エリート公務員やエリート会社員の場合を考えてみよう。かれがエリートとして人びとから承認され、重要な仕事をまかされ、部下から尊敬されていたとしても、それはあくまで企業組織という社会的文脈において妥当することであって、かりにかれが汚職事件で逮捕される事態になったり、派閥抗争にやぶれたり、病気や事故によって不慮の現役引退を余儀なくされたりすると、エリートとしてのアイデンティティはもう他者から承認されないことになる。警察の取り調べ室や出向先の子会社や病院の大部屋のなかで、エリートとしての優秀性を主張してもむだなことであるばかりか、むしろ反発さえ買うことになるだろう。このようにアイデンティティは特定の社会的文脈においてのみ承認される。だから、そのような文脈をはなれるときアイデンティティ・クライシスが生じ「自分はほんとうはどういう人間なのか」がわからなくなる。かりに本人以外だれも認めてくれないアイデンティティにしがみついていると、人は「精神病者」とみなすかもしれない。少なくとも「境界事例」とみなされかねない▼4。

モラトリアムとしての青年期

 さて、一般にアイデンティティ・クライシスは青年期に集中していると考えられている。よく若い人は「自分は多重人格だ」「人によって自分がころころ変わる」「自分がどんな人間なのかわからない」「そんな自分がこわい」などという。これは自我がしだいに形成され多面的な自画像=自我像を自覚する段階になったことを示している。すでに自我について説明したように、これは理にかなったことである。青年期はこのような多面的自我を統合していくプロセスにあたる。とりわけ「子ども」としてのアイデンティティから「大人」としてのアイデンティティヘの移行が重要な課題となる。
 じつは〈青年期〉は近代社会特有の現象である。伝統社会には幼少の「子ども」と「大人」の区別があるだけで、その過渡期としての青年期はない。伝統社会では、成年式という通過儀礼によって一挙に子どもから大人にアイデンティティの転換が自他ともに達成された▼5。日本では「元服」がこれにあたる。ところが近代社会においては、この移行は長期化する。十代から二十代にかけての十数年間がその移行期間とみなされる。子供でもなく大人でもない中途半端なアイデンティティをかかえたこの時期を「モラトリアム」(moratorium)――訳すと「執行猶予期間」――という。大学生は典型的なモラトリアムである。モラトリアムのあいだ、青年は試行錯誤をくりかえしつつ自我を統合し成熟させる。そのあいだ、社会は青年に義務を免除し融通をきかせる。有名な「モラトリアム症候群」は、このようなアイデンティティ・クライシスを乗り越えるのに失敗した結果、ノイローゼや精神病にいたった臨床例のことをさす▼6。

社会的弱者とアイデンティティ

 今日では一般的に用いられるアイデンティティ概念は、エリック・H・エリクソンという精神分析系の研究者が『幼児期と社会』(一九五〇年)のなかで臨床的関心から導入したものだ▼7。しかし、これが精神分析や心理学はもちろん社会学や政治学などに大きな影響をあたえることになる。なぜかというと、この概念は最初、一九六〇年代アメリカの公民権運動や学生の異議申し立て運動のなかで支持されたからである▼8。「自分をみうしなう」社会状況のなかで「自分をみいだす」精いっぱいの努力をしようとする人たちによってこの概念は社会的に支持された▼9。その意味で、アイデンティティ概念は、もともとアイデンティティ・クライシス概念と密着しているといっていいし、私的なことがらだけではなく集合的なことがらでもあるのだ。
 おそらく順風満帆なエリートや成功者にとってアイデンティティは問題にならない。不本意な状況にいる人たちにとってこそ、それは深刻な間題となる。たとえば、女性・老人・病人・障害者・被害者・被差別者・社会的弱者といった人たちにとってアイデンティティの問題は、それが危機にあるだけに切実だ。このあたりについては後論でくりかえし論じることになるだろう。

▼1 アイデンティティは「同一性」「自己同一性」「身分証明」「存在証明」などと訳されるが、うまい訳語がないので、ふつうカタカナで表記される。
▼2 R・D・レイン、志貴春彦・笠原嘉訳『自己と他者』(みすず書房一九七五年)一一〇ページ。この本は分裂病の治療体験に基づくアイデンティティ論。病理的限界事例は、しばしば本質的考察への近道である。
▼3 前掲訳書九四ページ。
▼4 ここでの文脈に近いものとして、木村敏の一連の仕事が参考になる。『人と人とのあいだの病理』(河合文化研究所一九八七年)。予備校での講演記録でわかりやすい。河合ブックレットシリーズ。
▼5 通過儀礼とは、人間が成長の過程で別の状態・集団に移行するときにおこなわれる儀礼のことをいう。成年式・結婚式・葬式など。
▼6 このあたりについては小此木啓吾の一連の啓蒙書を参照されたい。『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)はこのことばを一気に日本に普及させたベストセラー。かれの多数の著作を集大成したものとして『現代人の心理構造』(NHKブックス一九八六年)がコンパクトで便利。
▼7 E・H・エリクソン、仁科弥生訳『幼児期と社会』(全二巻/みすず書房一九七七-八〇年)。
▼8 公民権運動は、アメリカ南部における合法的な黒人差別を撤廃し法的平等を勝ちとろうとした社会運動。六十年代に全米的運動となる。
▼9 栗原彬によると、エリクソンの『幼児期と社会』が六十年代のアメリカ南部の監獄にたんさんころがっていたという。栗原彬『政治の詩学=眼の手法』(新曜社一九八三年)四九ページ。

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