社会学感覚4−1 社会現象の総合的性格

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
社会現象を総合的に認識する

「プロ倫」の教訓

 第三章でくわしく紹介した「プロ倫」はいろいろなことを教えてくれた。思いつくままにあげてみると――
(1)資本主義という巨大なシステムも、それを生みだしたのは人間の行為[禁欲的プロテスタントの禁欲的職業活動]であること。
(2)人間の社会的行為はなんらかの主観的意味にむすびつけられていること。
(3)したがって、社会的な事象を解明するためには、行為者の抱いている主観的意味の理解が必要であること。
(4)行為者の主観的意味はかならずしも客観的結果と一致しないこと。つまり、あくなき利益追求マシーンともいえる資本をつくりあげたのが、もっとも利益追求を卑しいことと考えていた人たちだったこと。
(5)主観的意味といっても、個人的なものではなく、ある程度集合的なものであること。
 以上の論点については前章ですでに確認したところである。ここではもう一点だけ論点をくわえておきたい。それは非常に素朴なことだ。
わたしたちは「資本主義の起源」ときいて「ああ、経済の話だな」と思う。資本主義そのものはまぎれもなく経済に関する事象であり、特定の経済体制を指している。しかし「プロ倫」が示すのは、それを推進させたエートス[資本主義の精神]が禁欲的プロテスタンティズム[とくにピューリタニズム]の世俗内禁欲に由来するという意外な結論だった。ここからえられる教訓はつぎのようなものである。すなわち、どんな経済的現象も経済だけから説明することはできないということ。とりあえず「経済だけ」の「だけ」に注意しておいていただきたい。
「プロ倫」の場合は、宗教的側面が経済的現象に対して果たした歴史的役割にしぼって説明したもので、要するに「経済だけ」による従来の説明――このなかには通俗的マルクス主義もふくまれる――が不十分であることを批判する意図をもっていた。ウェーバー自身は別のところではもっと唯物論的な説明もしていて、当然「宗教だけ」からの説明も不十分であることも指摘している▼1。
 要するに、ものごとは総合的にとらえる必要があるということだ。

消費行動の総合性

 たとえば、バイクを買うのは経済的活動、選挙で投票するのは政治的活動、教会に行くのは宗教的活動、学校で教えるのは教育的活動、病院で看護するのは医療的活動――というように、それぞれの活動分野は、いずれも独自の領域・なかば独立した世界をなしていて、いわば〈小さな社会〉を形成している。これらの〈小さな社会〉を「部分社会」(partial society)と呼ぶ。経済学・政治学・宗教学・教育学などは研究対象をこうした部分社会に限定して専門的に研究する。それはそれで有意義なことなのだが、しかし、現実的に考えて、これらひとつひとつの活動がその狭い領域にとどまっているかどうか。
 たとえば、「クルマの購入」という経済的活動を考えてみよう。これは経済的な消費行動にあたる。しかし、その前提には十八歳にならないと運転免許がとれないとか車庫証明がいるといった法的側面がある。また十八歳といっても高校在学中の場合、学校の校則の制限を受ける場合もあるだろう。現に高校生で免許のとれるバイクの場合は、いわゆる「三ない運動」によって、多くの高校生がバイクを買って乗ることを制限されてきた。最近は若干事情が変わってきたものの「三ない運動」のせいでバイクを断念した高校生もかつてはけっこう多かった。これは教育的側面がときとして法律よりも強い強制力をもつことがあるということを示している。また「クルマがほしい」という欲求そのものが、その人の生活している地域や集団の文化にかなりの程度規定されている。これは「どんなクルマがほしいか」と具体的に考えてみればいっそうハッキリするはずだ。たとえば最近、四輪駆動いわゆるヨンクが急速に需要をのばしているが、これは機能上のスペックからみるかぎり都市生活者には不必要かつ過剰である。それにもかかわらずヨンクにこだわる人がいるとすれば、それは経済的行為をこえた文化的行為というほかない。当然この側面はマス・コミュニケーションや流行の影響を考慮しなければならない。そして最後に家族の問題がある。独断で買える人はともあれ、大学生ぐらいであれば家族と相談せざるをえないだろう。では、決定権はだれがもっているか。これは家族内の勢力構造の問題である。
「クルマの購入」それ自体はじつに単純な行為であるけれども、このようにさまざまな側面をもっている。それゆえ「クルマの購入」を、たんにお金をだしてモノをもらってくるという単純な構図で理解するのはあまり現実的でない。むしろ総合的な社会的行為の一環とみなすべきなのである。それは複雑な社会関係のひとつの結び目であり、エピソードにすぎない。
 逆にいえば、これを経済的行為とみなすこと自体がすでに科学的抽象であって、ありのままの現実ではなくなっているのだ。科学であるかぎり、こうした抽象は不可欠であり、われわれは日常生活においてもこうした抽象をステレオタイプな形である程度受け入れているわけだが、その分、現実の総合的性格から遠のいていることを知らなくてはいけない。社会学も一種の科学的抽象をふくんでいるが、他の諸科学のように現実の一側面についてだけを禁欲的に研究対象とするのではなく、なるべく多くの側面を掘りおこして多面的かつ立体的にとらえ、それらのからみあいを分析的にときほどこうとするのである。

部分社会の総合性

 このようにどんなに特定された活動も基本的に全体社会に開かれている。したがって、経済・政治・教育・法律・宗教などの部分社会そのものが現実には総合的な現象なのだ▼2。
 企業であれ工場であれ学校・刑務所・宗教団体・新聞社・病院であれ、それが特定の特殊な活動にむけられている点で特定の部分社会に属するにはちがいないが、同時にそこには社会のありとあらゆる活動も存在する。たとえば病院はもっぱら医療行為のための組織だが、そこには経理部門もあれば人事部門もあるし看護婦養成のための教育機関もある。そこで働く人びとにとってそこは労働現場であり、きびしい上下関係と分業体制の支配する社会でもある。入院患者は家族をともない、しばしば家族の管理もスタッフの重要な仕事となる。また、スタッフと患者の交渉は病気を媒介としながらも複雑多岐にわたり、病院内のコミュニケーションも、カルテの往来・診断・生活指導はもとより、患者間の情報交換やうわさなどもあり、複合的である。
 ジンメルは、人間ふたりが相互作用していれば、それはすでに社会だという。そうだとすれば、学校も病院も家族も社会の一部であるだけでなく、それ自体もまたひとつの社会としての資格を備えていることになる。もちろん、日本社会とマレーシア社会が異なる文化をもつように、学校社会と病院社会もそれぞれ独自の文化をもっている。だからこそ個別に研究する必要があるのだ。

連字符社会学の構想と現状

 政治社会学や教育社会学のようにある特定の部分社会をとりあつかう社会学を総称して「連字符社会学」(Bindestrich-soziologie)という。連字符とはハイフンのこと。特定のフィールドの名前と社会学とがハイフンで連結されているからである。いまだったら「ハイフン社会学」というところだが、以前に紹介されたまま定着したため、いささか古めかしいことばになってしまった。カール・マンハイムの用語である▼3。「特殊社会学」とか「分科社会学」という呼び方もある。
 社会学の現状では、フィールドの明確な連字符社会学は研究活動が活発である。そのなかには、政治社会学のように政治学と一体化するほど大きな影響をおよぼしているところもあれば、法社会学のように法学系と社会学系が分離しているところもあるし、音楽社会学のように最近まで社会学系での議論が細い糸のようにしかなされなかった分野もある。それぞれ事情はかなり異なっている。しかし第一章で論じたように、各領域における専門科学がそれぞれの形で研究対象の広い社会的文脈に注目する傾向にあり、そのことが連字符社会学との交流を促進しているように思われる。

医療社会学の場合

 一つの事例として医療社会学をとりあげてみよう。もちろん医療の中核を形成する科学が医学であることにまちがいない。しかし、医学は自然科学の一分野として発達してきたものであり、その焦点はあくまでも疾患=病気にある。したがって、病気をかかえた患者という個人や、患者をめぐる社会環境、また病院というひとつの社会については非常に素朴な観念しか提供できない。その分、実務上の問題についてはこれまで看護学や社会福祉論が実践的な知識とその専門家を供給することによって保健医療の現場をささえてきたわけである。
 医療社会学は一九五〇年代のアメリカで確立した分野である。それまでは医学のなかに社会的側面を問題にする公衆衛生学や社会医学として研究がなされていたにすぎなかった。つまり医学研究者が社会学的方法を導入して研究してきたわけである。しかし五〇年代以後、この分野への社会的要請の高まりとともに、社会学のなかに医療社会学という応用分野が確立し、今日の隆盛にいたっている。
 では、医療社会学は具体的になにを研究するのか。進藤雄三の整理を参考にまとめてみよう▼4。
(1)医療サービスの利用者の問題――病気と健康に対する社会-文化的反応のちがい・病人[病者]役割・病気行動・社会疫学など。
(2)医療サービスの提供者の問題――医師-患者関係・医療専門職・看護婦などの医療関連職種・健康関連職種など。
(3)医療組織の問題――組織としての病院・病院内における人間関係。
(4)医療システムの問題――国および自治体の保健医療制度・保健医療サービスの提供形態。
(5)加齢と死・生の質(クォリティ・オブ・ライフ)の問題その他――高齢化・倫理問題など。
 これで医学と医療社会学のちがいがおおよそつかめてきたと思う。他の連字符社会学も似たようなものと考えてもらっても、それほど問題はないだろう。
 どのような種類の活動領域であろうと、結局人間の意識的かつ社会的な協働であるかぎり、諸個人の行為・諸個人間の関係・集団形成・文化規範・全体社会との関連といったファクターは欠かせない。連字符社会学はそこを中心に研究するのである。
 連字符社会学の発想基盤に存在するこのような総合的認識への志向は、社会学に一種の「橋渡し機能」を付与することになる。「社会科学の世話役としての社会学」というのみならず、自然科学をふくめた諸科学の調停役の役割を果たしうる位置にあるといっていいだろう▼5。

ミクロとマクロをつなぐこと――社会学的想像力

 ここでわたしたち自身のことにふたたび焦点をうつしてみよう。
 わたしたちは身近な問題を「プライベートなトラブル」[私的な問題]と定義する。就職や失業、結婚や離婚、職場での人間関係やストレスなど、わたしたちが耐えているさまざまな苦しみやディレンマは基本的にプライベートな問題として処理される。つまり、それを社会の歴史的な変化や制度の矛盾という文脈のなかでとらえることは少なかった。もっとも近年マス・メディアの発達に相即して人びとの認識も変わりつつあるが。すでにのべてきたように多くの場合それらはたんにプライベートな問題ではない。「個人的な体験」は「社会的な問題」につながっており、さらにすぐれて「世界史的な変動」の一環なのである。
 ミルズは「個人環境に関する私的問題」(the personal troubles of milieu)と「社会構造に関する公的問題」(the public issues of social structure)とを統一的に把握する能力のことを「社会学的想像力」(sociological imagination)と呼んだ。その根底には「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしには、そのどちらの一つをも理解することができない」との全体的認識への志向がある▼6。「それはわれわれ自身の身近な現実を、全体の社会的現実とのつながりの中で理解することを、もっとも劇的に約束する精神の資質である。」▼7別のことばを使えば、ミクロとマクロのさまざまな抽象のレベルを連接し、自由に意識的に移動する知的能力ということである。

▼1 R・コリンズ、寺田篤弘・中西茂行訳『マックス・ウェーバーを解く』(新泉社一九八八年)とくに第五章「ウェーバーの社会変動論」参照。
▼2 マルセル・モスはこのことを「全体的社会的事実」と呼び、ジョルジュ・ギュルヴィッチは「全体的社会現象」という概念でこれをあらわしいている。
▼3 カール・マンハイム、朝倉恵俊訳「社会学の現代的課題」『マンハイム全集3社会学の課題』(潮出版社一九七六年)二八四ページ。
▼4 進藤雄三『医療の社会学』(世界思想社一九九〇年)三一-三五ページ。
▼5 富永健一『社会学原理』(岩波書店一九八六年)。
▼6 C・ライト・ミルズ、鈴木広訳『社会学的想像力』(紀伊國屋書店一九六五年)四ページ。
▼7 前掲訳書、二〇ページ。

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