2022年1月17日月曜日

『リフレクション』はじめに

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』文化書房博文社、1994年。

社会学、わたしたちはなぜ学ぶのだろう。
社会学、わたしたちはなぜ教えるのだろう。
反省作用の視点から社会学の思想的意義を問い直し
市民的公共圏を展望する〈社会学的転回〉のすすめ。
不透明な自己理解を強いるディスコミュニケーションに抗して
専門家でもなく素人でもない「見識ある市民」の道を探る。

引用文掲示

「社会理論が自らの固有の力でなし得ることは、凸レンズがもつ光線集束の力に似ている。」(ユルゲン・ハバーマス)●1

「公共哲学としての社会科学は、たんにその発見物が学者世界の外の集団や団体にも公共的に利用可能あるいは有用であるから『公共的』だというのではない。それが公衆を対話へと引き込むことを目指しているから『公共的』なのである。」(ロバート・N・ベラーほか)●2

「元来から云うと、一切の人間が、その人間的資格に於てジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於ては、人間がジャーナリスト的存在だということである。」(戸坂潤)●3


はじめに


わたしたちは、さまざまなメディアによって現代社会のできごとを知り、それによって自分たちの態度と行動の仕方を微調整する。たとえば新しい流行や新製品の存在を知れば、それらについてのさらに詳しい情報を求める行動をおこすだろうし、じっさいに流行を自分なりに取り入れたり新製品を購入したりする。あるいは政治ニュースを見て政党支持を変えたり、不満が高じて棄権することもある。くりかえされる幼児誘拐事件の報道を見て、自分の子どもをなるべくひとりでは外で遊ばせないようにすることもあれば、セクシャル・ハラスメントについての本を読んで、職場での言動に格別の注意を払うようになることもある。

このような知識のプロセスに社会学は相当に役立つはずである。ニュースで伝えられるできごとに関して直接的な知識をあたえてくれるだけでなく、たとえば、個々の問題に対してどのような知的態度がありうるか、さまざまな価値判断にはそれぞれどのような問題があるか、新しい事態をどのように理解すればよいか、そもそもそのできごとに対するニュースの伝え方や意味づけに問題はないか、非常に重要であるにもかかわらず伝えられないことにはどのようなものがあるか、そしてわたしたちのこのような知識のプロセスが社会に対してどのような意義をもつのか──このような問いかけに社会学は十分に応える知的潜在力をもっている。

しかし、じっさいには、社会学で研究されていることと、ニュースで伝えられる現在のさまざまなできごととが、きちんとつながっていない。少なくとも、そのようには見てもらえない。

そもそも社会学はよく知られていない。よしんば社会学を知っていたとしても誤解されている場合があまりに多い。「みんなが知っていることをやたらむずかしい概念で説明する学問」とか「学者の名前ばかりが登場する哲学めいた学問」とか「統計データを駆使した白書のように退屈な学問」といったたぐいの印象がそうである。

他方、フィールド(調査研究の対象領域)の著しい専門分化と基礎理論上の分派化のために、現役の研究者でさえ、社会学という〈ひとつの科学〉について責任をもって語ることができない状態がつづいている。その意味で、日本の社会学は目下のところ求心力よりも遠心力の方が強く働いているということができる。これは社会学の急速な発展を示す証左にはちがいないが、その反面、個々のフィールドや特定学派の理論についての詳しい知識は次つぎに生産され積極的に語られるものの、いざ「現在の社会学全体」の指針となると、とたんに歯切れが悪くなってしまう。もちろん「社会学はもはや〈ひとつの科学〉ではない」といい放つことはかんたんである。しかし、それは社会学者のたんなる責任回避の自己正当化というものだろう。

そもそも社会学はその成立当初から「脱領域の知性」だった。しかしそれは未踏の知的領域を切り拓くことだけを意味するのではない。一望できないほど広々と展開する〈社会〉という地平を「ひとつの世界」として眺望する知性でもある。およそ総合的認識とはこのようなことであるはずだ。ところが現在の社会学は、システム論の発達にもかかわらず、総体としてはこの眺望性への関心を忘却しているように見える。わたしはこの眺望性のなさが初心者を戸惑わせる大きな障害になっていると思う。

本書は、このような現状認識に立って構想された。すなわち、現在の社会学に強制力のように作用している専門分化の流れに抵抗して、社会学の求心的理念に力点をおいた上で、社会学の思想的意義について、なるべく学派的文法に頼らないように説明した本である。したがって、細部にこだわるのではなく、大局的な構図を提示することに眼目がおかれている。つまり本書の目的は分析することではなく眺望することにある。このような作業は、理論的に粗雑にならざるをえないというリスクはあるけれども、ひとつの起点としては意味のある仕事だと考えている。

ところで、それぞれ固有のフィールドに特有のパラダイム(定型的な認識の枠組み)では、あちらこちらのフィールドで生じているさまざまな現象を連接してトータルに捉えることができないことが多い。それゆえ専門家は専門領域に閉じ込められてしまいがちである。求心的かつ大局的な構図を提示しようという本書の試みにさいして、わたしは、各フィールドの知見は大いに参照させていただくが、それらの分析につきまとう定型的文脈やパラダイムにはあえて距離をおくことにしようと思う。これは社会学にもともと備わっている脱領域性を生かさなければならないとの考えに基づいている。したがって以下の記述において、わたしは、家族社会学の問題を物象化というメカニズムの説明に使用したり、権力作用の問題を論じるなかでマスコミ論の培養分析をもちだしたりすることになるが、これによってさまざまな分野の連接性の一端だけでも示すことができればと思う。同じことが理論と現実のあいだにもいえる。理論を理論としてだけではなく、なるべく現実の問題のなかで考えていこうと心がけた。とくに現代日本社会の文脈のなかで──つまりわたしたちにとっての〈いま、ここ〉の現場において──社会理論がいかなる意味をもつのかを説明しようと思う。当然のことながら、この作業は社会理論の「説明」であると同時に、わたしたちの社会の文脈で理論を「査定」することでもある。

社会学を学び始めてまだ間がない方や、これまであまり社会学と縁のなかった市民の方に、現代社会のさまざまなできごとと自分の意識や行動とのつながりに関心を深めていただくこと、そして社会学が認識装置としてもつアクチュアリティを理解していただくこと、できれば社会学のおおよその理論イメージとその有効性をつかんでいただくこと──これが本書の目標である。とくに、哲学や現代思想のありように疑問をお持ちの人には「社会学的転回」を勧めたい。あるいはすでに社会学や社会理論に興味を抱いている人で「ルーマンやハバーマス、フーコーを読んでもピンとこない」という方も多いと思う。それは用語上の問題もさることながら、多くの場合「現代社会学がどこから出発して、どこへ行こうとしているのか」がつかみきれていないことによる。この点についても本書はナヴィゲーターの役割を果たしたいと考えている。

なお、注はなるべく参照文献を提示する文献注にとどめるよう努めた。社会学を専門としない読者は注を気にすることなく読み進めていただいてもさしつかえないし、注は読書案内の性格ももたせてあるので、意欲的な読者はさらに専門的な文献に進むきっかけにしてほしいと思う。また、説明上必要な用語のなかで一般になじみのないものについては、その用語の直後のカッコのなかで文脈に即した語義を示すようにした。識者にとってはやや見苦しい部分もあるかと思うが、さまざまな読者とコミュニケーションをとりたいという著者の願望のあらわれとして理解していただければ幸いである。


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