2022年1月17日月曜日

『リフレクション』第四章 権力作用論の視圏(3)ディスコミュニケーション

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション

三 ディスコミュニケーション

自発的服従を供給するメカニズム

自分がいま風上にいるのか風下にいるのかをふだんわたしたちは意識しない。意識するのはタバコの煙が自分の方へ流れてくるときであり、しかも、タバコを吸っている人ではなく、吸わない人がいち早く感知するものだ。それと同じように、上方排除であれ下方排除であれ、排除された側は敏感にならざるをえない問題状況に追い込まれる。おそらくこの地点は権力作用の全体的認識が可能な──あるいはそれを強要される──ほとんど唯一の場所である。それに対して権力作用の具体的担い手であるわたしたち自身は、自分たちの行為がいかなる意味をもち、いかなる結果を引き起こしているか、なかなか気づきにくい。あるいは「タバコの煙が風下にいる人に流れるのは、たまたま向きの変わった風のせいであり、その人が非喫煙者だったのはいかにも運が悪かった」と、自然現象に見立てた(つまり自分たちではコントロールできない)環境や時代のせいにしたり、むしろ自分の方が被害者であるように装ったりすることによって、自己正当化に陥りがちである。このように権力作用の認識においても両者は非対称的である。

では、なぜ気がつかないのか。あるいは何となく気がついていても、はっきりとそれを自覚するチャンスが少ないのはなぜか。

その要因としてさまざまな理由が考えられる。たとえば「時差」の問題である。わたしたちが自分の行為の意味を知るのはいつもすべてが終わってからだ。そもそも体験に対する意味づけは過去をふり返ることによってはじめて可能なのだから。「生きられつつある行為に意味はない。」●29すべては事後的評価である。したがって気がついたときにはもう遅いということがしばしば生じる。また、伝統的行為とか慣習的行為の場合は自明性におおわれているから反省的評価は発動されない。また「役割への没頭」もありうる。つまり、たとえば会社人間と呼ばれる人びとのように役割へのコミットメント(関与)が強く、あまりに深く役割に没入してしまうために、役割関係の外部に対して極端に視野が狭くなる場合である。また「急進的でもなければ反動的でもない。反応がない」現代人のアパシーも大きな理由である。●30あるいは、普遍的な集団力学として「内集団」に対しては配慮をするが「外集団」に対してはいっさい配慮しないという「ダブル・スタンダード」(double standard)も考えられる。外部の視点から隔離されているために内部の視点の魅力を距離化できない場合もある。自発性や異議申し立てを体制へ編入してしまう「コアプテーション」(coaptation)も重要である。栗原彬は、工場内における自主管理・QCといった小集団活動に見られるように、それなりの自発性が許容され、代補的アイデンティティの充足がおこなわれるために、人びとは自発的服従に充足してしまうと指摘する。●31サービス残業もこれにあたる。

以上のような要素の複合体を「反省抑圧の構造」と呼ぶことにしよう。すでに論じてきた物象化とは、とりもなおさず「反省抑圧の構造」である。問われなければならないことは、自発的服従そのものではなく──これ自体は社会の存立の基本的メカニズムである──自発的服従に対するわたしたちの非反省性なのである。自発的服従に対する当事者の反省的評価が活発であれば、少なくとも極端な排除現象や悲劇的事態はくりかえされずにすむはずである。つまり、行為者の反省的評価が何らかの形で抑えられているのだ。

そもそも反省的評価を可能にするのはコミュニケーションである。本来はリフレクションを可能にするはずのコミュニケーションが何らかの形で損なわれていると考えることができる。つまりわたしたちのコミュニケーションは、その完全な反省作用を発揮していないコミュニケーションなのである。わたしはこのようなコミュニケーションを「ディスコミュニケーション」(dyscommunication)と呼ぶべきであると考えている。ふつうこの概念は「自分の思っていることがそのまま相手に伝わらない」との意味で使われるが、その前提にはコミュニケーションを「情報移転」と捉えるシャノン-ウィーバー・モデル的なコミュニケーション観がある。送り手中心的なこの工学的モデルでは人間的で社会的なコミュニケーションを捉えることはできない。●32それに対してミード的なコミュニケーション観に立つと、むしろディスコミュニケーションとは非反省的もしくは反省抑圧的なコミュニケーションであり、権力作用の正当性を供給するプロセスである。●33したがって、権力作用の実態を検証してきたわたしたちの次の課題は、このディスコミュニケーションがいかなるプロセスであるかを鮮明にすることである。

歪められたコミュニケーション

信頼できるディスコミュニケーションの理論はまだない。そこでここではクラウス・ミューラーの「歪められたコミュニケーション」(distorted communication)についての研究を参考にして議論を進めていきたい。●34

かれは「歪められたコミュニケーション」として三つのタイプを提示する。第一に、強制指導型コミュニケーション(directed communication)。これは「言語やコミュニケーションの内容を規定しようとする政府の政策から生まれてくる」コミュニケーションのことである。●35国語辞典まで改訂した、かつてのファシズムや社会主義の国家に見られた、露骨な政治的干渉による統制がこれにあたる。ジョージ・オーウェルのSF『一九八四年』に登場する有名な「ニュースピーク」はこれを皮肉ったものだ。

第二に、環境制約型コミュニケーション(arrested communication)。これは「個人や集団の政治的コミュニケーションに携わる能力が制約されている場合のコミュニケーション」である。●36言語は、自分たちがおかれている環境を解読する能力を規定する。したがって、言語能力が限定されたものであると──これを「限定コード」という──人びとは自分たちの環境を的確に認識し利害を表明できなくなり、結果的に現状維持的で保守的な権力支持層になりやすい。●37

第三に、管理抑制型コミュニケーション(constrained communication)。これは「自分たちの利益を優先させようとして、私的集団や政府機関が、公的コミュニケーションに手を加えたり、制限を加えたりすることができた場合のコミュニケーション」である。●38政府や企業がしばしばおこなう情報操作や情報非公開がこれにあたる。また、権力の正当性にかかわる重要な問題を表面にださないために、別の問題をキャンペーンするという方法も使われる。このような巧妙な操作によって人びとの知識が限定されると、日常生活とは関連がないと思われるような──じっさいには見えにくいだけでめぐりめぐって自分たちの生活に影響があるにもかかわらず──政府の行為に対して人びとは評価をためらい、 結果的に政治的コミュニケーションに参加することをやめてしまう。●39棄権はその典型例である。

ミューラーの三類型は本書序論で「権力のことば」「消費のことば」として問題化しておいたことにほぼ相当する。本書の始発点は「歪められたコミュニケーション」にわたしたちはおかれているということだったのである。

現代日本の言語状況

日本の場合、ミューラーのいう「歪められたコミュニケーション」はどのように存在するのだろうか。もう少し具体的に踏み込んでおきたい。

PKO以前のものであるが、日本の軍事化についての外国人研究者による興味深い研究がある。平和研究(peace research)の研究者グレン・フックは、世論調査の分析を踏まえた上で次のような疑問を立てた。「日本国民の多くは、原理のレベルでは、今なお反軍事化を保持しているのに、なぜ具体的な政策にかんしては軍事化反対の態度を明確に示さないのであろうか。さらに、多くの人びとが反軍事化であるにもかかわらず、反軍事化の運動が現在の日本社会では活発にならないのは、なぜであろうか。」●40その要因のひとつとしてフックは、軍事化を容認させる言語の役割に注目する。

たとえば本来は「死亡保険」と呼ばれるべきものを「生命保険」と呼ぶように、あるいは「有害作用」を「副作用」と呼ぶように、「聞き手が不愉快なことや怖ろしい事実を正確に把握することを防ぐ」ためにしばしば「婉曲的表現」(euphemism)が使われる。●41「軍隊」を「自衛隊」と呼び、「戦車」を「特車」と呼び、「侵略」を「進出」と言い換えるのがそれである。また「隠喩」(metaphor)もしばしば政治的に用いられる。一九八一年に訪米中の鈴木首相が発言した「ハリネズミ」、一九八三年に中曽根首相が訪米中に使った「不沈空母」、これがかえって反発を招いたために代わって使われるようになった「保険料」(防衛費のこと)などが挙げられる。古くは「核アレルギー」という隠喩もある。これは朝日新聞が最初に使ったものだが、一九六七年から翌年にかけて盛んに議論され政治的に利用された。とくに当時の佐藤首相は「正しい理解を持つならば、いわゆる核アレルギーにはならない」として、いわば医者が患者を治療するイメージに議論を置き換えた。このメタファーを使用することによって、「異常」なのは核兵器の存在ではなく軍事化反対者の方であること──そしてかれらは「治療」されなければならない──が静かに自明化されるのである。一種の「逸脱の医療化」である。

これが「権力のことば」の実態である。わたしたちはそれを使用することによって、意識しないうちに特定された政治的土俵に立たされるのだ。

ところで、フックの指摘する事例で、「進出」などは強制指導型コミュニケーションであろうし、「保険料」などは管理抑制型コミュニケーションに相当するといえそうだが、「環境制約型コミュニケーション」はどうだろうか。この文脈で問題となるのは、社会化のエージェント(担い手)である家族や階層そして学校やマス・メディアである。これらが人びとの言語能力を限定するわけだが、これらのうち学校つまり教育とマス・メディアについて分け入って概観してみよう。

検定済みの知識

ミューラーが「環境制約型コミュニケーション」として取り上げていた社会化の問題としてまず教育について指摘しておきたい。とりわけ初等中等教育の問題である。

日本の教育は「文部省教育」といわれてきた。教育のすべてが文部省によってコントロールされていると考えるのは実態とあわないが、歴史教科書検定の話などを思い浮かべると、相当な政治的配慮がなされてきたと考えてよい。社会学系でも、かつて「高校現代社会」の教科書検定において社会学者の執筆した水俣病の記述などが「問題」とされたことがある。

このような目立つ側面だけでなく、もっと基本的なところに目を向ければ、現実の教育において提供される知識の傾向に着目すべきだろう。その傾向を一括すれば、第一章で説明した「技術的知識」中心ということができる。それは「客観的」というわかりやすい性質をもっているために、受け入れられやすく、「偏向」と指弾されるリスクもなく、教師の質に左右されにくく、評価もしやすい。もちろん個々の教育現場において並々ならぬ努力がおこなわれているにしても、また、教育理念に「豊かな人間性形成」「自分で考える力をつける」といったことが挙げられているとしても、結果として教育現場を支配している知識はまぎれもなく検定済みの「技術的知識」なのである。

この傾向にさらに輪をかけているのが受験である。出題者側の事情として「公正」かつ「迅速処理採点」可能な問題でなければならない。だれもが正解可能で、だれもが採点可能な問題。それは検定済みの技術的知識である。受験生の生き方や思想を試すことは、よほどのコストを覚悟しなければならない。これに受験者側が過剰適応する。受験勉強とは、検定済みの知識だけを選択的に学ぶことである。受験に関係のない科目は「捨て科目」として早期のうちにいともかんたんに捨てられる。おそらく少数科目入試の傾向はこれを増幅するだろう。また、検定されていない生々しい同時代のできごとや自分を問うような問題は「試験にでない」として無視されてしまう。「自分の頭で考えてみよう」といったことがらも同様の帰結を踏む。この文脈では塾や予備校が、実態を知らない論者の批判対象になりがちだが、塾や予備校それ自体が問題というよりも、じっさいには受験生の救済制度となっている場合の方が多い。問題なのは受験という社会的文脈のなかで受験生がとらざるをえないこのような選択の方である。

たとえば、コミュニケーションのあり方を問い、その基本技術を磨く科目である「国語」においても、とうてい現代を生きる上で不可欠とは思えない古典の解釈が重要視されてきた。「現代文」(現代国語)でさえも、たとえば清水義範の短編小説「国語入試問題必勝法」が的確に描写しているように、職人的なまでに技巧的な技術的知識の問題に変換されてしまう。●42

こうした教育環境における「勉強」は、学ばれる知識が「自分を問う」ことがないだけに、「勉強」することによって、かえって自分の社会生活や生き方をブラックボックスにしてしまい、反省的回路を断ち切ることになりがちである。結果的にこのような教育環境は、政治的に漂白された知識だけが広く流通するのを助けている。しかしそれはじつに「政治的」なことなのだ。

検定済みの知識は反省の重圧から解放する。反省を突きつけない。しかし、考えてみれば、同時代の社会について考えたり判断したりするということは、「検定済み」でない領域でこそ必要な能力ではないだろうか。そもそも社会について考えるということは痛みをともなうことだ。死刑囚の人権について考えれば被害者の家族はおこる。公害企業について考えれば企業内の人びとやその家族が傷つく。しかし、だからといって、放置すれば被害者は傷つく。およそ社会的現実とはこのようなものであって、利害調整がうまくいくとはかぎらない。むしろ闘争的・対立的なもの。そこが自然現象や数学について考えるのとちがうところだ。したがって、たいせつなのは傍観者ではなく当事者として自分を社会に位置づける反省能力であるはずだが……。

マス・メディアの複合影響説

初等中等教育を終えた成人に対する教育機能を果たしているのは、都市部においては事実上マス・メディアである。マス・メディアは、基礎的な教育課程を終えたわたしたちの知識のありように重要なかかわりをもつ。わたしたちはマス・メディアによって供給される知識をもとに態度を決めることが多い。たとえば商品を選ぶとき、たとえば会社を選ぶとき、政治家を選ぶとき……。だから「歪められたコミュニケーション」というとき、マス・コミュニケーションについてふれないわけにはいかない。

ところが、じっさいには、「マス・メディアの絶大な影響力──しかもしばしば操作的に歪められている」というテーゼは必ずしも自明ではない。

マス・コミュニケーション論では、一般の人が考えているような素朴な強力効果説は基本的に否定されている。たとえすべてのマス・メディアが「右向け、右」を連呼したとしても、受け手になにがしかの「右を向きたい」という気持ち(これを「先有傾向」という)がなければ受け手は右を向かない。したがって「マス・メディアの影響力は意外に小さく限定的である」という限定効果説が長らくマス・コミュニケーション論の主流だった。限定効果説は、それ以前の強力効果説が受け手の無批判性(要するに「愚かな大衆」のイメージ)を前提としていたことを否定し、受け手の能動性と自律性を再発見していたのだ。●43

ところが一九七〇年前後から変化が生じてきた。「やはり大きいぞ」というのである。これは一般に「新・強力効果説」といわれている。●44ただし限定効果説が否定されて元の強力効果説へ戻ったわけではなく、あくまでも限定効果説の受け手像の上に立って「それでも強力だ」というところにポイントがあることと、「強力」といっても必ずしもメディアの思惑通りに受け手が動かされるわけではないので、わたしは「複合影響説」と総称すべきだと考えている。当然そこには「頑固な受け手」をも屈してしまう複雑かつ巧妙な社会的トリックが存在する。

そのようなトリックとして考えられているのが「議題設定機能」「沈黙のらせん」「培養効果」である。●45

「議題設定機能」(agenda-setting function)とは、マス・メディアが「今なにが問題なのか」という争点=議題を設定することについては強力な影響力をもつということである。「どう考えるべきか」ではなくて「なにを考えるべきか」に関しては現在のマス・メディアは相当に強力であるというのだ。たとえばPKOについて各メディアがそれぞれの立場で報道し議論する。ある新聞はイエスと主張し、あるニュース番組はノーと主張する。「どう考えるべきか」はさまざまである。しかし、いずれにせよ「今はPKOについて考えるべきだ」という点では共通しているわけであり、結果的に受け手はその議論の土俵そのものを主体的な選択の余地なく受け入れてしまうというのだ。これを一般化すると、マス・メディアの強調の大小が人びとに問題の重要性を認知させるという強力な影響力があることになる。

「沈黙のらせん」(spiral of silence)もその過程はやや込み入っている。これは世論形成についての影響である。世論のもとになるのは個人の意見である。しかし、人びとは自分の意見をストレートに表現はしない。まず自分の意見が多数派か少数派かを確認するのである。自分の意見が少数派・劣勢意見であれば、孤立を避けるために意見表明は控えられ、逆に多数派・優勢意見であれば、積極的に表明される。では世論の場合、人びとは何を基準に多数派か少数派かを判断するのか。その基準となるのがマス・メディアなのである。さまざまなマス・メディアが特定の意見を多数派・優勢意見として提示することによって、反対意見は表明されにくくなり(沈黙)、そのため反対意見はますます少数派として認知されることになる。その結果、多数派はますます多数に、少数派はますます少数に見えるようになる。つまり世論の環境をマス・メディアがよってたかって固めてしまうのだ。そのため受け手の議論の範囲が事実上限定されてしまう。「天皇報道」や「湾岸戦争報道」のように「総ジャーナリズム状況」とか「パック・ジャーナリズム」といわれる集中豪雨的取材報道がなされるとき作用しているのがこの「沈黙のらせん」であり、そのとき「はだかの王様」を「はだかだ!」と名指すことが極度に困難な環境になってしまう。

これを時間軸に見たのが「培養効果」(cultivation effect)である。たとえば、どのテレビドラマでも登場する老人像が片寄っていることが多い。「がんこで融通の利かない老人」のイメージである。そのため長時間テレビドラマを視聴しつづけた受け手で、直接さまざまな老人と接するチャンスのない人は、このような老人像によって現実を捉える傾向が、テレビドラマをあまり見ない人にくらべて強くなるのである。このようにマス・メディアは長期的かつ累積的かつ非意図的に人びとに行動の基準や価値観を「培養」するのである。

受け手の自律的な反省的コミュニケーションが困難になっている。しかも、それは個々の送り手サイドも意図していない──つまり送り手さえもコントロールできない──形で生じているのだ。マス・コミュニケーションをもふくんだわたしたちのコミュニケーション総体のありようを見直すことが格別に必要なのはこのためである。

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