2022年1月17日月曜日

『リフレクション』第三章 知識過程論の視圏(1)日常生活における知識

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第三章 知識過程論の視圏──社会はいかにして可能か(1)日常生活における知識

一 日常生活における知識

社会関係の前提となる知識

前章では、行為論の見地から、社会現象をあたかも自然現象のように見る物象化的錯視をしりぞけ、人間の行為こそが社会を生産・再生産することを確認した。その結果としていえることは、すでにある社会を自明視してはいけないということだ。それは人びとの行為しだいで、まったく別の社会となった可能性のある社会なのだから。そして現に今も社会運動のような反省的行為によって改訂されている社会でもある、と。

しかし、これまでに確認できたのは、さしあたり物象化的錯視に代わる反省的認識の可能性と、問題状況に応じて人間は反省的に行為するということの二点にすぎない。では、いかにして人間は反省的認識をおこない、いかにして反省的行為をするにいたるのか。またそれはどのようなプロセスで社会を変えていくのか。あるいは逆に、みんながおかしいと感じている不公正な社会的事象が不動の事実のようにくりかえされるのはなぜか。そもそもどのようにして人間の行為が大きな社会という現実をつくりあげるのか。これらの疑問について考えるのが以下の諸章の課題である。

このようなプロセスはさまざまな角度から論じることができるが、わたしは「人びとの知識」を中心にこれを説明しようと思う。といっても、何か目新らしいことを展開しようというのではない。このようなアイデアはむしろ古典的なものである。たとえば一九〇八年の著書のなかでゲオルク・ジンメルは次のように述べている。

「いうまでもなく人間相互のすべての関係は、彼らがおたがいについて何ごとかを知りあっているということにもとづいている。商人は、彼の取引相手ができるだけ安く買い、できるだけ高く売ろうとするということを知っており、教師は、彼が生徒にある質と量の教材の学習を期待できるということを知っている。個人はそれぞれの社会層の内部において、他のそれぞれの個人にほぼいかなる教養の程度を前提すべきかを知っている。──そして明らかにそのような知識がなければ、人間と人間とのあいだのここにふれた作用はけっして生じることができなかったであろう。」●1

ここでジンメルが注目するのは、人びとがもっている知識である。これが社会関係の前提になっているというのだ。しかし、その知識は固定的なものではない。「われわれの関係は、おたがいについての相互の知識にもとづいて発展し、さらにこの相互の知識は、事実上の関係にもとづいて発展する。この相互の知識と事実上の関係とは解きがたく絡みあい、……」とジンメルはいう。●2知識は社会関係の前提でもあるが、じっさいの社会関係のぐあいに応じて変化する。しかもその知識は必ずしも正確であるとはかぎらない。かれは「われわれの行動は全存在にたいするわれわれの知識にもとづいてはいるが、この全存在にたいするわれわれの知識は、独特の制限と歪曲とによって特徴づけられる」と述べている。●3

このように人びとの知識に力点をおいて見ていこうというのはジンメルの独創である。しかし、社会学はしばらくのあいだ、このアイデアを放置していた。状況が大きく変わるのは一九六〇年代になってからである。そのあたりの事情から確認しておこう。

知識社会学の主題転換

日本人は「知識」ということばを狭くとりがちである。何か専門的なものか、観念的なものを思い浮かべてしまう。だが、ジンメルの使っている「知識」はかなり広い概念であり、何といっても日常的なものである。今日の社会学も広い意味で「知識」を使う。まず、なぜ社会学が拡大された知識概念を使用するようになったのかについてかんたんに説明しておこう。

社会学には知識社会学という分野があり、「存在被拘束性」(Seinsverbundenheit)といって、知識はすべて社会的条件に規定されていると考える。「意識は存在に規定される」として「イデオロギー」批判を続けたマルクス主義に対して、知識社会学は「そういうマルクス主義だって『存在に拘束されている』じゃないか」と批判したのである。ところが「そういう社会学者だって『存在に拘束されている』ことになるのではないか」と反批判され、「社会学者は『浮動するインテリゲンチャ』だから『存在』から自由なのだ」と、いささか弁解がましい応酬をしたという経緯がある。

このようなイデオロギー批判的な古典的知識社会学に対して、近年注目されてきたのは、逆に社会形成に対する日常的な知識の積極的意義を見直そうとする、新しいタイプの「知識の社会学」である。それによると、知識社会学は社会において「知識」として通用するすべてのものをとりあげなければならないという。この立場を鮮明に主張したバーガーとルックマンは次のように述べている。

「現実の理論的定式化は、たとえそれが科学的なものや哲学的なもの、あるいはまた神話的なものですらあったにせよ、社会の成員にとって〈現実的〉であるものをすべて汲みつくしているわけでは決してない。こうした理由から、知識社会学はまずなによりも、理論的なものであれ、前理論的なものであれ、人びとがその日常生活で〈現実〉として〈知っている〉ところのものをとり上げねばならない。ことばをかえれば、〈観念〉よりも常識的な〈知識〉こそが知識社会学にとっての中心的な焦点にならなければならない、ということだ。意味の網目を織りなしているのはまさしくこうした〈知識〉であり、この網目を欠いては社会は存立し得ないのである。」●4

かれらの主張以後、知識社会学の仕事は大きく変貌することになる。もちろん、自然科学的知識の社会性(歴史性)を分析する研究なども相変わらずさかんだが、その一方で「日常生活の社会学」の有力なアプローチとして知識社会学は再定立されることになる。後者のあつかう「知識」は日常生活のなかでわたしたちが使用しているありふれた知識すべてをふくんでいる。これを社会学者たちは「日常生活者の知識」(シュッツ)「日常知」もしくは「常識的知識」(バーガーとルックマン)「共有知識」(ギデンス)などと呼んできた。このうちバーガーとルックマンによると「常識的知識」(commonsense knowledge)とは「日常生活の常態的で自明的なルーティーンのなかで私が他者とともに共有している知識」と定義される。●5本章でもここから再出発して、専門的知識や序論で論じた反省的知識などへと議論をつなげていくことにしたい。

日常生活者の知識

日常生活者としてわたしたちが共有している知識には、たとえば電車の切符の買い方や銀行預金の仕方といった生活上のノウハウや問題の処理法をはじめ、「こういうときにはこうするとよい」といった行動の指針、「男(女)とはこういうものだ」といった通俗的な定義(決めつけ)などがふくまれる。前章でふれた縮約的な障害概念もそのひとつである。さらに「父親」「おば」「教師」「郵便配達人」「店員」といったさまざまな人間類型に関する膨大な知識もふくまれている。また、村や都市や会社や学校などの生活組織における人とのつきあい方や作法、勤勉や正直といった道徳的規範もその重要な要素である。序論でふれた「権力のことば」「消費のことば」も忘れてはならない。●6

シュッツが指摘するように、わたしたちの常識的知識は、統一的でなく、部分的にのみ明晰で、つねにいくらか矛盾しているものである。しかし、このような常識的知識は、生活の舞台となる集団の内部では、それなりに統一性をもち明晰で首尾一貫したものと考えられ、一般に集団内では反証がない(ボロがでない)ために自明視されている。というのも、それは、ある特定の領域について統一的かつ首尾一貫した「専門的知識」とちがい、日常生活のその場その場でとりあえず役に立てばよい「処方箋的な知識」(knowledge of recipes)が中心だからである。●7

とはいっても、日常生活者の知識を専門的知識より低く見るのは早計である。前者は「かりに社会の『相応な能力の』成員であれば他の人たちは身につけていると、行為者が仮定し、また相互行為におけるコミュニケーションを維持するためにたよられる、自明視された『知識』」●8でもあるのだ。つまり、自分が相手に話しかけるとき、わたしたちは、さまざまなことを仮定し・自明視するし、そのことを相手も承知していると自明視する。●9そのことによってスムーズにことが運ぶのである。このような知識がなければ社会生活は成り立たないだろう。しかし、そうかといって、日常生活者の知識は静態的な不変のものではない。知識は具体的な行為のプロセスで修正されたり、専門的知識の介入によって訂正されたりする。だからいつまでも自明で共通であるとはかぎらない。その意味で動態的に見ていく必要があるし、知識の分布状態にも相当なむらがある(偏在性)。それゆえ時間と空間の広がりのなかで捉えるよう注意しなければならない。

ジンメルの「社会はいかにして可能か」

日常生活者が共有している常識的知識に媒介された行為が、どのように社会を創造的に構成し、どのように知識そのものを改訂するのか。わたしはこの種の理論の源流ともいうべきゲオルク・ジンメルの「社会認識論」に関する古典的な小論「社会はいかにして可能か」から出発したいと思う。●10

ジンメルが「社会認識論」と名づけるのは、社会現象の自然現象に対する根本的なちがいに対してである。いうまでもなく自然現象が「自然」として認識されるためにはそれを認識する観察者が必要である。それに対して、社会現象の場合は特別の観察者を必要としないとジンメルはいう。なぜなら社会現象を構成する要素自体が、意識をもち能動的に活動する人間だからである。それ自身が社会の構成要素である人間たちの「他者とのあいだの規定と被規定をめぐる感情と知識」が社会をひとまとまりのものとして構成するのであって、特別の観察者によって認識されるわけではない。その意味で社会はみずからを認識する。それが自然現象との根本的なちがいである。●11

したがって、社会を研究する科学者は、自然を研究する科学者のような単純な認識ではすまない。いわば「認識の認識」をすることになる。つまり人びとの認識そのものが認識対象になるのであり、そもそも人びとの認識自体が社会を可能にするアプリオリ(先天的な条件)なのである。人びとによって認識された社会をジンメルは「知識事実としての社会」(die Gesellschaft als eine Wissenstatsache)と呼ぶ。●12これはまさに「日常生活者の知識」における〈社会〉像である。ジンメルはそれを三点にわけて説明する。

第一点は、のちの研究者から「役割のアプリオリ」もしくは「類型化のアプリオリ」と呼ばれる相互認識のしくみである。●13わたしたちは他者を見るとき、ありのままに認識するわけではない。それは不可能である。だからわたしたちは他者を一定の類型にあてはめて見る。この類型が「役割」である。たとえば目の前の人物を「店員」としていったん認識する。それから「店員」という類型(役割)と本人とのズレを個性として認識するといったぐあいである。

第二点目は「個性のアプリオリ」あるいは「呈示のアプリオリ」である。たとえば目の前の店員はたんに店員でないことをわたしたちは知っている。つまり〈いま、ここ〉ではたしかに店員であるけれども、同時にかけがえのない個性的個人であることを知っている。つまり、類型(役割)の担い手であると同時に、そうでない存在でもあることを人びとは承知しているというわけだ。自分自身についてもそれは同じである。わたしたちは自他ともに社会的存在であると同時に非社会的存在──つまり個性的存在──であることを前提しているのである。

第三のアプリオリは「構造のアプリオリ」あるいは「共生のアプリオリ」である。これは一種の理念のようなことだ。個々人が社会のなかにそれぞれ一定の地位を予定調和的に指定されているという前提である。社会は個性的な個人をあてにして地位を用意し、個人はその地位につくことによって個性的価値を発揮する。じっさいにはこうはいかないのであるが、この予定調和的前提(理想)そのものが存在する「かのように」(als ob)人びとがふるまうことが、現実の社会を可能にするアプリオリだとかれはいう。

このようにジンメルは、人びとが自分たちの知識のなかにある類型(役割)を使って相互にその社会性と個性とを認識しあい、社会と個人の調和的関係を想定して活動することによって、社会という現実が成立していることを指摘する。社会はこのような知識をもった人びとによって日常的実践的に成就されるものなのである。

このような捉え方は現代の社会理論にも継承されている。たとえばアンソニー・ギデンスは次のように述べている。「社会的世界と自然的世界の差異は、自然的世界がそれ自体『有意味』なものとしての世界を構成していない点にある。つまり、自然的世界のもつ意味は、人間の実践的生活の経過のなかで、また人間が自然的世界を自分たちで理解し説明しようとする努力の結果として、人間によって生産されるのである。それに対し、社会生活──いまいったような理解や説明の努力もその一部となる──は、その社会生活を成す行為者が自分たちの経験を組織化するために行う、意味の枠の能動的な構成と再構成によって、まさに《生産》されるのである。」●14それゆえ、有能な社会的行為者はだれでもすでに一端の社会理論家といえる存在であり、エスノメソドロジーの用語を使えば、わたしたちはすでに「社会学している」(doing sociology)のだ。●15

したがって、人びとがどのように社会について認識しているか自体が「社会を可能にする」条件となる。のちにマートンが「予言の自己成就」として定式化したように、社会に関して人びとが常識として共有している知識──「知識事実としての社会」──に基づいて人びとがじっさいに行為することによって、結果として「知識事実としての社会」が現実のものとして構成(生産・再生産)されるのだ。

予言の自己成就と知識

すでに「予言の自己成就」として説明しておいたメカニズム、すなわち知識を媒介とした社会のこのような循環構造について再度確認しておこう。ここで「予言」と呼ばれているのは社会関係についての知識のことである。この知識が人びとに共有されることによって、その知識が想定する現実がつくりだされる。この循環構造が「予言の自己成就」である。この循環構造は本書の議論の理論的な要にあたるので、その原型モデルとして理解に役立ちそうな「合理的期待のマクロ理論」についてふれておきたい。●16

経済学者の佐伯啓思の説明によると「合理的期待のマクロ理論」とは「政策当局がある経済政策を実行しようとする。ところがその経済政策があるパターンにはまったもの──つまり既成の経済理論に基づいたもの──だとすると、計算高い合理的な経済主体は、そのような政策そのものを経済計算の中に組み入れて、より合理的な行動をとる。その結果、経済政策は所期の目的を実現することができず、多くの場合には無効になってしまう。」●17

これは次のことを示す。「経済について、人々がどの程度の情報を持ち、どのような見取図を持つかが、現に生ずる経済状態に決定的な影響を与える。従ってその極限では、経済についてのある種の知識を持つことが、まさにその知識が想定する現実を産み出す要素となるということである。」●18このように「現実(リアリティ)は、一枚の絵画のように平板な世界ではなく、その世界を描き出す人々の観念の入れ子構造になったものなのである。」●19

ここにジンメルやマートンが描こうとした、知識を媒介とする循環構造がじつに単純な姿で述べられている。それはあまりに単純すぎるといってもいいかもしれない。常識的知識よりも専門的知識についての循環構造の方がはるかに単純なのである。そこで今度はより複雑な常識的知識の循環構造の現場を見てゆくことにしよう。


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