2022年1月15日土曜日

『社会学の作法・初級編』一〇 社会学的リテラシーの構築へ──知識社会学的に

一〇 社会学的リテラシーの構築へ──知識社会学的に

社会に還流する知識

 本書ではこれまで、社会学の「読み書き討論」について論じてきた。この章では、それらをひっくるめて、そうした社会学的実践の知識社会学的意義について考えてみたい。▼1


▼1 知識社会学とは、知識を社会的存在として研究する分野である。この場合の「知識」には科学や思想だけでなく常識や偏見もふくまれる。もともとマルクス主義のイデオロギー批判の原理を拡張するところから始まった分野で、ある思想と社会集団や社会階層との関係をとりあつかう領域として発展したが、近年はそのすそ野を広げ、常識を中心とする知識全般がもつ社会秩序形成の役割といった基礎理論的な研究になっている。

 社会学の学習には「読み書き討論」が欠かせない。しかし考えてみれば、社会学を勉強するはるか以前から、わたしたちはすでに日々のくらしのなかで、〈社会というテキスト〉を読み、書き、語りあっている。すなわち、さまざまな社会現象や社会制度について、それがどんなものであり、自分たちにとってどんな意味があり、どうなっていくのが望ましいかといったことについて、わたしたちは他人から聞かされ、メディアから知り、他人と語りあい、自ら納得する。ときにはそれに反発したり、異議申し立てをしたりすることもある。要するに、わたしたちは、社会を主題とするこのような「読み書き討論」をすでに日々おこなっているのだ。その結果、わたしたちの意識のなかに沈澱していくのが「常識」という知識なのである。


 重要なことは、社会を主題とするこれらのコミュニケーション活動自体が、社会の秩序を維持し、あるいは社会を少しずつ変えてゆくということだ。


 たとえば、かつて「適齢期」ということばがあった。男性であれば二〇代後半、女性であれば二〇代前半に結婚するのが「ふつう」であるという常識を集約したことばである。このことばが語られ、このことばを参照して自分たちの現実を評価することによって、それぞれが社会的な圧力を感じる。それがひとりひとりを「適齢期に結婚する」という行為へと導く。その結果、じっさいに多くの人びとが適齢期に集中して結婚する。「適齢期」はこうして社会的事実として結晶する。今なら「三〇の大台」ということばが、このような機能を果たしている。


 結婚したら今度は「お子さんはまだ?」という問いが待っている。子どもがいてこそ家族であるという常識を集約したことばである。それゆえ、多くのカップルはあたりまえのように子どもをつくり、子どものいないカップルは──ディンクスであろうといずれかの不妊症の結果であろうと──たえず社会的な圧力にさらされつづけることになる。


 あるいはまた、働く女性のほとんどが経験することであるが、会社のなかでは、何かというと「女はこれだからなあ」という決めつけが発言される。評価するときにも「さすが女の子だねえ」と、女性という属性に結びつけてなされるのが常である。「らしさ」の感覚がたえず補強され、そこからはみだす者を逸脱視する。


 このように、常識はことばとして語られ、読まれ、書かれ、学ばれる。このようなコミュニケーションの集積が〈社会〉なのであり、わたしたちの生きる条件を基礎づけるのである。


社会学的リテラシー

 人びとの知識は、現にある社会のコミュニケーションの結果であるが、同時にそのような知識は反省的に社会に還流して、現にある社会を維持したり修正したりする。したがって、主体的に考えると、人びとが〈社会というテキスト〉をどう読むかが、社会のあり方を根底から規定してゆくのである。それゆえ、社会を主題とするコミュニケーション(読み書き討論!)が決定的に重要なのだ。


 ところが、そのようなコミュニケーションは既存の常識の範囲内で循環しがちである。その常識がいかに非合理で歪みをもたらすものであったとしても、あるいは結果的に公正な交渉を妨げるものであったとしても、それがきちんと合理的かつ批判的に検証されることは少ない。「昨日までそうだったのだから、今日もそうなのだろう」といった感じで、不公正な活動がくりかえされる。たとえば、「業界の常識は社会の非常識」といわれるように、企業社会においてこれまで反社会的な行動が無反省におこなわれてきた。環境汚染・公害・不正取り引き・談合・天下り官僚の受け入れ・使途不明金として処理される贈賄・損失補填──これらは巧妙に業界内部でシステムの一部として機能してきた。しかし、それらはシステムの外部にさまざまな不利益をもたらすのである。それにもかかわらず、視野の狭さや自己正当化や利害保身といった理由によって、当事者にはそれがなかなか明確に見えない。視野には入っているのだが、常識という知識の自明性のために見えないのだ。こうして多くの悲劇が生まれてきた。


 「問題」を見るためには特別な概念や理論が必要である。常識で見えるものもあるが、見えないものも多い。まして現代社会は複雑なシステムであり、かんたんには見えなくなっている。それゆえ、ものごとを鋭敏に感受するためのセンサーとなる特別な概念や理論が必要なのだ。▼2


▼2 そもそもありのままに見ることなんてできない。わたしたちは常識的に定義された仕方でしか見ない。たとえば「象は鼻が長い」と聞かされた子どもは、長い鼻ばかりを見て、象の太いがけっこう長い足やつぶらな瞳に気がつかない。だからこそ概念をあえて学ぶ必要があるのだ。

 社会学はそのような概念や理論を提供する。社会学的に読む、社会学的に語る、社会学的に書く──このような社会学的実践を人びとがすることによって、常識の拘束から自由に現実を理解し、それを媒介にして社会を反省的に「改訂」することが可能になる。このようなコミュニケーション能力を「社会学的リテラシー」と呼んでおきたい。人びとに社会学的リテラシーを高めることは、不公正な社会を実践的に変革することに通じる。社会学の自己言及性は、このような形で社会に結実するはずである。


 この作業はそれなりの苦痛をともなう。世の中に流通しにくい知識を手間ひまかけて探索し、ときには不愉快な現実を直視し、ときには自分の生活や行動を批判するような知識を受け入れなければならない。


 しかし、それは同時にたいへんおもしろいことでもある。そもそも社会学のおもしろさの本質は、思考の遊戯性や発想の意外性や素材の身近さにあるのではない。社会学のおもしろさは、自分を知るところに本質があるのであって、反省的評価の充足感のことである。反省社会学の提唱者として有名なアルウ゛ィン・W・グールドナーは次のように述べている。「知識の探究者が一方では自己を知ること──つまり自分は誰であり何者でありどこにいるのかといったこと──と、他方では他者およびかれらの世界について知ることとは、同じひとつの過程のふたつの側面なのである。」▼3自分を知ることにまさる快感はない。社会学者とは、その快感を知る人間のことをいうのだ。


▼3 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』栗原彬ほか訳(新曜社一九七五年)二一四ページ。

反主知主義に抵抗するジャーナリスト的存在へ

 たしかに、現代の若い世代は非言語的なリテラシーにすぐれている。音楽・映像・スポーツ観戦・コミック……。しかし言語的なリテラシーが未熟なために、言語でのみ表現可能な抽象的な概念が苦手である。しかし、社会は抽象的な概念がないとつかみきれないものなのだ。▼3


▼3 もちろん古い世代が言語的なリテラシーにすぐれていたといえる証拠はない。近年ノスタルジックに回想されることの多い、かつての学生運動も、結局、高度経済成長期における大学という狭い視野のなかの反主知主義である。むしろ現代学生のほうがすぐれているのではないかと思うほどである。

 加藤周一は『読書術』のなかで「どうせ私はばかですよ」式の態度がマッカーシズムを生んだと述べている。▼4「どうせ私はばかですよ」式の態度を、わたし流にいいかえると、「それでどうなんだ」「そんなことを知ってどうすんの」「何の役に立つの」「差別して何が悪い」式の居直りである。このような態度を「反主知主義」という。ファシズムやマッカーシズムを支えたのは反主知主義である。理性的判断の停止への誘惑はたえず存在する。▼5


▼4 加藤周一『読書術』(同時代ライブラリー一九九三年)一二二-一二三ページ。

▼5 わたしは、日本国憲法があるかぎり、この日本にファシズムや軍国主義が再現されることはないと思うが、マッカーシズムならいつ起こってもふしぎでないと考えている。

 知ることを軽く見てはいけない。反主知主義的風潮に抵抗しよう。お手軽な結論に走るのはやめよう。階層的制約や利害関係の拘束から自由になって、反省能力を高め、社会の反省的メカニズムに参画しよう。それが「反省する社会」を現実につくりだす。


 その担い手となる人びとを、現象学的社会学者アルフレッド・シュッツの用語を借りて、「見識ある市民」(well-informed citizen)と呼びたいと思う。▼6社会学は、ヒマ人や趣味人の「知の戯れ」などではない。複雑化した現代社会において、自律的で責任ある主体として生きようとする「見識ある市民」の基本的な生活能力である。だから、本を読んだりレポートを書くのは、そうした生活能力を高めるためにおこなうのであって、エレガントな知的遊戯では断じてない。漠然と感じる不公正さの感覚を、明晰に論理的な表現へと高めるためにそれをおこなうのだ。それはわたしたちが一種の「ジャーナリスト的存在」として自己を再構築することを意味する。▼7社会学は「ジャーナリスト的存在」であろうとする「見識ある市民」の形成を支援する科学であり、そのような人びとによって生みだされ、強化され、現に必要とされている科学なのである。


▼6 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)第三章「博識の市民──知識の社会的配分に関する小論」。A・ブロダーゼン(編)『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)「見識ある市民──知識の社会的配分に関する一試論」。なお、浜日出夫は「自省的市民」と訳している。これも適訳だと思う。西原和久編著『現象学的社会学の展開──A・シュッツ継承へ向けて』(青土社一九九一年)一五-一六ページ。

▼7 『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房一九六七年)一五六ページ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。