社会学の作法・初級編【改訂版】
三 マス・メディアの利用──感受性を高める
ニュース・ウォッチャーになる
専門書を読むことだけが社会学の学習ではないということは、接触すべきメディアそのものについてもいえる。つまり、本というメディアだけではなく、あらゆるメディアを駆使してそれはおこなわれるべきだ。その代表は何といっても新聞とテレビだろう。現在の社会について研究しようとするかぎり、このふたつは欠かせない。だから、ひとり暮しの学生の場合でも、テレビをもっているだけでは不十分で、一般紙を購読するよう勧めたい。
まず新聞から。社会学的な社会認識への第一歩としては、宅配されている一般紙を購読することがたいせつだ。できれば二紙を読みくらべるぐらいであってほしい。一般紙とは朝日・毎日・読売・産経・日本経済の各紙のこと。前の二紙がリベラルで後の三紙が保守的といわれているが、じっさいにはかなり性格がちがう。東京本社版でみるかぎりの論評を加えておくと、朝日新聞はあいかわらず新聞ジャーナリズムの優等生的存在として高い信頼性をもつ。しばしば右翼の暴力や保守的メディアの攻撃の標的にされているが、最近の紙面は、かつての反権力的・批判的論調が影を潜め、温厚なリベラル路線に大きく転回している。最近は医療問題の記事が目立つ。毎日新聞は一九七〇年代の激しい新聞拡張戦争のいわば敗者で、経営難から新規再建されたという経緯をもつ。そのため最近は記事や紙面の思いきった刷新が進み、署名記事が多く、記者の自律性も高い。まるで雑誌のような紙面になっている。教育問題や宗教問題に強い。読売新聞は新聞拡張戦争の勝者として発行部数世界一を誇る。中曽根元首相のブレーンでもあった渡辺恒雄社長による社論の統一が大きな特徴である。社内民主主義に問題があり、紙面に多様性はないが、オピニオン性の高い新聞である。読売のパワーによって産経新聞のかつてのオピニオン性もめだたなくなっている。なお、読売と産経はともに憲法改正を提唱している。日本経済新聞も保守的であるが、経済ジャーナリズムというより経済情報紙の色彩が濃い。▼1
▼1 新聞の読み方をごく初歩的なところから説明したものとして、岸本重陳『新聞の読みかた』(岩波ジュニア新書一九九二年)と熊田亘『新聞の読み方上達法』(ほるぷ出版一九九四年)がある。使いこなしの方法としては、現代新書編集部編『新聞をどう読むか』(講談社現代新書一九八六年)。新聞ジャーナリズム内部の問題については、原寿雄の一連の評論を参照してほしい。原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)。原寿雄『それでも君はジャーナリストになるか――続新聞記者の処世術』(晩聲社一九九○年)。入手しやすいものとして、桂敬一『現代の新聞』(岩波新書一九九○年)。
読んでほしい二紙を選べば、ジャーナリズム性の高さから朝日と毎日ということになるが、各紙の論調のちがいを知るという点では朝日と産経の組み合わせもあってよい。最近識者から注目されているのは毎日で、署名記事や雑誌的コラムが多く、読みやすさでは群を抜いている。一般紙を読みなれていない人には毎日を勧めたい。また、意外にいいのが東京新聞などの地方紙だ。というのも、中央のことやコラムなどが信頼性の高い共同通信の配信記事に拠っているからである。共同通信は日本の代表的な通信社だ。ちなみに通信社とは「印刷所をもたない新聞社」である。あるいは「記事の問屋」ともいわれている。テレビ・ニュースも共同通信の配信記事を読み上げていることが多い。なお、朝日にはメディア欄(といっても番組案内ではなく、社会部が担当する記事)が定期的に掲載されているので、マスコミ自体の動向を知るのに役立つ。いずれにしても新聞拡張員の勧誘によって購読紙を決めるようなことは避けたい。自分の眼で選ぶべきだ。ひいてはそれが紙面をよくする。 つぎにテレビ。ニュースやドキュメントを見てほしい。大教室で「昨日のニュース番組の特集を見たか」ときいても教室内の視聴率はいつも一パーセントあるかないかで、大学生がいかにテレビを利用していないかにおどろくことが多い。活字メディアにくらべて情報量は少ないが、テレビだと要領よく楽に知ることができる。それを利用しない手はないはずだが、テレビを受け身で見ることになれていると、結局うまく使いこなせないのだ。それには「あえて見る」という態度が必要だ。
マスコミ研究者やジャーナリストの評価が高いのはテレビ朝日系の「ニュース・ステーション」だ。ニュース番組の概念を変えたその功績は大きい。もうひとつTBS系の「筑紫哲也のニュース23」もジャーナリズム性が高い番組。ほかに注目すべき番組としてNHKの「クローズアップ現代」がある。テーマ設定のレベルが適切で見やすい番組になっている。スクープも多い。テレビ番組は頻繁に編成が変わるので、これ以上の具体的コメントは控えたいが、積極的にテレビを利用するつもりで見れば、それが毎日のことであるだけに、社会認識の積み上げに大きな差ができる。▼2
▼2 テレビ報道にもさまざまな問題がある。現場の細部を取材したルポとして、小田桐誠『検証・テレビ報道の現場』(現代教養文庫一九九四年)。放送ジャーナリズムの諸問題については、原寿雄『新しいジャーナリストたちへ』(晩聲社一九九二年)。津田正夫編『テレビジャーナリズムの現在──市民との共生は可能か』(現代書館一九九一年)。岡村黎明『テレビの明日』(岩波新書一九九三年)を参照してほしい。
ニュース日誌をつけてみる
ニュース日誌をつけてみよう。いまどきの大学生は日記などつけないだろうから、こんなことを書くと読み飛ばされてしまいそうだが、自分のことではなくニュースについてだと意外に書けるものである。書いてみて自分の反応を確認するのは楽しい。
新聞やテレビで伝えられるニュースについて感想を書くことから始めよう。断続的でかまわない。週一回でもいいと思う。書いてみたニュースは必ず自分の記憶のなかに残るから、ニュースに対する感受性は格段に飛躍する。たとえば日本のエイズが輸入血液製剤による薬害によって始まったというニュースについて一度整理すれば、HIV訴訟のニュースや薬害事件のニュースはもはや耳や目を素通りしないはずだ。それだけ感受性が高まっているのである。このような積み上げがたいせつなのだ。知らなければ鈍感でありつづけ、知ることが自分を敏感にする。
この場合、書くこと自体に意味がある。書くことが自分の思考を自分に知らせてくれる。さらに自分が書いたことに対して自分の「ほんとうの」考えとずれているとの実感があれば、さらにその溝を埋めるためにわたしたちは考え、そして書く。この反省的な循環を自分に引き起こすことだ。
しかし、こうした作業をひとりで始めるには、それなりの気力がいる。報酬がなかなか見えないからだ。▼3そこで勧めたいのは、仲間数人で「ニュース研究会」をやってみることだ。わたしも「ニュースの背景研究会」と称して月に一回、それぞれが気になったニュースについて報告しあう活動をしていたことがある。きちんとレジュメ(要約・構成・資料)をつくってやるのはめんどうだが、意欲があるうちはそれもおもしろく感じる。やはり人が集まり人に話すとなると、やる気もでるし、うまく話せればそれなりの充足感も味わえる。自分の理解や感想を他人とのコミュニケーションの過程のなかで検証する経験は、自分を鍛え、我見から自分を自由にする。社会人になるとこうした仲間を見つけるのはむずかしくなるが、大学というところは比較的やさしい。声をかけてみよう。続けてみて、そのうち重荷になったらやめてしまえばいい。もう自分だけでもできるようになるはずだ。
▼3 これをマスコミ論では「遅延報酬」もしくは「延滞報酬」と呼ぶ。
このような「離陸」をカリキュラムとして支援するのが「新聞利用教育」(NIE)である。わたしも少人数教室の授業のときには講義の前後に「ニュース三分レポート」と称して、持ち回りで新聞記事の報告をしてもらうことがある。何かのきっかけになればいいなという程度のものだが、やはり自分がみんなにレポートするというのは印象深いものがあるようで、アンケートをとると、講義よりも「ニュース三分レポート」のほうがよかったといわれてしまう。
データベースをつくる
自分のデータベースをつくろう。といっても資金はないし根気もない。しかしそれでもできることがある。それが新聞の切り抜きである。それは、もっともチープなデータベースである。わたしが前に新聞を購読しようと述べたのは、そうでないと切り抜きができないからだ。そしてテレビだけではダメだと述べたのも、テレビ番組では安価に保存できず整理もむずかしいからである。保存性・経済性・一覧性の点で新聞の方が有利だ。
はじめは好奇心のおもむくまま切り抜けばよい。ただ気をつけなければならないのは、必ず読んでから切り抜くことだ。単純なことだが、これがなかなかむずかしい。切り抜きは、箱か引きだしにどんどんほうりこんでおく。レポートなどを書くときに、ちょっと関連するものを探ってみると、意外な発見があるものだ。分類するというムダなことはしなくてもいいが、やってみると自分の関心領域がかなり狭いことに気づくので、自分の人生を反省するいいチャンスになる。最初は広げるだけ広げることをお勧めする。大学生活前半の二年で広げておかないと、あとは狭くなるばかりだからだ(もちろん深く勉強しなければならないからだが)。
切り抜くときに必要な道具はハサミとボールペンである。切るだけでは「データ」にはならない。出典を明記してはじめて「データ」なのだ。出所不明の記事は使えない。必要な情報は次のものだ。
(1)新聞名(自宅から離れた場所で購入したものなら「読売新聞(大阪本社版)」のように書く)
(2)朝刊か夕刊かの区別
(3)年月日
(4)掲載面(ページと欄の種類)
(5)版(面によって版がちがうので要注意)
要するに紙面の上の欄外情報(たとえば「1994年(平成6年)11月1日 火曜日 14版 第二社会 30」)を切り抜きの余白に書いておくのである。めんどうなときは多少かさばるが一ページまるごと切ってしまうか、下の広告だけを捨てるようにして、上の欄外情報を残しておく。一紙しか購入していないのであれば新聞名は必要ないが、たまたま街頭で買った他紙には記入しなければならない。書誌学者の佐野眞は「朝日新聞朝刊一九九二年四月十日第一五面の一三版」を「ア92.4.10(15)13」と書いているそうだ。夕刊ならアを丸で囲む。▼4
▼4 佐野眞『自分だけのデータ・ファイル──新聞情報の整理法』(日本エディタースクール出版部一九九三年)五八ページ。本腰を入れてやりたい方は、ぜひこの本を参照してほしい。
なぜこんなにくわしいデータが必要かというと、今日の新聞はひとつではないからだ。たとえば「今日の朝日新聞」は朝刊と夕刊があるだけではない。東京本社版と大阪本社版と西部本社版と名古屋本社版がある。しかも同じ東京本社版でも面ごとに版がちがっている。
さて、社会学的な視点からいうと役に立つのは社説・連載記事・解説記事そしてメディア欄だ。どちらかというと、できごとのあらましと分析がわかればいいからだ。しかし、できごとの細かい時間的経過に注目するときはこれでは荒すぎるだろう。要はこちらの問題関心しだいである。わたし自身は基本的に社会学関係の講義の小テーマ(二〇項目程度)といくつかの関心分野ごとに紙製のホルダーをつくって、そこにほうりこんでおくだけにしている。分類できないものは別の小さな段ボールの空箱に入れるだけである。それぞれの記事にキーワードをつけてパソコンに一覧表をつくれば検索上有利であることはわかっているが、ものぐさなわたしにはできそうにない。たまに眺めたり、必要なときには箱のなかをひっくり返したりして使っている。▼5
▼5 いわゆる「情報収集」「知的生産」の技術にのめり込むのは危険だが(手間とお金ばかりがかかって肝心の勉強や研究がおろそかになる!)、それでも系統的に構築したい方は、山根一眞『情報の仕事術1収集』『情報の仕事術2整理』『情報の仕事術3表現』(日本経済新聞社一九八九年)を参照してほしい。刊行後五年ほどたっているが、少しも古びていない。なお、パソコン通信の商用ネットではクリッピング・サービスをおこなっているところがある(ニフティサーブやPC-VAN)。これを利用すると、主要全国紙を網羅して関心領域の記事を自動的に「切り抜き」できる。そう高いものではないので、テーマをもっている人にはぜひお勧めしたい。
メディア・リテラシー
ニュース日誌をつけたり切り抜きデータベースづくりを勧めるのは、それが批判的なメディア・リテラシーの成熟を促し、社会学的な感受性を高めるきっかけになるからである。そもそもリテラシーとは、読み書き能力のことである。つまり、メディア・リテラシーとは、メディアを読み解く力のことであり、メディア・リテラシーの成熟とは、リテラシーをより批判的なものに高めていくことだ。
わたしたちはマス・メディアを通じて現実世界を知ることが多い。もちろんマス・メディアが現実世界を、よく磨かれた鏡のように映しだしているのなら、とりたてて問題にすることもないのであるが、じっさいにはそうではない。マス・メディアは現実のごく一部を増幅して独自の世界を構成している。それは経済的な動機や政治的な意図あるいは演出的効果をねらうために独得のバイアスを生じるのである。しかし、それがわたしたちの現実認識を培養してしまう。
例をひとつあげよう。精神障害者が事件をおこしたとき、マス・メディアは人権上の配慮から容疑者を匿名にするとともに、精神病院に通院してしていたことをつけ加える。これを「受診歴報道」と呼ぶが、これがくりかえされることによって、受け手は精神病が事件の原因であり、精神病が犯罪と結びつきやすい危険なものと思ってしまう。なぜなら、そういうときにしか「精神障害者」がメディアに登場しないからである。ところが現実には健常者のほうが犯罪発生率は高いのである。このような誤認をマス・メディアの培養効果という。
したがって、マス・メディアのこうしたクセをあらかじめ熟知しておくことが必要になる。もちろん、マス・メディアによってさまざまなことを獲得し、そして十分に楽しめるようになるためにも、それは欠かせない。メディアを読み解く能力、すなわちメディア・リテラシーの構築が必要なのは、こういうわけである。▼6
▼6 カナダ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー──マスメディアを読み解く』FCT(市民のテレビの会)訳(リベルタ出版一九九二年)。これはたいへんよい本である。もともとはメディア教育をする教師のための読本であるが、一般の市民にとっても有効なレッスン方法が提案されている。
もう少しくわしく説明しよう。
わたしたちが接触するメディアにはさまざまな内容がふくまれている。しかし、その多くのものは「権力のことば」と「消費のことば」である。「権力のことば」とは、何らかの権力をもつ人たちが意図的に伝えようとする内容である。このような人たちは、わたしたちの利益のために活動しているということになっているが、じっさいには官僚や政治家や業界など一部の人たちの利害によって動いている場合が多く、額面通りに受け取ることはできない。しかし、たとえば一般紙の記事の九割近くが、官公庁の記者クラブなどで発表された広報や、行政や政治上の権限をもつ人たちの非公式の談話に基づいている。庶民がどんなに重要なことを叫んでもなかなかメディアは取り上げてくれないが、権力行使の現場にいる人たちの声は無料でメディアに乗る。原寿雄はこれを「発表ジャーナリズム」と呼び、その危険性を指摘しているが、要はそれをメディア内部の人たちとわたしたち受け手とが批判的に吟味しなければならないということだ。▼7
▼7 原寿男、前掲書、二三-四五ページ。
また「消費のことば」も流通しやすい。広告・宣伝・パブリシティはもちろん、趣味や文化に関するメディアも結局「消費のことば」を過度に流通させている。たとえば趣味の雑誌の半分は広告であり、残りの半分はパブリシティであり、その残りも新製品や新しいトレンドの紹介という消費情報にあてられる。▼8依頼されたパブリシティかメディアの自発的な取材かを問わず「消費のことば」はメディアに乗りやすいのだ。
▼8 パブリシティとは、マス・メディアに対してニュースの素材を無償で提供し、話題や商品情報・イウ゛ェント情報として無料で掲載・放送してもらうことをいう。いわば無料の広告であるが、使ってもらえるかどうかはメディアしだいである。
このように、わたしたちがさほどアクセス(情報への接近)の努力をしなくても「権力のことば」と「消費のことば」はわたしたちの地点まで届く。しかし、それらはわたしたちの社会生活のありようを反省するのに役に立たないばかりか、しばしばそれを阻害することさえある。なぜなら、その発信者にとってわたしたちは「行為の対象」だからである。それは「世論の操作」であったり「価値観の誘導」であったり「ニーズの喚起」であったりするが、いずれにしても発信者は自分たちとわたしたち受け手とを同一視していない。
それゆえ批判的リテラシーが必要なのである。まず、メディア自身が「ゲートキーパー」(門番)としてそれを批判的に吟味する段階がある。これがジャーナリズム性なのである。批判的吟味をしない「情報産業」では不十分なのだ。日本には国レベルの情報公開法がないために、一般市民にはなかなか批判的吟味ができず、結果的にメディアに依存せざるをえない実状がある。自分たちの生活を的確に捉えることを可能にすることば──これを「反省のことば」と呼んでおきたい──を伝える真にジャーナリスティックなメディアを選択し、それと積極的に接触しておく必要があるのはそのためである。
その上で、受け手もしくはユーザーであるわたしたち自身が批判的に吟味する段階がなければならない。わたしたち自身が「能動的な受け手」として一種のジャーナリスト的存在に成熟することが、現在のメディア環境に飲み込まれないようにするためには必要である。それには日々の意識的な努力が欠かせないのである。
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