2022年1月17日月曜日

『リフレクション』 あとがき

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』
あとがき

社会学、わたしたちはなぜ学ぶのだろう。

社会学、わたしたちはなぜ教えるのだろう。

これが本書で追求したかった基本的な疑問である。何のために社会学を学ぶのか。これまで社会学内部においてこの疑問はしばしば素通りされてきたように思う。少なくとも初学者が納得するような十分な説明がなされることなく、この問いは野ざらしにされてきたのではなかろうか。わたしにはそれが不満でならなかった。ときおり耳にする社会学の不評は、おそらくここらあたりに起因するのではないかと思う。とりわけ大学の一般教育科目(「大綱化」以降は「総合科目」などと名称が変わることが多いようだが)としては、受講者側に単位取得以外の動機がなく、しかも教員側も「学ぶ意味」について積極的かつ明確に提示できないという状況がしばしば存在する。

わたし自身も悩んできた。しかし今では、本論でさまざまに論じてきたように、社会学を学ぶ意味は──そして社会学研究の意味も──「反省」にあると考えている。

「反省」ということば、すでに世間では「サルでもできる」として、ほとんど陳腐なことばになってしまっている。なるほど今日では何か薄っぺらな印象さえあるし、もともと堅物教師的な押しつけがましさをもっている。社会学においても、多くの優れた理論構築が存在するにもかかわらず、一般的には──つまりこの概念に特別の理論的意義を見いだしていない研究者にとっては──すでに「ネコも杓子も」という感のある概念である。多くの人びとが特定のことばに何かしらの期待をこめて多用してしまうとき、そのことばの陳腐化もまた早い。「反省」ということばもまたそのプロセスにある。そのため識者のなかには本書の論旨に対して一種のスノビズムを感じ取る方がいるかもしれない。

しかし、それでもわたしは、まだこのことばにこだわっている。

たしかに社会学は、社会的現実の内実を不透明にする権力作用に抵抗するという意味において「万年野党」であり、社会的現実を生産するさまざまな職業的理念から距離をとる点では「無責任な傍観者」であり、科学的知見によって社会的現実を技術的に操作しようとしない点で「後ろ向き」にさえ見える。それゆえ人びとは──一般の人も実務家も隣接分野の専門家も──社会学を「役に立たない」非処方箋的でペダンティックな学問と決めつけがちである。「もっと役に立つ知識を!」というわけだ。しかし「反省」は「役に立つ」という価値基準そのものを問うことである。「役に立たないものは意味がない」という考え方そのものの意味を問い直すことである。社会学が理念的な意味での「市民(ブルジョアではなくシティズン)の社会」にとって不可欠な認識装置であるといえるのは、まさにこのような「反省」の触媒となる経験科学だからである。

本書では、このような社会学の思想的意義について、あるいはさらに大それたいい方が許されるならば、社会学の理念についてあらためて考察してきた。これをきっかけに読者の方々に社会学的な感受性の芽を自覚していただき、みずから意識的に反省能力を高めていくことを媒介にして、結果的に社会が反省的に変わっていく──本書がめざしているのは、このプロセスである。これはわたしが身のほど知らずなくらい欲ばりなだけでなく、それ自体、リフレクションの効果なのである。そして社会学が総体としてめざしているのも、結局、この反省的なプロセスなのだと思う。

しばしば社会学者が口にする「社会学のおもしろさ」もここにある。「社会学のおもしろさ」とは、じつは自分を知る喜びのことなのだ。「自分」といっても肉体的に限定された「自分」ではなく、自分の家族や所属する集団・組織・地域そしてかかわりのある他者を「社会的身体」とする「自分」のことである。複雑化した現代社会において、このような「自分の世界」を知るのは容易ではないが、それだけにそれを知る充足も大きいはずである。社会学者とは、このような蜜の味を知った者のことである。この蜜の味は分かちあわなければならない。

というわけで、この本の主張は「反省しよう」ということにつきる。しかし、そのプロセスはとても複雑である。そこで本書を構成するにあたって心がけたことは、これまで社会学と縁のなかった一般読者の方々にも理解していただけるよう、なるべく構図を単純化して説明を構成することだった。とくに、キー・コンセプトである「リフレクション」概念を、用語法として許されるであろうと思われる限界まで意味内容を拡張し、すべての議論がそこに還ってゆくような構造原理として設定した。そのために、理論的にはかなり甘いものになってしまったことは認めざるをえないし、リフレクション概念の内容が必ずしも一義的でないことも承知している(「リフレクション」の多様な意味内容をそれぞれ別の諸概念に仕分けることは可能だが、かえって議論が繁雑になってしまう)。概念を拡張的にふくらませて最小公倍数(最大公約数でさえない!)をとるような仕方で収れんさせないかぎり、全体像を一冊の本のなかで描くことはもはや不可能である。リフレクション以外の概念についても、わたしは終始このような方法で概念を整理した。そして、これは社会学の概念を「感受概念」(ブルーマー)として生かしてゆきたいという立場のひとつの具体的表現でもあった。この試みが成功しているかどうかは、読者の方々の判断にゆだねたい。

これに関連して付け加えると、なるべく論争的な記述を回避し、あるいはまた、ことさらに「最新」を気取ることも意識的にしていない。なるべく特定の学派的文法で語らないように、なるべくオーソドックスであり穏健であろう、と心がけたつもりである(しかしこれが意外にむずかしい!)。したがって、理論の紹介という点では新しいことはない。むしろ復古的でさえあるかもしれない。人ごとのようにいわせていただけるなら、この本は十年前に書かれていてもおかしくない本である。

というわけで、この本は荒削りな(荒っぽい)本ではあるけれども、その分、読者にとって見通しのよい案内図になっていればいいなと願うばかりである。なお本書でふれた個々のテーマについてさらにくわしい研究状況に興味をお持ちの方は前著『社会学感覚』を参照していただければ幸いである。この本は研究入門的なブックガイドとして役立つはずである。

さて、文化書房博文社の天野義夫さんにお世話になるのは、これで三度目である。『社会学感覚』では、教科書としても使えるようにとの配慮から既存の研究の紹介を優先させたため、全体を統一するわたしなりの理論的観点が後景に退くことになっていただけに、今回のお話はたいへんありがたかった。ふたたびチャンスを与えて下さったことにあらためて感謝しつつ、この小著のなりゆきをお任せしたい。

一九九四年四月二〇日

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