2022年1月17日月曜日

『リフレクション』第五章 コミュニケーション論の視圏(2)コミュニケーションの理想的局面

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』第五章 コミュニケーション論の視圏──〈反省する社会〉の構造原理(2)コミュニケーションの理想的局面

コミュニケーションの理想

「もしもこのコミュニケーション・システムが理論的に完全にできていたら、人は、どんなふうに他人に影響を及ぼしても、それと同じ影響を自分自身に及ぼすにちがいない。どこでもそれが理解される論理的宇宙で到達される理想である。そこで話されたことの意味は、他のすべての人にとってと同様に、どの人にも同一である」とミードはコミュニケーションの理想について語っていた。●2これをコミュニケーションの三水準に即して説明するとさしあたり以下のような構図になる。

第一水準で確認したように、コミュニケーションとは原理上偶発的で参加者の意図を超えた客観的な過程である。それはあくまでスリリングな過程であって、共通の利害と共通のことばでもって理解しあうといった談合的なものではない。たとえば、たんなる話の導入の手続きのつもりで「昨日の夜、電話したけどいなかったね。どこいってたの?」といったことに対して、相手が「そんなことどうでもいいだろ!」と反応してしまったら、コミュニケーションは予想もしない方向に進んでいってしまう。つまり相手の反応しだいでコミュニケーションはどこへでもいってしまうのだ。

しかし、この偶発性に対して、人間は音声身ぶりすなわちことばを使うことによって、ある程度の反省的なコミュニケーションをおこなうことができる。つまり相手の反応を自分の行為の解釈──つまり「意味」──としてとりいれ、有意味シンボルという共通なものをつくりだすことができる。こうして子どもは「水がほしい」ということばを発すれば母親から「水をもってくる」という反応を引きだせることを学ぶ。

コミュニケーション・メディアの発達は、このような共通の反応をもつ有意味シンボルをより普遍的なものにする可能性がある。特定の地域でしか通用しなかったあることばが、地域を超え国家を超えて共通の反応を呼び起こす(つまり共通の意味をもつ)ことが、コミュニケーション・メディアによって可能になる。

ミードが「話想宇宙」(universe of discourse)──「討議の世界」と訳すこともできる──と呼ぶのは、さしあたりこのような構図を前提としている。ミードは「話想宇宙」を「同一の有意味シンボルにより、すべての個人が、相互に会話する能力にだけ基礎づけられた社会によって代表される論理学的社会」●3と定義する。まったく平等な資格をもった人びとによる会議のようなものと思えばよい。

しかしここまでだと、いわゆる「バラ色のユートピア」構想にとどまってしまう。じっさいコミュニケーション論におけるミードの先行者だったクーリーのコミュニケーション論の方はこの段階にとどまっていた。小谷敏によると、クーリーのコミュニケーション論は、基本的に人間は等質であるとの前提に立つ。だから交通手段やコミュニケーション・メディアの発達によって人間の相互理解がますます進むというわけだ。小谷敏はこのようなクーリーの考え方を「等質性のユートピア」と呼ぶ。●4

しかしそれはあくまでも可能性であって、じっさいには事態はそうかんたんではない。たとえば同じ日本語をしゃべることができたとしても、教師が生徒にいったことに対して、生徒は特定の具体的状況下において教師の意図とは無関係に反作用してしまうものだ。たとえば教師の「バカ!」ということばも、励ましの意味に受け取られることもあれば、親密さをあらわしたり、教師の傲慢さの表現と取られることもありうる。ことばによる理性的なコミュニケーションであっても、第一水準の偶発性からは逃れられない。まして現代人はメディアを使用する。「メディアはメッセージである」(マーシャル・マクルーハン)といわれるように、メディアそのものがひとつの身ぶりとしてコミュニケーションの内容を強く規定する。しかもメディアはそれ自体、自律的に作動する。たとえば電話を使えばそのコミュニケーションは遠く離れたふたりに可能になるが、同時にそれは一対一関係に限定され、音声のみをクローズアップすることになる。恋人たちであればいっしょにいるだけでことばは不要であるが、それでもかれらが電話でコミュニケーションするときには沈黙は回避されるはずである。また電話は匿名性をコミュニケーションに持ち込むので、いたずらやいやがらせのコミュニケーションを誘発するとともに、「いのちの電話」「電話相談」のようなコミュニケーションもしやすくなる。●5このように、第三水準では、第二水準において見られる当事者のリフレクションが作動しにくくなり、メディアそのものの自律的運動に影響されがちである。それゆえこの水準では、コミュニケーションの反省作用をどうすれば活性化できるかが改めて問題になってくるのである。

ミードが立っている基本認識を現代風に定式化すると以上のようになる。だから「話想宇宙」といっても、たんに、世界中の人が英語を勉強して対話するとか、方言をなくして全員が標準語で会話できるといった、何かしら共通の言語を共有することではないし、メディアによってそれがますます現実化すると決めつけることもできない。

むしろ、利害の折り合わない人びとにおいても、あるいはまた生活環境や文化のまったく異なる人びとにおいても、自分のことばが相手に同じ意味で受け取られるとともに、相手のことばを相手の意図に基づいて解釈し、個性的な反応を返していくこと──そしてその通りに相手が理解し相手なりの反応を返すこと──なのである。もちろんこれは「みんな仲良く」式の世界について語っているのではない。むしろ逆に、加害者と被害者、資産をもつ者ともたない者、男性と女性、管理職と労働者、差別する者とされる者、教える者と教えられる者、送り手と受け手、売る側と買う側、大人と子ども、専門家と素人、障害者と健常者、医者と患者……といった対立的な役割関係にある人びとが対立的なまま、とりあえず討議する場とことばとが保証されている理性的な相互学習過程を構想しているのである。そして日常的なさりげない対話のなかにもその理念は宿っているというのだ。

だからここでミードが総括的に述べている理想は、わたしたちが通常思いおこすような理想と少し趣がちがう。その理想を「民主主義」と呼ぶとすれば、ミードにとって民主主義とは、みんながみんな似ているような平準化された社会秩序ではなく、個性的な個人が自分の可能性を最大限発達させるとともに、自分が影響をおよぼしている他人の態度に参入できることである。●6それはたんなるバラ色の理想主義ではない。葛藤的な社会像を前提した上での理想である。それゆえ小谷は、クーリーの「等質性のユートピア」に対してミードの社会ヴィジョンを「理性的主体のユートピア」と性格づける。それは「文化規範を異にする者同士が、相互の異質性を前提としながら、話しあいと再調整をくり返すことによって日々更新されていく、そうした社会関係」をめざす。その担い手は科学者のように理性的な態度をとる人びとである。●7

顧みれば、いわゆる情報社会論の系譜では今なお「等質性のユートピア」のヴィジョンが主流である。情報量が多くなればなるほど、チャンネル数が増えれば増えるほど、メディア技術が高度化すればするほど、望ましい社会に近づくという素朴な工学的社会観が今だに広く流通している。この傾向は「ニュー・メディア」や「マルチ・メディア」の名の下にまだまだ生き残りそうである。一種の葛藤的社会像を前提した上で、だからこそ理想的な討論の場が必要であり、反省的コミュニケーションのシステムを追求すべきだと考えるミードのヴィジョンは、今日でもけっして古びていないのである。

「みんないっしょ」だから活発になる「仲良し」コミュニケーションではなく、利害がちがうからこそコミュニケーションがおこなわれるような社会、異質な文化をもつ他者であるがゆえに反省的なコミュニケーションが活性化するような社会、葛藤が深まれば深まるほどリフレクションが作動する社会、自分たちの行為が予想外の反応を呼び起こしたことを当事者自身が的確に認識できるような社会──おそらくこのプロセス自体が「反省する社会」なのである。

ところで、以上のような議論をしていると、「この話、何かに似てるなあ」とある種の既視感にとらわれるのではあるまいか。そう、これはジャーナリズムの話そのものである。ジャーナリズムといっても現実のあれやこれやの報道活動というよりも、社会現象もしくは社会原理としてのジャーナリズムである。ジャーナリズムを広い意味で論じることは近年でははやらないが、戦前のジャーナリズム論では珍しくなかった。戦前の日本の代表的な論客から例をとると長谷川如是閑がいる。

長谷川如是閑は「対立意識というのは、敵対的の対立ではなく、社会的協同生活のそれぞれの立場という意味で、国としても国民としても、その性能や性格にそれぞれ個性があり、その差別に立って全体としての協同生活が成り立っているのだが、その各々の立場の社会意識を、私は対立意識と言っているので、対立意識の表現が即ちジャーナリズムである」●8と述べ、社会意識に内在する差異性に注目する。ここでは、社会の成員のさまざまな差異性を社会的コミュニケーションへ意識的に反映させてゆく活動としてジャーナリズムが捉えられている。

理想的発話状況とコミュニケーション共同体

ミードの「話想宇宙」概念の現代的対応物をみつけるとすれば、グールドナーの「合理的討議のための共同体」構想、アーペルの「理想的なコミュニケーション共同体のアプリオリ」、初期ハバーマスの「理想的発話状況」概念、後期ハバーマスの「コミュニケーション行為」論が代表的なものであろう。●9これらの諸概念の差異はけっして小さくはないけれども、大局を見失わないようにするため、ここでは一括して展望することにしたい。

かれらの主張──とりわけ理論的動機──におおむね共通する論点は次の三点に集約できる。

第一に、現実社会の権力作用を批判する批判理論(critical theory)の立場に立つこと。「ホロコースト」という想像を絶する大量排除現象へいたるユダヤ人迫害を身をもって体験したフランクフルト学派の問題意識がかれらに権力作用への徹底的な批判を要請しているように見えるし、社会主義側におけるスターリニズムや先進諸国における新左翼運動への失望などが始発点にあるようだ。概して現代社会学の場合、ファシズムとスターリニズムの投げかけた問題の影響は大きい。かれらには「なぜこうなってしまうのか」という切迫した問いかけが先行している。

それゆえ、権力作用がもたらす対立状態の固定化を排しその流動化をめざすというのがかれらの理論的課題となる。ジンメル流にいえば「文化の悲劇」がなぜ生じ、なぜ回避できないのか、そこから離脱する方法はないのか──これに答えるためには膨大な経験的研究とその総合が必要となる。なぜかというと、排除現象はもはや少数の独裁権力者の横暴や気紛れによって生じるのではなく、人びとの自発的な行為によって生じるからである。それこそファシズムの経験がはっきりと示していたことだった。その「自発的服従」はどのようにして供給されるのかをたどっていくと、現代のコミュニケーションのいびつなありようにたどり着く。現代社会におけるコミュニケーションに何か問題があるはずだというアプローチ、「歪められたコミュニケーション」への注目、これが第二点である。

では、批判の根拠となる地点はどこか。「歪められた」というからには、それは「歪められていないコミュニケーション」以外にない。「そんなものが存在するのか」という反論に応えて、かれらは詳細な言語理論の研究ののちに、夢想ではなく現実的な根拠としてそれが作用していることを論証する。それが「コミュニケーション共同体」であり「理想的発話状況」などと概念化されたものである。これらは必ずしもミードの「話想宇宙」概念に影響されたものでないにせよ、内容的にはその延長線上で理解することができる。これらはたしかに理念である。しかし、わたしたちはコミュニケーションをおこなうさい、確実にその理念をあてにしている。その見込みがなければ厳密な意味でのコミュニケーションをわたしたちは試みようとはしないだろう。たとえば、ガン患者が医師に真実を知らせてくれと要求するとき、若者が「別れましょ」という恋人を引き留めるとき、あるいは教授が大教室で私語する学生に学問を教えるとき──その理念は現実のなかにすでに内在しているといえる。これが第三点目である。

こうしてかれらは、現実とは別のところに理想を求める革命主義と袂を分かち、批判の根拠地点を現実のコミュニケーションそのもののなかに見いだすのである。身近な日常生活の実践に批判の根拠と理念の現実性が存在する。こうなると研究の営みは、観念の遊戯としての哲学でも倫理学でもない、経験科学としての社会学──それも脱領域的な社会学──を中心とした社会理論としかいいようのないものへとシフトしていく。

コミュニケーション合理性

この系統の代表的理論家であるハバーマスに即してもう少し補足しておこう。かれは社会的行為を「戦略的行為」と「コミュニケーション行為」のふたつの類型に分ける。「戦略的行為」とは目的合理的に相手に影響をあたえる行為であり、「コミュニケーション行為」とは互いに了解しあう行為であるが、両者の区別は当事者が「成果志向的態度」(思い通りの結果をえようとする態度)をとるか「了解志向的態度」(合意に達しようとする態度)をとるかによって区別される。●10了解(「理解」とも訳される)とは、少なくともふたりの主体(人間)の間で一致が達成される過程であり、ある言語表現を同じに理解することである。このような「了解」は言語そのものに宿っている。●11わたしたちが経験的に知っているように、じっさいにはなかなかそうはいかないのであるが、しかしわたしたちが「了解」をめざしてコミュニケーションしようとするとき、そこには一種の強制のない理想的コミュニケーション共同体(ミードの「話想宇宙」)が想定されているのである。「われわれが発話行為(と通常の行為)を遂行するときには、あたかも理想的発話状況(あるいは純粋コミュニケーション行為のモデル)が単に虚構のものではなく現実的なものであるかのように反事実的に振る舞っている」●12コミュニケーションがおこなわれるあらゆる状況は、完全でしかも拘束のない合意を達成するという意図を暗黙のうちにあらわしている。反事実的な理想的発話状況がすべてのコミュニケーション行為において先取りされているのである。これがさきほどわたしが「コミュニケーションの第二水準」と呼んだ人間コミュニケーションのもつ超越的契機である。

では、「了解」が達成される場合には、どのような条件が必要だろうか。もちろんお互いに言語能力があることが大前提であるが、その上で三つの条件が満たされなければならないとハバーマスはいう。真理性・正当性・誠実性がそれである。この三つが満たされるとき、そのコミュニケーションは「合意」に達する。第一に真理性とは、客観的世界(物理的環境世界)に照らして発言が真理であるということ。第二に正当性とは、社会的世界(社会的規範)に照らして発言が正当であるということ。第三に誠実性とは、内的体験世界(内的感覚)に照らして発言が誠実になされているということである。

たとえば「ここでタバコを吸ってもいいですか」という発言があったとしよう。イエスにせよノーにせよ、わたしたちはこの発言(質問)そのものが妥当であるかどうかをまず吟味する。その上でイエスかノーか、自分なりの応答を返すことになる。したがって、この質問そのものに対して「いいえ」と答えるケースを想像してみると、三つの場合に整理できる。●13

(1)「いいえ、あなたが今もっているのは禁煙具です」──これは、客観的世界に照らして質問そのものが成り立たない状況であることを示している。形が似ていても禁煙具はタバコではない。

(2)「いいえ、君はまだ小学生だ」──これは、質問が前提している社会的規範(社会のルール)が承認されていないことを示している。つまり、小学生がタバコを吸うなんてとんでもないという規範に照らして発言の妥当性を否定している。あるいは「いいえ、わたしはかまいませんが、周りの皆さんにもきいてください」と答えれば、自分が「はい」と答えたとしても質問者がタバコを吸っていいことにならないことを示す。これも正当性が試されている。

(3)「いいえ、あなたはたんに形式的な手続きとしてきいているだけで、わたしがダメというはずがないと思っているんでしょう」──質問者がほんとうに許可をえようと質問したわけでないことを示す。質問者が心からそう思って質問しているかどうか、つまり発言が発言者の主観的世界(意識)と一致しているかどうかが試されている。

以上の吟味をわたしたちは瞬時におこない、妥当であると見なしたときにのみ、この問いかけを了解し受け入れ、それに対する自分の主張を相手に返すのである。

同じように「火事だ!」という発言について考えて見ると──

(1)「いいえ、これはたき火です」──言及されている事態の把握がまちがっていて真実でない。

(2)「いいえ、大声をださなくても、だれでも火事だとわかります」──わざわざいうまでもないことを言及している点で発言に正当性がない。

(3)「いいえ、また君はわたしたちをおどかそうとしているね」──発言者が心からそう思って叫んでいるわけでないから、この発言は誠実でない。

このようにコミュニケーションの文脈のなかで発言文(語られたことばの内容)が検討されて瞬時にわたしたちは判断を下す。妥当なものかどうかの判断はその人がそれまで生きてきた生活世界によって供給された知識に基づいておこなわれる。生活世界とは人びとが解釈に利用しうる知識在庫──「知のストック」「知識の貯蔵庫」とも訳される──のことである。このような三重のチェックにおいて妥当であると判断するとき、わたしたちは心から納得するのであり、その状態を「合意」というのである。およそコミュニケーション行為の合理性とは、このような三つの基準を満たすことであり、ハバーマスはこれを「コミュニケーション合理性」(kommunikative Rationalita`t)と名づけるのである。

このようなコミュニケーション合理性への期待は具体的にはどのような展開になるのだろうか。理論を理論としてではなく現実に即して考えるという本書の趣旨にそって、ここであえて現代日本社会におきかえて説明しなおしてみよう。

ハバーマスのいう「合理的」コミュニケーションがおこなわれるべき場所を考えてみよう。裁判・国会審議・学問的討議・教育・福祉・医療……。これらにはそれぞれ特定された理念が存在し、共通にコミュニケーション合理性への期待がある。しかし現状はどうだろうか。真理性・正当性・誠実性において妥当かどうかチェックされたコミュニケーションになっているだろうか。

裁判や国会審議における発話行為はしばしば戦略的なものと化している。●14教育の現場においても「ゆとり」の名の下に切り詰められた時間のなかで消化しきれないほどのカリキュラムが課せられているために、教える者も教えられる者も戦略的に対応せざるをえなくなっている。さすがに老人福祉の分野ではしばしば「説得より納得」ということをスタッフが心がけて、それなりのコミュニケーション合理性への志向が見られるけれども、そのスローガンの前提にあるのは、じっさいには所定の目的を達成するために何が何でも「説得」してしまいがちな現場の雰囲気である。医療現場ではコミュニケーション合理性が慎重に追求されるべきであるにもかかわらず、やはりここでもゆとりがないのが実情である。こうして見ると、これらに支配的なのは了解志向的な「コミュニケーション行為」ではなく成果志向的な「戦略的行為」である場合があまりに多い。

ここで、第三章で紹介したジンメルの「社会はいかにして可能か」のロジックを思いだしていただきたい。このロジックはあのときのものとほぼ相似形である。ハバーマスのいう理想的発話状況とは一種の理念型である。しかも、現実の行為者が実践的に使用している理念型である。コミュニケーションに参加している行為者はいつも──たいていは無意識のうちに──その理念型を参照しながら、それとの「ずれ」として現実のコミュニケーションを検証しているのだ。だから、たとえばわたしたちが病院において医者の機械的な応答に腹を立てるとき、わたしたちがそのコミュニケーションに見いだそうとして失敗した理想がコミュニケーション合理性なのだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。