2020年3月4日水曜日

社会学感覚10−2 コミュニケーションとはなにか

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論

身ぶり会話としてのコミュニケーション

 コミュニケーションについてもっとも基礎的な理論を提供してくれるのは今日でもジョージ・H・ミードである。すでに自我論と役割取得論について紹介したことのあるミードの講義録『精神・自我・社会』を今度はコミュニケーション論について参照しつつ考察してみよう▼1。
 わたしたちは意識をもった自我として言語によって他者と対話する。たしかにこれが通常のコミュニケーションの姿である。しかし、コミュニケーションをここからとらえるかぎりその本質はみえてこない。
 コミュニケーションの現場で「現実に」生じていることを即物的に観察してみると、存在するのはふたつ以上の個体の動作のやりとりだけである。ここで第二章で示した「異邦人の眼で見る」ことにしよう。ふたりの人間のコミュニケーションの場面を異星人が観察しているとすると、まず人間Aが手をあげ顔面の一部を収縮しつつ顔面の中央突起の下にある穴から大きな音を発している。それに対して人間Bは歩くのをやめ首を前後に振りしつつ音を発して反応している。「おー、ひさしぶりだな、元気かい」「どうも、ごぶさたしてます」なんて会話も、異星人の観察ではこんなものだ。おそらくこれは動物どうしの場合も変わりないはずである。恋人たちの会話も犬のケンカも、いっさいの予断を排除して観察するかぎり、実在しているのは個体の「身ぶり」(gesture)だけである。
 ミードによると、社会過程を進行させる根本的なメカニズムは「身ぶり」だという。個体間の身ぶりのやりとりだけが現実に存在する。したがって、コミュニケーションを考える上で重要なことは、この「身ぶり」に注目することである。身ぶりによってコミュニケーションが進行するとなると、動物でもなんらかのコミュニケーションがおこなわれており、なにも人間だけの特権ではないということになる。コミュニケーションは個体相互の動作のやりとりによって進行する。
 この点についてミードは犬のケンカを例にあげている▼2。そのもっとも基本的な単位は三つのシーンからなる。
シーン1――はじめに犬Aが攻撃的な姿勢をとる。
シーン2――Aの身ぶりが犬Bに対する刺激となってBの反応[うなり声や威嚇的なしぐさ]をひきおこす。
シーン3――Bの反応の身ぶりがAに対する刺激となり、Aがそれに反応する。
 このような犬のケンカの場面で生じているのがコミュニケーションである。身ぶりによる応答が進行しているからだ。人間の場合であればボクシングやフェンシングなどがこれと同じ水準に相当するが、これがコミュニケーションのもっとも原初的な姿なのである。ミードは「身ぶり会話」(conversation of gestures)と呼んでいる。このようにコミュニケーションは第一義的には「身ぶり」という一種の記号に媒介されて進行する相互適応にほかならない。
 さて、このプロセスのなかで犬Aの身ぶりの意味を決定しているのはなんだろうか。それは犬Bの反応である。シーン1のAの身ぶりの「意味」は、シーン3のAに刺激として還ってくるシーン2のBの反応である。BがAの身ぶりを攻撃・威嚇の構えとして反応したことが、この場面におけるAの身ぶりの意味を決定したのである。
 一般に、ある個体の身ぶりの意味を決定するのは、それに対する他の個体の反応である▼3。つまりポイントは「受け手の反応」にある。受け手の反応が送り手の行為の意味を決めるのだ。
 これは人間のコミュニケーションについてもあてはまる。たとえば、よく「売りことばに買いことば」という。さりげなくだしたことばに対して[シーン1]相手が過剰に反応してしまったため[シーン2]思わず過激な態度とってしまう[シーン3]。この場合も、最初のことばの意味を決めるのは自分ではない。それをいわれた相手の出方がその意味を決めてしまうのだ。このように「意味」は人間の心的状態に生じるものではなく、コミュニケーションのプロセスのなかに客観的に存在するものとミードは考える。

人間的コミュニケーション

 では、人間のコミュニケーションの場合、動物となにがちがうのだろうか。ミードによると、人間は動物とは質的に異なる身ぶりをすることができるという。それは「言語」である。じつは「言語」もまた「身ぶり」の一種なのだ。これを「有声身ぶり」(vocal gesture)という。有声身ぶりが、他の身ぶり・動物の身ぶりとちがうところは、相手に聞こえるように自分自身にも聞こえるということだ。他の身ぶり――たとえば表情――は自分にはみえない。人間は、有声身ぶりによって、相手にひきおこす反応を同時に自分自身のうちにもひきおこすことができる。その結果、他者の反応を自分のなかに取り入れることができる。こうして人間は自分の発する言語の意味を意識できる。この反省的なメカニズムが人間の有声身ぶりを「有意味シンボル」(significant symbol)にする。
ここに自我意識の発生する基盤がある。自我があってコミュニケーションが生じるのではなく、逆にコミュニケーションのプロセスから有声身ぶりを媒介にして自我が生じるのである。「精神は、経験の社会的過程あるいは社会的文脈のなかで、身振り会話によるコミュニケーションをとおして生まれるのであり、コミュニケーションが精神をとおしていとなまれるのではない▼5。」このようにコミュニケーションは精神の発生基盤そのものであり、第一次的なプロセスなのである。

コミュニケーションの本質についての中間考察

 以上のように、コミュニケーションについての一般的なイメージ[ここでは「常識モデル」と呼んだ]に対して、社会学的なコミュニケーションの基礎理論はずいぶんちがった相貌を呈している。その結論を整理すると――
        常識モデル       社会学モデル
基本構造  情報のキャッチボール 記号を媒介にした相互作用
意味の決定  送り手の意図      受け手の反応
 ここまでくればコミュニケーション概念の形式的な定義も立体的にとらえることができるのではなかろうか。コミュニケーションとは「記号を媒介とする相互作用過程」である。この定義についていくつかの重要な論点を整理しておこう。
 第一に、コミュニケーションは「記号」を媒介にした過程であること。記号とは具体的には身ぶり・表情・ことば・文字・映像などのことだ▼6。
 第二に、情報が移動するのではないこと。「伝達」とは意味の共有であるが、これはどのような場合にも近似的なものにすぎないことを認識すべきである▼7。
 第三に、コミュニケーションは原則的に「相互作用」(interaction)であって、一方的な過程ではないこと。
 第四に、コミュニケーションの意味を決定するのは本質的に「受け手の反応」であること。その点で「受け手」はコミュニケーションの「始発者」(initiator)でもあるのだ▼8。「受け手」というのはたんに便宜的な呼び方にすぎない。
 第五に、コミュニケーションは反省的な過程であること。とりわけ人間コミュニケーションの本質はその「反省作用」(reflection)にある。これがあるために人間のことばはオームのことばとちがって「有意味シンボル」たりえるのであり、精神から創造的自我形成をへて社会形成に連なる独自の高度な文化的系列が可能になるのである▼9。

▼1 ミード、稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』(青木書店一九七三年)。
▼2 ミード、前掲訳書一九および四八ページ。
▼3 ミード、前掲訳書八五ページ。
▼4 この場合の「意味」はむしろ「客観的意味」といった方がいいだろう。ウェーバーの「主観的意味」とはまったく別のレベル――もっと根源的なレベル――である。
▼5 ミード、前掲訳書五六ページ。
▼6 人間がその歴史のなかで使用してきた記号の進化を丹念にたどった読み物として、ホグベン、寿岳文章・林達夫・平田寛・南博訳『洞窟絵画から連載漫画へ――人間コミュニケーションの万華鏡』(岩波文庫一九七九年)。
▼7 コミュニケーションのこの基本性格をもっとも典型的に示しているのは日常のあいさつである。たとえば「あついですね」「ええ、とても。どちらへ,」「ええ、ちょっと」といったありふれた会話において、言語上のことばの内容にそれほどの意味はない。まして情報の観点からいえば無意味とさえいえる。しかし、対応の仕方が決定的に重要なのである。あいさつは多くの場合、情報を交換しているのではなく、上下関係・新旧関係・友情関係などをメタ・レベルでそのつど再確認しているのである。
▼8 マクウェール、前掲書一八ページ。
▼9 ミード、前掲訳書に編者がつけたタイトル『精神・自我・社会』はこれを示している。

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