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ノンヴァーバル・コミュニケーション

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)
コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論

ノンヴァーバル・コミュニケーション

 人間のパーソナルなコミュニケーションの基本は言語によるものである。けれども、言語だけが〈無伴奏〉で使用されるのはまれである。人間コミュニケーションの現場の多くは、さまざまな〈伴奏〉や対位法的旋律の交錯するポリフォニックな意味の生成の場である。
 たとえば、わたしたちは会話のさいにことばだけを使っているわけではない。身ぶり・手ぶり・身体接触・顔の表情・視線(目くばせ)・距離のとり方・話し方・抑揚・声の質(トーン)・沈黙など、話し手は意識的・無意識的にコミュニケーションのプロセスにもちこむ。また、話し手の方は意図していなくても、聞き手=受け手の方が勝手にそうした諸々の「伴奏」と対位法的旋律を受けとってしまう。身体的特徴・服装・化粧もそのような働きをするし、話し役と聞き役の交替のタイミングなどもコミュニケーションの重要なファクターとして機能する。
 このように言語によるコミュニケーション以外のコミュニケーションを「ノンヴァーバル・コミュニケーション」(nonverbal communication)という。これは「非言語的コミュニケーション」と訳される。または「副言語」(paralanguage)と呼ばれることもある。ただしこちらはやや狭い意味で――話しことばに付随する音声上の特徴として――限定的に使われることが多い。人間の場合、言語がその独自で高度なコミュニケーションを可能にしているとはいえ、これらのノンヴァーバル・コミュニケーションもたいへん重要な働きをする。
 一般に、言語的コミュニケーションとノンヴァーバル・コミュニケーションをくらべるとノンヴァーバルの方が比重が重いといわれている。一説によると「二者間の対話では、ことばによって伝えられるメッセージ(コミュニケーションの内容)は、全体の三五パーセントにすぎず、残りの六五パーセントは、話ぶり、動作、ジェスチャー、相手との間のとり方など、ことば以外の手段によって伝えられる」という。じっさい親近感.敵意.優越感・服従感・誠意・権力など「関係」に関することがらは副言語によって高い確率で伝えられる▼1。また、だれしも子どものころ母親にウソをついてうまくダマせたつもりが、かんたんに見破られてしまったという経験をもっているものだ。これは母親が子どものことばより目線のようなノンヴァーバルな部分を重視して真偽を判定するからだ。ふつう子どもはノンヴァーバルな部分まで意識的にコントロールできないものである▼2。

ノンヴァーバル・コミュニケーションの文化的相対性

 ノンヴァーバル・コミュニケーションの意味は集団や社会の文化によって強く規定されている。わたしたちは言語についてはそれを承知していても、ジェスチャーや表情にもそれがあてはまることは意外に認識されていない。たとえば、ことばが通じないところだは身ぶりでコミュニケーションをとればいいと、わたしたちは考えがちである。しかし、ノンヴァーバル・コミュニケーションは言語と同様に――ときには言語以上に――集団と社会の文化に強く規定されている。
 たとえば、対話のさい相手の目をみることは、欧米の白人文化においては誠実を示す必要条件とされている。しかし、同じ欧米でも黒人文化ではこのような視線の交差[アイ・コンタクト]は必要条件ではない。またアジア文化圏では一般に相手の目をみないことが尊敬の念を示す場合が多い。南アジアではでは男女が相手の目をまっすぐみつめるのは夫婦間だけにかぎられている。日本では話し手の目をみつめることは相手に緊張感をあたえやすい▼3。
 ノンヴァーバル・コミュニケーションの文化的相対性の問題が顕在化するのは、いうまでもなく、まったく異なる文化に属する人びとのあいだのコミュニケーション――「異文化間コミュニケーション」(intercultural communication)――においてである。ノンヴァーバルなメディアについての双方の解釈コードが異なることによって、送り手と受け手に共通の反応が生じないことによるのである▼4。

▼1 マジョリー・F・ヴァーガス、石丸正訳『非言語(ノンバーバル)コミュニケーション』(新潮選書一九八七年)一五ならびに一〇三ぺージ。バードウィステルの分析による。なお、この本はノンヴァーバル・コミュニケーションについてのすぐれた入門書であって、たいへんわかりやすい。著者はドイツ系アメリカ人でボリビア出身の夫をもつ女性の言語技術研究者。
▼2 ゴッフマンによると、コミュニケーションの受け手は、送り手がコントロールしやすい側面[ことば]を表情のようなコントロールしがたい側面と照合して反応する。そのさいノンヴァーバルな後者の側面はかえって受け手に疑念をいだかれずにいるので、その側面を意識的にコントロールすることで送り手は一定の効果をえることができる。E・ゴッフマン、石黒毅訳薫『行為と演技――日常生活における自己呈示』(誠信書房一九七四年)
▼3 K・S・シタラム、御堂岡潔訳『異文化間コミュニケーション――欧米中心主義からの脱却』東京創元社一九八五年。一七一ページ。
▼4 くわしくはシタラムの前掲書を参照。この本は異文化間コミュニケーションに関するバランスのとれた概説書。シタラムはインド出身のアメリカのコミュニケーション研究者。それだけにアジア文化圏についての記述も豊富だ。ヴァーガスにせよ、シタラムにせよ、そのマージナルな経歴が日常のコミュニケーションに対する繊細な感覚を育て、その結果アメリカ社会における日常生活の自明性を「異邦人の眼で見る」ことを可能にしていることにも注目しておきたい。

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