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教育問題の構造

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)

教育問題の構造

大衆教育社会

 本編の社会問題論では「教育問題の構造」も予定していたが、紙数調整の関係で断念した。しかし、教育問題は今や社会全体の重要問題になっており、ここでも社会学の有効性が試されている。この分野をあつかうのは教育社会学である。教育社会学は近年非常に活発に研究がなされている専門分野だ。
 教育問題を考える上でまず必要なのは、全体構図を歴史的社会的に位置づけておくことだ。苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ――学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書一九九五年)は、教育の現時点の座標軸を理解するのによい本である。現代は「大衆教育社会」であるというのが本書の出発点。それは「教育の量的な拡大」と「メリトクラシー(業績主義)の大衆化」と「学歴エリートの支配」によって特徴づけられる社会である。このような大衆教育社会において人びとがもつ特有の視線の神話性について、実証データを駆使して考察されている。教育について私たちがもつステレオタイプな見方や考え方が、思いもかけない結果をこの社会にもたらそうとしていることがわかる。それにしても、有力大学の進学者の七五パーセントが上層ノン・マニュアル(専門家や会社役員・管理職)の子弟によって占められつづけてきたという現実には、あらためておどろく。

教育言説の分析

 教育問題といっても時代によって問題のありようは異なる。問題行動の発生場所に注目すると学校外から学校内へと移動しているところから、最近は「学校問題」と呼ばれる一群の問題に焦点がおかれるようになった。つまり、学校そのものが問題とされているのだ。もちろんこんなことは若い人たちには自明であるかもしれない。しかし「心の教育」などという抽象的な言説が復古している教育界の現状を見てもわかるように、それは教育界では今なお自明ではないのである。
 じつは教育問題の語られ方そのものに学校問題の問題性があるのではないか。教育に携わる人やそれを論じる人たちの語りそのものが教育とその問題を構築しているのではないか。今津孝次郎・樋田大二郎編『教育言説をどう読むか――教育を語ることばのしくみとはたらき』(新曜社一九九七年)は、そのような視角からの共同研究の成果である。教育言説とは「教育に関する一定のまとまりをもった論述で、聖性が付与されて人々を幻惑させる力をもち、教育に関する認識や価値判断の基本枠組みとなり、実践の動機づけや指針として機能するもの」である(一二ページ)。教育言説はしばしば宗教の教義のように、それに対する批判を封じ、現場での自明の判断基準となる。
教育および教育問題を言説的構築物と見る社会構築主義的な見方は、フーコーに影響を受けている。この見方によると、教研集会やマス・メディア上での発言や研究者の議論なども「問題」の重要な構成要素ということになる。同様の試みとして、上野加代子『児童虐待の社会学』(世界思想社一九九六年)。方法論的な議論としては、北澤毅・古賀正義編著『〈社会〉を読み解く技法――質的調査法への招待』(福村出版一九九七年)が参考になる。タイトルは一般的だが、執筆者は教育社会学の研究者が中心である。

いじめ

 学校問題のひとつにいじめ問題がある。昨今は「いじめ」概念が拡大されて、たんなる傷害事件や恐喝事件でさえ「いじめ」で括られてしまうので、かえって議論が不明確になっているきらいがある。「やらせ」もそうであるが、ひらがな三文字は拡大使用されがちだと思う。
 いじめの集団力学的分析としては、森田洋司・清水賢二『新訂版 いじめ――教室の病い』(金子書房一九九四年)が代表的な社会学的研究になる。
 森田らは「いじめの四層構造」を指摘する。いじめの場面において学級集団は「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」の四層構造をなすというのである。いうまでもなく「加害者」はいじめっ子であり、「被害者」はいじめられっ子。「観衆」とはいじめをはやしたておもしろがって見ている子であり、「傍観者」とは見て見ぬふりをしている子である。いじめの過程で重要な役割を果たすのは、じつは「観衆」と「傍観者」の反作用(反応)である。かれらが否定的な反応を示せば「加害者」はクラスから浮き上がり結果的にいじめへの抑止力になるが、逆に「観衆」がおもしろがったり「傍観者」が黙認するといじめは助長される。ほかに「仲裁者」という役割も存在するが、いじめの場面では極端に減少し、クラスは「四層化」されている場合が多いという。
 森田らの調査によると、いじめの被害の大きさは「加害者」の数とは相関性がないという。いじめ被害の増大と相関するのはじつは「傍観者」の数である。「傍観者」が多くなるほど被害が大きくなる。そして学年が上がるほど「傍観者」の数は多くなる。ここに現代型いじめの大きな特徴があるという。

不登校・登校拒否

 この分野の代表的な研究は、森田洋司『「不登校」現象の社会学』(学文社一九九一年)である。これは標準的な調査によるもの。それに対して、朝倉景樹『登校拒否のエスノグラフィー』(彩流社一九九五年)は、登校拒否問題を構築主義の観点から整理した論考と、著者自身が参加している東京シューレのエスノグラフィから構成された研究。

大学問題

 本書の読者には大学関係者(学生・教員)が多いことと思う。現在の大学が多くの問題をもっていることを実感されている人も多いだろう。
まず、学生の問題については、教育社会学者が私語を論じた一冊だけをあげておきたい。新堀通也『私語研究序説――現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。この本によると「大学生の私語」という現象は、一九六〇年代後半からすでに私立の女子短大で問題化し始め、一九八〇年代に入って一気に全大学共通の問題へと一般化したという。大学生の私語は「現代日本の教育的問題状況の象徴」だというのが著者の見解である。
 私語の背景にはさまざまな要因がある。もちろん教員や大学側の問題もあるが、学生側にも多くの問題がある。ランダムにリストアップしてみよう。
(1)公私のけじめの消滅
(2)テレビ視聴の構図の持ち込み
(3)子ども中心主義
(4)マジメに対する冷笑的態度
(5)学生の大衆化
(6)不本意就学・不本意在学・不本意出席
 とくに、「情報化」が反主知主義を社会に生み、それが現代の大学生にも反映しているという指摘には説得力がある。ちなみに反主知主義とは、知性よりも感性を重んじる考え方のことである。私語をテーマとしているとはいっても、現代学生一般の現状分析になっていると思う。
こうした実態を前提にした上で、当の学生に訴えようとするものとして、浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎一九九六年)がある。浅羽はしばしば『ゴーマニズム宣言』にも登場する評論家であるが、「ニセ学生」としてさまざまな大学の教室に参加した豊富な経験の持ち主として有名な人である。
 現代学生の分析はそれほど多くないのに対して、教員や大学制度についての研究はかなりあり、社会学的研究も多い。ただ、やや難解になりがちなので、ここでは若い人でも読めるものを若干あげるにとどめることにしよう。
 まず、大学問題の概観を与えてくれるジャーナリスティックなものとして、産経新聞社会部編『大学を問う――荒廃する現場からの報告』(新潮文庫一九九六年)。大学教員の問題をアイロニカルに論じた、鷲田小彌太『大学教授になる方法』(PHP文庫一九九五年)や鷲田小彌太『大学教授になる方法・実践篇』(PHP文庫一九九五年)。その続編として、鷲田小彌太編著『大学〈自由化〉の時代へ――高度教育社会の到来』(青弓社一九九三年)。桜井邦朋『大学教授――そのあまりに日本的な』(地人書館一九九一年)と、桜井邦朋『続大学教授――日々是好日』(地人書館一九九二年)も辛口の教員論だ。じつはここ数年風向きがずいぶん変わってきており、それを反映した近作では、川成洋編著『だから教授は辞められない――大学教授解体新書』(ジャパンタイムズ一九九五年)と、川成洋編著『だけど教授は辞めたくない』(ジャパンタイムズ一九九六年)。

反学校文化

 教育問題を議論するときに考慮しなければならないファクターとして「反学校文化」がある。学校や教師に反抗し、優等生たちをバカにするような独特の子ども文化である。
 階級社会イギリスにおける反学校文化については、ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗 労働への順応』熊沢誠・山田潤訳(ちくま学芸文庫一九九六年)が古典的存在になっている。いわば「落ちこぼれ」のサブカルチャー研究である。副題にもあるように、「落ちこぼれ」たちの学校や教師への反抗が、期せずして下積み的な肉体労働者への自発的順応になっているという皮肉な事態――しかもそれがイギリスの階級社会を再生産するメカニズムを支えるという冷徹な現実が丹念に描かれている。
 桜井哲夫『不良少年』(ちくま新書一九九七年)は、それを近代日本の歴史の中で検証しようとしているように見える。そして現在、そのような反学校文化が不在であるところにこそ、回収されない心性がわだかまる要因があり、それがあるきっかけで噴出するのかもしれない。
 とりあえずここでは「反学校文化」と呼んできたが、それはべつに「反学校」である必要はない。不登校現象の示すように「脱学校」でもよいし、「遊び」の文化でもよいし、もちろん「家族」でもよい。とにかく自分の存在を承認してくれる他者のいる場であれば、その中では「落ちこぼれ」も「反社会的」というレッテルも気にせず、プライドを守りながら自分を社会的に落ちつかせる地点をみつけることも可能なはずなのだ。本編のアイデンティティ論や役割現象論の章で説明しておいたように、「他者の承認」をえることが社会的存在としての人間の根本的な性質なのである。宮台真司が一連の時事的論考で示唆しているのも、おそらくこのようなことではないかと思う。宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社一九九七年)などで考えてほしい。

実践の共同体への参加過程としての学習

 当然のことだが、教育活動の中心には学習概念がある。現在の教育制度の枠組みを構成している学習概念は「既成の知識を受容すること」であるか、せいぜいその「応用」どまりである。しかし、学習とはそれだけのことなのか。この疑念に対してヒントを与えてくれるのが、ジーン・レイヴ、エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習――正統的周辺参加』佐伯胖訳(産業図書一九九三年)である。基本的には徒弟制の分析なのだが、現在の教育制度が排除してきたものはこれだったかという思いを抱く本である。
 レイヴにはこの本の他に、ジーン・レイヴ『日常生活の認知行動――ひとは日常生活でどう計算し、実践するか』無藤隆・山下清美・中野茂・中村美代子訳(新曜社一九九五年)という翻訳もでている。

新しい教育理論

 山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』(ちくま学芸文庫一九九六年)は、おもに一九七〇年代以降にあいついで現れたオルタナティヴな教育理論を解説し、その実践的可能性について論じたもので、イリイチ、フーコー、ブルデュー、フレイニ、バーンステインを中心に著者流のていねいな解説が特徴。まるで講義を受けているようだ。

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