2020年3月4日水曜日

社会学感覚25−増補 医療問題の構造

社会学感覚(文化書房博文社1992年/増補1998年)

医療問題の構造

医療について考え始める

 本編では患者論に限定して医療問題をあつかった。ここでは広く医療問題全般について考えるための基本資料を紹介しよう。
 向井承子の『病いの戦後史――体験としての医療から』(筑摩書房一九九〇年)。患者の側から見た医療を体験的に、しかも問題を客観的に知ろうとする姿勢に貫かれた医療戦後史。永井明『医者が尊敬されなくなった理由』(集英社文庫一九九五年)は「理由」シリーズの中の一作。話題になった旧作もおもしろいが、これは医者の側から見た医療のさまざまな側面をバランスよく描いているのがよい。患者の視点と医者の視点とを対照させて読みくらべてほしい。
 その他、柳田邦男『人間の事実』(文藝春秋一九九七年)で紹介されている数多くの手記を手に取ってみてほしい。この本の前半部は医療系のノンフィクションの紹介にあてられている。

文化現象としての医療

 医療は医学や薬学だけの特権的領域ではない。それはすぐれて文化現象である。その視点から医療の文化的社会的側面に関するキーワードを徹底的に網羅した用語集として、医療人類学研究会編『文化現象としての医療――医と時代を読み解くキーワード集』(メディカ出版一九九二年)がある。もちろん事典として使えるが、むしろ「どこからでも読める現代医療入門」といったユニークな本。医療問題を議論する上で欠かすことのできない基本知識を学ぶのに最適だ。

医療社会学

 医療社会学についての基本書として二点あげておきたい。黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』(世界思想社一九九五年)と、佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』(世界思想社一九九八年)。前者は、医師・病院・患者・看護婦・製薬業界といった、医療にかかわるさまざまな主体ごとに問題を整理したもの。近代西洋医学を相対化する視点から構成されているのも特徴である。後者は、人間ドック・野口英世・赤ひげ・脳死と臓器移植・不妊治療・ホスピス・インフォームドコンセントについてのステレオタイプ化された言説を「医療神話」と押さえ、それぞれを社会学的に批判したもの。福祉国家の起源を軍国主義時代に求める論文もある。概して歴史社会学ないし社会史的なスタンスから神話を解体するという流れになっている。大ざっぱな医療批判でなく、緻密な議論になっている。
 この二点に、学説中心の進藤雄三『医療の社会学』(世界思想社一九九〇年)を加えると、ほぼ日本の医療社会学の現状が把握できる。
最近のイギリス系の社会学では、「医療社会学」から「健康と病気の社会学」への転換が生じている。かつてはもっぱら病院・医師・ナース・薬といった要素を対象としていた医療社会学だが、健康食品や民間療法などの「健康関連問題」も射程に入れなければならなくなり、何よりもライフスタイルという複合的な要素がたち現れてきたからだ。もはや公式の医療制度に属するものだけが「健康と病気の社会学」の対象ではなくなっている。日本の研究も近いうちにそういう流れになってくるだろう。

医学の不確実性

 すでに紹介した『医療神話の社会学』を読むと、西欧近代医学が意外に「はりぼて」仕様の、脆弱な基盤しかもたない営みであることがわかる。それが確固たるものに見えるのは、私たちが「近代医学」という神話を信じて制度をこしらえてきたという事実に起因するのだ。医師でもあった中川米造の『医学の不確実性』(日本評論社一九九六年)もそれを主題とした概説書。
 そもそも医学の不確実性という問題は、一九七〇年代あたりの精神医学批判から連綿と指摘されつづけてきた。イングレビィ編『批判的精神医学』宮崎隆吉他訳(悠久書房一九八五年)におさめられたコンラッドの有名な論文「逸脱とその社会的コントロールの医学化」がその代表的なものである。さまざまな診断的カテゴリーの応用は、技術的に中立な営みというよりむしろ政治的な営みだというのが批判者の見方である。
ネトゥルトンのまとめ[Sarah Nettleton, The Sociology of Health and Illness, Polity Press, Cambridge, 1995. ]を借りれば、「生体臨床医学」(biomedicine)をメインパラダイムとする西洋近代医学は五つの仮説を基礎としている。
(1)心身二元論(精神と身体は分離して取り扱うことができる)
(2)機械メタファー(身体は機械のように修理できる)
(3)技術的命令の採用(過剰な技術的介入)
(4)還元主義(生物学的変化によって病気を説明して社会的・心理学的要因を無視)
(5)特殊病因論の原則(19世紀の微生物病原説のように、すべての病気がウィルスやバクテリアのように同定可能な特殊な作用因によってひきおこされると考える)
 このような生体臨床医学は、この二十年ほどのあいだに多くの批判にさらされてきた。
(1)医学の有効性は強調されすぎてきた。
(2)身体を社会環境的文脈に位置づけるのに失敗している。
(3)患者を全体的人格ではなく受動的対象としてあつかう。
(4)出産を病気のようにあつかう。
(5)科学的方法によって病気の真実を確認していると想定しているが、じっさいにはそれは社会的に構築されたものである。
(6)医学的専門家支配の存続を許してきた。
 このような論点をカバーするものとして「健康と病気の社会学」が位置づけられる。医学はたしかに身体の経験科学なのだが、こちらも身体の経験科学であることにはちがいないのだ。

医療人類学

 近代医学を相対化し、それに対する各自の信仰的な態度を払拭させるには、非西洋医学の実態を知ることが有効である。その点で医療人類学は大いに参考になる。
 医療人類学のデファクト・スタンダートとしては、G・M・フォスター、B・G・アンダーソン『医療人類学』中川米造監訳(リブロポート一九八七年)。人類学ではあるが、西洋世界の医療のところはほぼ医療社会学とほぼ重なる。コンパクトなものでは、宗田一監修、池田光穂『医療と神々――医療人類学のすすめ』(平凡社一九八九年)の「第二部 医療人類学入門」が百ページほどで系統的に概観を描いている。それに対して、波平恵美子『医療人類学入門』(朝日選書一九九四年)は、短いエッセイを積み上げたような入門書。波平の本はどれも読みやすいので、初学者は彼女の本から入るといいだろう。

社会史的研究とフーコー

 医療人類学が近代医学に対する空間的比較のまなざしをもたらしてくれるのに対して、時間的比較のまなざしをもたらしてくれるのが社会史的な医療研究である。
 クロディーヌ・エルズリッシュ、ジャニーズ・ピエレ『〈病人〉の誕生』小倉孝誠訳(藤原書店一九九二年)はその代表的な研究。理論的には社会構築主義の立場に立った研究である。
 この分野の隆盛を導いたのは何といってもフーコーである。ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生――医学的まなざしの考古学』神谷美恵子訳(みすず書房一九六九年)がここでの文脈に一番近い著作であるが、もともとフーコーは精神医学の批判的研究からその思索を始めた人であり、終生、医学的知識の歴史的構築をめぐって思想を展開した。主要著作の解説書としては、中山元『フーコー入門』(ちくま新書一九九六年)が比較的やさしい。

女性と医療

 B・エーレンライク、D・イングリシュ『魔女・産婆・看護婦――女性医療家の歴史』長瀬久子訳(法政大学出版局一九九六年)という本がある。原著は二冊あって、それが翻訳では第一部と第二部に編成されているのだが、注目してほしいのは、第二部の「女のやまい――性の政治学と病気」の方だ。典型的なフェミニストのスタイルで論旨は明快。医療においてもまたジェンダー・バイアスの問題が存在することに気づいてほしい。一連の看護婦不足問題も、こうしたジェンダー構造との関係で見ることもできるのではないか。

ヘルシズム(あるいは健康幻想)

 お昼時の「みのもんた」の一言で多くの人たちが右往左往する昨今である。「健康にいい」というフレーズはすべてに優先する。それはもはや現代の民俗宗教である。
 こういう言い方に違和感のある人は、田中聡『健康法と癒しの社会史』(青弓社一九九六年)のような著作を読んでみるといいだろう。健康法についての図版満載の社会史であるが、そこで描かれているのと大して変わりない言説が現在もマス・メディア上で日々生産され続けており、しかも人びとの大きな支持をとりつけている事実に気づくにちがいない。ヘルシズムは医療文化の非常に大きな部分を占めているのである。小野芳朗『〈清潔〉の近代――「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」へ』(講談社選書メチエ一九九七年)も、近代国家の歩みに即して「国家衛生システム」の展開をたどったもの。よく調べてある。
 こうした状況に批判的なスタンスから論じた文献としては、イヴァン・イリイチ『脱病院化社会――医療の限界』(晶文社一九七九年)が基本書であるが、アーヴィング・ケネス・ゾラ「健康主義と人の能力を奪う医療化」という基本論文がおさめられた、イバン・イリイチ他『専門家時代の幻想』(新評論一九八四年)にもあたりたい。
 このほかにも基本文献は多数あるが、健康概念を対象としている「保健社会学」サイドからの研究書もでている。園田恭一『健康の理論と保健社会学』(東京大学出版会一九九三年)。園田恭一・川田智恵子編『健康観の転換――新しい健康理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)。 いずれも公衆衛生学系のテイストの研究書。もちろん論調はかなりちがう。

脳死

 一九九七年に臓器移植法が施行され、日本でも「脳死」の概念が制度的な根拠をもつにいたった。あちらこちらでドナーカードが配布され、臓器移植の準備体制も整いつつある。
「脳死の社会学」はまだ形を整えていないが、脳死を社会関係の文脈の中で考える試みは他の分野ですでに始まっている。森岡正博『脳死の人――生命学の視点から』(福武文庫一九九一年)はその代表的な作品。タイトルに表れているように、脳死を抽象的な議論ではなく、あくまでも人のありようとして考えようとする論考である。
 もうひとつ注目すべきノンフィクションとして、柳田邦男『犠牲(サクリファイス)――わが息子・脳死の11日』(文藝春秋一九九五年)。柳田は著名なノンフィクション作家で医療ジャーナリズムの第一人者だが、これは当事者としての生々しい手記であり、グリーフワークでもある。家族としての視線とジャーナリストとしての視線の交錯する印象深い作品だ。

病院死

 山崎章郎『病院で死ぬということ』(主婦の友社一九九〇年)がベストセラーになり、映画化されたりテレビドラマにもなった。終末期医療が多くの人びとにとって実感のともなうことがらになった、これはそのひとつの証左であろう。エッセイともフィクションともつかぬ語り口をそのまま社会学的思考に組み入れるわけにはいかないが、とりあえず議論の導入として読んでおく必要があるだろう。続編の山崎章郎『続 病院で死ぬということ―そして今、僕はホスピスに』(主婦の友社一九九三年)とともに現在は文春文庫に入っている。
 病院死の問題は社会学でも比較的早い時期に研究されてきた。たとえば最近翻訳のでた、デヴィッド・サドナウ『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』岩田啓靖・志村哲郎・山田富秋訳(せりか書房一九九二年)は、一九六七年刊行のエスノグラフィである。Barney G. Glaser, Anselm L. Strauss『死のアウェアネス理論と看護――死の認識と終末期ケア』木下康仁訳(医学書院一九八八年)も原著は一九六五年にでた研究書である。いずれも、このテーマについては広く知られているキュープラー・ロスの『死の瞬間』に先行する。

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