『子犬に語る社会学』第4章 自分という物語

『子犬に語る社会学』
第4章 自分という物語

■私という現象

お前たちには「自分」というものがあるのだろうか。性格は違うし、反応にもずいぶん差がある。まあ、個性らしきものはあるね。ご近所にマーキングして、しっかり自分のなわばりを主張してもいるから、なにかしら「自分」という概念はあるのだろうな。でも、「私はだれ?」と自分に問うようなことはないよね。

現代人は、それこそ「自分」のかたまりだ。自分という物語にしがみついているようでさえある。「私はだれ?」と自分に問うような毎日を送っていることも多いだろう。ところが、「私はだれ?」というのが難問なんだ。人によって答えが違うからというだけでなく、その問いそのものが理論的な問題をもっているからだ。

さて、私は若いときに宮沢賢治を読むのが好きでね。とくに詩をよく読んだ。心象スケッチというやつだな。その中に通称「序詩」と呼ばれる有名な詩があるんだ。それをヒントに話を始めよう。その詩は次のフレーズから始まる。

わたしくといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

ちょっとわけのわからないところがいいんだ。解読すると野暮になる。要するに、自分という確かな実体はないのであって、それは風景(自然環境)やみんな(社会環境)と連動しながら、あたかもひとつの連続体として存在しているかのように見える現象にすぎないということだろう。

かえって今は「私は私よ」とか「自分らしく生きなさい」といったメッセージがあふれている。しかし、賢治は「私」とか「自分」とか言ったって、そんなに確実なものじゃないんだというんだな。そして「交流」の産物だと見切っている。つまり「関係の束としての私」という発想だな。すでに一九世紀半ばに若きマルクスが人間は「社会的諸関係の総体」だと考えついてはいたんだが、大正時代の日本で、こんなことを言う人はいなかったろうね。

社会学は、こういう先見性のある「反省のことば」に学ぶことができる。とくに「自分」という問題については、文学や哲学や宗教のほうが深いからね。そういうものを現代的に読み直すというやり方の社会学もあるんだ。

■鏡の中の自己

まず、自分という現象を多面的で複雑な現象と捉えること。そのうえで、社会的な側面に焦点を当てて、自分という現象に迫る。社会学の自我論の多くは、じつはそうではないんだ。自分という現象は、もともと社会現象だと考えるんだ。つまり、さまざまな交流があって、そこから自己が発生し、高度な自我意識が発達すると考える。そして、自分の中の内面的な心理は、そうした社会過程の結果に過ぎないと考えるんだ。ちょっとラディカルだろう?

だから「私はだれ?」という問いは、あくまで社会学的な問題なんだ。この点について社会学は、心理学や精神分析などの学問に対して批判的にならざるをえない。これらは「心」を実体化しすぎて、結果に過ぎないものを原因と見なしてしまっている。転倒だな、これは。でも、転倒しているほうがわかりやすいから、世の中ではこれらの学問はもてはやされているとも言えるんだ。気をつけなきゃいけないよ。

というわけで、自分という現象に対する社会学的な出発点は「交流」つまりコミュニケーションだ。基本的なイメージは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」というものだ。映すというのがコミュニケーションにあたる。

相手の姿や振る舞いを私たちは認識して、それに反応する。相手が明るく「やあ!」と言えば、こちらも明るく「おおっ!ひさしぶり」と返す。つまり自分が相手にとって「鏡」になっているんだな。それはお互い様だから、自分にとっても相手が鏡だ。鏡に映っている自分を見てはじめて自分がどのような人間なのかがわかる。それを自覚することで、人は自分が相手にとって何者であるかを知るんだ。そして相手にふさわしい自分を演じる。

要するに、他者という鏡に照らして、そのつど仮面を取り替えて、自分を演じ、自分を感じるというわけだ。

鏡と鏡の照らしあいがうまく行くと、お互いに気持ちがいいんだが、うまく行かないと私たちはひどく不安になったり不愉快になったりする。自分という現象は、その感情を含めて、根本的にコミュニケーションの産物なんだな。

■役割のマトリックス

コミュニケーションは必ずしもうまく行くとはかぎらない。むしろ生のコミュニケーションはうまく行かないのがふつうだ。専門用語で「ダブル・コンティンジェンシー」つまり「二重の偶発性」なんて呼ぶんだが、相手もどう動くかわからないし、自分もどう動くかわからない。コミュニケーションって、どう転ぶかわからない、とても不安定なものなんだ。

そこで人間たちは長い時間をかけて発明をした。それが「役割」だ。

たとえば、「店員と客」という一組の役割がある。お店という社会的状況ではこれを使えばいい。店員「いらっしゃいませ」客「これください」店員「ありがとうございました」。店員である相手に対して私が客という役割で対応すれば、商品を買うという場面はスムーズに進む。この場合、客である私が「いらっしゃいませ」と言ってはいけないし、店員である相手が「あんた、だれ?」なんて言ってもいけない。役割には、どう振る舞えばいいかについて一定の約束事が決まっている。

状況にふさわしい役割を選択することもたいせつだ。お店の中で相手が「いらっしゃいませ」と店員としてふさわしい行動をとったら、客として振る舞わなければならない。それを突然「今日はこれから自我論の話をします。そもそも・・・」なんて講義を始めたら、お店の中は一気に異常事態に陥る。講義することは大学の教室の中でしかるべき時間割の中ですれば適切だが、お店の中では不適切な行為になる。あくまでもその状況にふさわしい役割のセットをお互いに演じることで、コミュニケーションはスムーズに運ぶのだ。

役割は基本的に便宜的なものであり、それでお互いに手間ひまがはぶけ、「私はだれ?」なんて悩まなくても済む便利な装置だ。だから、みんながそれを使おうとする。それは貨幣のようなものだ。いちいち物々交換していたら身がもたない。貨幣さえあれば、だれとでも、どんなものとでも交換できるだろ。それと同じように、その場その場に適切な役割という仮面をかぶれば、初対面の人とでも短時間で目的のコミュニケーションができるというわけだ。お互いに試行錯誤しなくて済む。貨幣も役割も一種のメディアと考えればいいんじゃないかな。

そして貨幣がさまざまな顔を持つように、いや、もっと複雑なマトリックスを役割の世界は用意している。マトリックス、つまり縦にも横にも関連づけられたシステムだ。そのもっとも合理化されたものはスポーツチームやオーケストラにおける役割だろう。ここでは先にポジションが用意されていて、そのポジションごとに役割が細かく指定されている。近代的な組織の中だと、地位に即して役割が決められている。

結果として、人間は役割の束として社会に出る。逆に見ると、社会は役割のシステムとも言える。そして驚くべきことに、個々の役割について人びとは知識をほぼ共有している。

まあ、人間はロボットじゃないから、完璧に役割をこなせるわけじゃない。仮面をかぶったところで、出っ張った腹が引っ込むわけではないし、かすれた声が美声になるわけでもないしね。でも、そこの落差とかズレが「個性」と見なされる。そういう意味では、役割は、自己理解と他者理解のメディアになっている。

■ジェンダーのはざまに

人間は、子ども時代から役割について学び続けているから、どんな人でも役割についての知識は豊富だ。この知識を使って、人間は自分と他者を分類して、その分類に従って働きかけたり応答したり感情を抱いたりするというわけだ。

ところで、自分が何者か、他人が何者かを判断するときに、私たちが最初に手がかりにするのは何だろう。

それはやはり男と女の区別だろうね。これについては、お前たち動物の世界と同じように見られがちだね。たいていの動物ではオスとメスの役割はあらかじめ決まっている。

私の好きな競馬の世界では、牡馬(ぼば)と牝馬(ひんば)は明確に区別され、ハンデがつけられる。予想でも、牝馬は早熟で瞬発力があるが、牡馬といっしょに走ると気負けしてしまうとされる。多くの競馬ファンは、それを人間世界の縮図のように受け取っているけれど、ほんとうにそうなのか。

たとえば「オレは男だから、ここで黙ってちゃいけないな」とか「私は女だから、矢面に立たないほうがいいかな」と考えるかどうかは、生物学的な性によって決定するわけではない。生物学的な性は、それこそたんなる手がかりにすぎない場合が多いんだよ。それはお互いにとってわかりやすい手がかりだからね。しかし「男だからどうこうしなければならない」とか「女だからこうするべきだ」といった性役割の内容は、基本的に文化的なものだ。なぜなら社会や時代によってまったく異なる内容になるからだ。

しかし、これは根強いんだ。文化の力って、そう侮れるものじゃない。無形の圧力が身体にしみこんでいる。

それをさまざまな生活場面で点検する作業は、かなり高度に知的なものになってしまう。じっさい社会学もそういうことに気がつかなくて、長い間、事実上「男性社会学」だったんだ。けれど八〇年代のフェミニズム論ブーム以後は、ずいぶん軌道修正されたと思うよ。今では研究の質量ともに充実している領域と言えるんじゃないかな。当然、研究の裾野が広いからね。いくらでもやることがある。

文化的な性に関することがらを総称して「ジェンダー」と言うんだ。男であることと女であることについて人びとがどう考えているかの問題だ。

これは何かと「もめごと」を呼び寄せる。今では、それほど自明な分割線ではないからね。長い間、女性の声が抑圧されてきたという経緯があるし、そういう声が男性中心文化と名指しする価値観は男女ともに根強く残っているから反発も大きいんだ。それだけに冷静に証拠を積み上げて議論しないといけない。

■ぶれる分割線

こういう文化的なもめごとを引き寄せる分割線はジェンダーのほかにもたくさんある。

まず年齢だ。これも一目見てわかる指標だから、他人に対してはおおよその年恰好で判断するものだが、自分については「子ども扱いしないでよ」「中年扱いはまだ早いよ」「年寄り扱いはやめてくれ」と思ったりすることも多いはずだ。とくに思春期や中年初期や向老期は、自己理解と異なる扱いを受けやすい。

現代日本社会では、子どもは大切に保護され、若者は好きなことができて何かとちやほやされ、中年は職場や家庭などの生活現場で力をもつことが多いので、それぞれ「まだ子どもでいたい」とか「大人になりたくない」とか「引退したくない」といったような気持ちの強い人が多いだろうね。年齢役割はアイデンティティを構成する基本的な要素だから、それがライフコースの中で外圧的に移行していくのがつらいんだな。

マイノリティ集団や少数民族に属す人たちは、その役割に対してプライドとスティグマの両方を感じる場合が多いんじゃないかな。スティグマというのは「負い目」みたいなもののことを言うんだ。日本の定住外国人の中では在日コリアンの人が多いけれども、この人たちは日本社会でさまざまな差別待遇を受けてきた。プライドとスティグマはそこから生じる。たとえば子どものころから日本語しかしゃべらないし日本名で通してきたのに、進学や就職のときに外国人扱いされるという経験がある人は、非常に不本意な状況におかれて、「私はだれ?」という問いが切実なものとなる。自分が何者なのか真剣に悩むそうだ。

そもそも日本人という概念もそんなに明確じゃないんだよ。たとえば国籍と文化と血縁という三つの要素が揃った人を「日本人」とし、三つともない人を「外国人」と定義するとしても、その中間には六つのタイプが残るんだ。国籍と文化と血縁のどれかひとつが欠けている人たちと、どれかひとつだけもっている人たちだ。日本で育った在日三世や四世は、日本文化に内在した生活をしていて、本人も周囲の人たちとも日本人としてやっているのに、制度的には外国人と見なされる。逆に、海外で育った帰国子女は日本文化を内面化していないから「日本人らしくない」と言われていじめられる。

だから「日本人とはだれか」というのは複雑な問題なのだよ。こういうように民族性が問題となるとき、それを「エスニシティ」と呼ぶんだ。

■アイデンティティの闘争

自分という現象には、こういう分割線が幾重にも引かれている。こういう分割線を調停してアイデンティティを確立させるというのは、考えれば考えるほど至難の業だと思えてくるね。人間たちが日々悩んでいるのも無理はない。

役割は便利だけれども、やっかいだ。社会に共有されている役割の内容が問題を抱えている場合もあれば、それを受け入れられない自分の気持ちや能力の問題もある。他人が自分に押し付けてくる役割と自己認識とが食い違うこともある。こういうとき本人にとってしばしば不本意な状況が生まれる。

逆に、社会化されすぎている、つまり役割にぴたっとはまった人間というのも考えにくい。社会秩序に忠実で、与えられた役割を多数派の定義どおりに実践している人なんているだろうか。いたとしても、かえって機械的に役割を理解している人のほうがジレンマに陥りやすいんじゃないかな。役割は社会の構造的矛盾がそのまま反映しているからね。ルーズにやっている人のほうが「大人」という感じがするよね。人間の行為は、役割に準拠しながらも、いつもはみ出す部分をもっているものなんだ。

役割は、言語と同じように、それが実行されることで維持される。人間たちは、それぞれ状況に応じた役割を演じることで、その役割がどのようなものであるかを他の人に提示して、その役割を事実上そのつど再創造していると見ることができる。そうしてお互いに学習しあっているんだね。

だから、役割が造形する世界は、がっちりと固まったものではなく、それなりのダイナミズムをもっている。役割は不変ではなく、人びとの実践によって内容が少しずつズレていくんだな。このズレが人びとの役割についての共有知識を少しずつ変えていく。

このことは重要なことだよ。なぜなら、気に入らない役割の定義を変えることが可能だということを意味するんだから。それは個人的抵抗の形をとる場合もあれば、さまざまなきっかけでがらっと変わることもある。きっかけのひとつが社会運動だ。

たとえば、公害や薬害の被害者の場合、最初から「被害者」じゃないんだよ。はじめは「トラブルメーカー」の役割から始まることが多いんだ。企業や組合側からは「裏切り者」といった役割を押し付けられることも多かった。それに抵抗して、世論に訴えたり裁判闘争をして人びとの認識を変え、その結果「被害者」という役割を勝ち取った。

ステレオタイプや偏見による差別をふくむ役割や、ぶれる分割線をふくむ役割を担うことになった人たちは、だから社会運動をして、それを変えていこうとする。一九六〇年代アメリカの公民権運動やフェミニズム運動に典型的なように、それは、しばしばアイデンティティの闘争なんだよ。

それはきわめて個人的な生活場面にもある。たとえば、失業の怖さって、たんに生活するお金がないというだけじゃない。自分が何者なのかがわからなくなってくる怖さがある。受験浪人やひきこもりも長引くと同じようなことが起こる。子育てを終えた専業主婦もそうだ。病気もそれ自体が身体の危機だが、同時に深刻なアイデンティティの危機にもなる。

このような危機に対して、人間はそれなりに抵抗するものだ。ミードという社会学者は「主我」と呼んでいるが、そういう主体的な局面が自我には備わっていると言うんだ。ただし、こういう危機は、ひとりではなかなか克服できない。「主我」も他者の交流の中で、反応としてでてくる。絶望も救済も他者との関係の中にある。だからこそ支援活動や救済制度やネットワーキングが必要になってくるんだ。

アイデンティティを問う必要のないような人であっても、具体的な生活の場面では大なり小なり「主我」を発動させているものなんだ。

というわけで、人間はお前たちとは違う苦労をいろいろしているのだよ。人間の場合、「自分」とは、それ自体、広大で奥行きのある複雑な社会そのものなんだ。

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