『子犬に語る社会学』第5章 なぜ人はささいなことで傷つくのか

『子犬に語る社会学』
第5章 なぜ人はささいなことで傷つくのか

■ささいなことで傷つくのはなぜか

あんまり叱るということをしないものだから、お前たちはすっかり甘えん坊になってしまった。それでも、してはいけない場所でおもらししたあとは妙に恐縮して犬小屋に避難している。そういうときは声をかけるだけで萎縮するから、悪いことをしたという自覚がそれなりにあるんだろうな。おもしろいものだ。お前たちにも感情めいたものはあり、コミュニケーションの中でそれが立ち上がってきては消えてゆく。お前たちとのわずかな歴史の中で、お互いの身ぶりの意味がそれとなく理解できるようになっている。

お前たちとのコミュニケーションが私たちを和ませるのは、それがわりと単純で、罪のないものだからだ。だから癒しになるんだ。人間社会ではなかなかそうはいかない。

私たち現代人は、波立つ感情の海を泳いでいるようなものだ。ささいなトラブルでくよくよしたり、相手のちょっとした一言で傷ついたりする。相手と微妙に話が食い違って気まずい思いをしたり、逆に話が弾んで妙に愉快にはしゃいだりする。たとえば、ちょっとした一瞥が社会空間にさざなみを起こして、ほのかな恋心が生まれたり、あるいは敵意に育っていったりする。こういうミクロで繊細なプロセスが積みあがって、人間の社会生活が息づいている。

前に言ったように、コミュニケーションというのは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」というイメージから出発するといい。お互いに映しあうというのは、具体的には相手の姿や声や振る舞いに対して反応しあっているということだ。このプロセスを社会学では「相互行為」とか「相互作用」と呼ぶ。これを時系列的に見れば「社会過程」とも呼ぶ。そうして組みあがる経験が生活世界を形成するんだ。

この微細なプロセスを丹念に調べるのも、社会学の仕事のひとつだ。たとえば、私たちがささいなことで傷つくのはなぜか。心が傷つきやすいんじゃないんだ。そういう心理主義に陥らないようにしなくてはね。社会学では、相互行為のちょっとしたルール違反がそうした反応を引き起こすと理解するんだ。つまり、こうすればこう返してくるだろうとの約束事が守られないと、それがささいなものであっても、私たちは面子を失ったように感じるんだ。

この約束事というのがなかなかやっかいなんだよ。まあ、文法みたいなものだとは言える。私たちは文法に則ってしゃべっているから、それなりにコミュニケーションできているわけだけれど、文法として習ったからしゃべれたわけでもなく、文法はあくまで後知恵にすぎない。それはどこかにあるわけではなく、私たちがしゃべっているそのプロセスに宿っているわけだ。こういうものをつかまえようというんだよ。

■閉鎖的集団の内部世界

こういうことは自分たちの日常生活を観察しても、なかなかつかまらない。なぜなら自明性におおわれているからだ。当たり前すぎて、かえって見えないものなんだ。ジンメルの先駆的研究を除けば、それはずっと後の話で、最初は自分たちとは明らかに異質な閉鎖的集団の研究から本格的に始まるんだ。

一九二〇年前後にシカゴ大学でこういう研究が開花する。最初は、シカゴに移住していたポーランド移民の研究だった。この研究はその後の社会学調査のお手本となったもので、手紙や手記や裁判記録など、あらゆる生活記録を駆使して、かれらの生活世界を分析しようとしたんだ。

その後、若い研究者たちが続々とシカゴの街に入って、フィールドワークをおこなったんだ。要するに現場取材したわけだ。ほとんど「潜入レポート」と変わらないノリだったろうね。じっさいに、ホームレスの集まっているところや非行少年グループやフーゾク産業に入って、そこの人たちといっしょに生活したり、仲良くなって立ち入った話を聞いたりして、それぞれの集団内部の出来事をこと細かく記述していったんだ。こういう研究を「エスノグラフィ」と言うんだ。

この研究スタイルは、その後の社会学で強化されて、いろいろおもしろい研究が出てくるようになる。非行少年グループの研究では『ストリート・コーナー・ソサエティ』や『ハマータウンの野郎ども』といった名作がある。後者はイギリスの白人労働者階級の息子たちが、勉強を強いる学校文化と教師たちをバカにして反抗するさまを描いたもので、かれらが「落ちこぼれて」親と同じ労働者階級になっていくのではなく、自ら進んで、しかも優越感情をもちつつブルーカラー労働者になっていくプロセスを浮き彫りにしている。「文化的再生産」のからくりを集団の内部的世界から理解したものだ。

たとえば、ベッカーは自らピアニストとしてバンド活動をする中でダンス・ミュージシャンたちの生態を描いたり、マリファナ初心者に対してベテラン使用者たちがいろいろ手ほどきする様子をフィールドワークした。マリファナで気持ちよくなるためには、それなりの訓練が必要らしいんだ。

ゴッフマンは、精神病院に体育指導主任の助手という名目でもぐりこんで、一年間患者たちと生活をともにして『アサイラム』という作品を書いている。アサイラムというのは収容施設のことだ。当時の精神病院というところは、外部から遮断されて、画一的に管理された特殊な空間だった。そこに放り込まれた人たちは生活を丸抱えされて管理されてしまう。じゃあ、そのまま無力なままかと言うと、したたかに管理の裏をかいてさまざまな工夫を施していくんだ。管理者からは見えない世界がそこに発見できる。

逸脱的な犯罪非行集団と同じように、こういう医療の世界も閉鎖的で、独特の生活世界が発達しているから、社会学者はけっこう医療現場に入っているんだ。

たとえば外科手術室で執刀医が下品な冗談をかましながら場に一体感をつくりだしている様子を観察したり、病院での「死につつある」患者と死の扱いに焦点を当てたエスノグラフィもある。病院の中の患者の死は、社会的出来事としてスタッフによって上演されるプロセスによって「つくられる」というんだな。もちろん子どもの死のように動揺を与える死もあって、病院スタッフが儀礼的にばかり携わるわけではないさまも描かれる。病院スタッフのエスノグラフィは、ナースの研究や医学生たちの生態の研究などがあり、もちろん患者の研究もある。

日本でも暴走族のエスノグラフィが有名だね。生っぽい世界に夢中になって取り組む社会学者のイメージはかっこいい。私なんかは、そういう資質がないから、ジャーナリストによるルポルタージュもふくめて、なるべくそういう研究を積極的に読むようにしているんだが、ほんとうはそれだけじゃダメなんで、これからの日本社会学の魅力は、フィールドであくせく働く研究者がどれだけ出てくるかで決まってくるのだと思うよ。新しい資質が必要だな。

■生活世界の合理性

これらの研究に何か共通点はあるだろうか。それぞれの描く世界があまりに独自なので、ごく大雑把なことしか言えそうにないが、それなりの統一像は示しておこう。

ひとつは、閉鎖的集団は独自の文化を発達させるということ。細かなルールや掟や作法、そしてささやかな儀礼といったものが自明化されている。それなりの秩序がある。外部者には見えない規則に即して速やかに解釈して応答することが、内部のメンバーとしての必須条件になっていて、新規参入者は気まずい思いを重ねながらもそうした条件を身につけていく。つまり、内部では微細な意味的世界がある。ひとつひとつの言動に集団固有の意味づけがなされている、そういう生活世界が展開されているということ。

第二点は、精神病院にせよマリファナ使用者集団にせよホームレスの溜まり場にせよ化学実験室にせよ、近代システムが要求する合理性とは異なる秩序かもしれないが、その生活世界の文化は、それぞれの内部世界においてはきわめて合理的で理にかなっていること。もしそこに奇妙さがあるとしたら、それは私たちの日常生活の奇妙さでもある。人間は大なり小なりこのような生活世界を経験しているんだ。

第三点は、方法論的なものだ。こういうリアリティを知るためには、ジャーナリストや人類学者と同じように、現場に足を運び、そこの人たちと生活を共にするのが一番いいやり方だということだ。そして、どの研究者も、詳細なフィールドノートを作成して、考察を練り上げている。数量的なデータで語る社会科学とひと味もふた味も違う研究スタイルだ。このような、現場での質的データをモノグラフとして地道に積み上げて理論構築するやり方を「グラウンデッド・セオリー」と呼ぶことがある。じつは呼び方はいろいろなんだが、理論から天下り式に立てられた仮説を検証するというやり方とは逆向きの研究スタイルだな。

観察者は観察されているものだ。現場に入ったはいいが、そこの人たちから大いに警戒されるのは当たり前。へたに立ち回ると追い出されかねない。お前たち動物を観察するのとはかなり事情が違うようだよ。

■日常生活の微細な意味的世界

最初は閉鎖的集団の内部世界への興味だったものが、しだいにありふれた日常生活に焦点が移ってきた。こういう社会学の元祖は一世紀前のジンメルの相互作用論だが、一九五〇年代半ばからのゴッフマンの研究とそれに続く「エスノメソドロジー」の影響で、今では広く研究されるようになった。その後、会話分析というのも盛んになる。このあたりになるとヨソの話ではなくなって、私たち自身の日常生活が対象になる。その点では、かなり「反省度」が高くなるね。

ゴッフマンの本はおもしろい。社会学者は意地悪い観察者でなければならないという見本みたいだ。たとえば、二人の人物が出会う。出会うことでお互いは自分を呈示することになる。となると人間は、相手に対して自分が呈示したいところだけを印象付けようと思う。そこで自分の印象を操作しようとする。ところが、これは相手もわかっていることだから、信頼できる人物かどうか、操作されたところを操作されにくいところと照合して判断しようとする。ということを相手はするであろうから、自分としては操作しにくいと思われている部分、たとえば顔の表情やさりげないしぐさをコントロールしようとする。こうして出会いは演劇的なパフォーマンスの性格を帯びる。

感情のあやと微細な作法の世界は、ここからようやく始まる。対人関係や、パブリックな場所での人びとのふるまいや、さりげないすれちがいの場面における儀礼的行為が、こと細かく分析されるんだ。日常生活を微分しているような社会学だよ。

エスノメソドロジーというのは、「人びとの方法」という意味の「エスノメソッド」の研究のことになっているが、それによると、人びとは日常生活において個々の場面を社会学者のように推論して、それに基づいて実践しているというんだ。

おもいっきり手近な例で説明すると、夫が「おおい、あれ取って」と叫んでいるのを聞いた妻が、風呂上りにテレビを見ながら夫が欲しがるものは綿棒であると推論して、「ほらよ」と綿棒を夫に投げてやるようなものだ。風呂上りという文脈と夫のくせを熟知しているから、「あれ」が何かわかり、綿棒を投げてやるという実践が可能になっている。私たちは、こういうことを日常会話の中で何気なくやりおおせている。その集積が日常生活なわけで、これは考えてみればすごいことではないかという驚きから始まっているんだな。ちょっと例が卑近過ぎて、なにがすごいかわからないかも。

エスノメソドロジーの真骨頂は会話分析だ。会話分析として日本の研究で印象深かったのは、初対面の学生たちを会議室に集めて、そこでの会話を分析したものだったな。学生たちはまったく自由におしゃべりしているんだが、それを記録して楽譜のようなものを作って分析するんだ。おしゃべりの内容はじつはどうでもいいんだ。それで、たとえば「順番取り」の様子を見たり「不自然な沈黙」の使われ方や「割りこみ」を見るんだ。人が話しているときに「そうそう、それはね」といった調子で話を引き取ってしまう人がいるよね。これを「割りこみ」と言うんだ。これは自分が割り込んだ相手より上だと思っている証拠なんだ。割りこまれたほうも、その力に負けているわけだよね。そこで「割りこみ」の回数を調べてみると、同性同士の割りこみに差はないんだが、男子学生が女子学生の話に割り込む回数が断然多いんだ。これはどういうことだろう、というわけだ。権力は身近な日常に宿っているということを示しているんじゃないかな。

こんな感じで、日常生活の微細な意味的世界を研究していくんだ。心理学とはまったくちがうアプローチだな。だから「微分」とか「解剖」のイメージで捉えると近いんだ。

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