2022年1月15日土曜日

『子犬に語る社会学』第6章 想像された境界をまたぐ

『子犬に語る社会学』
第6章 想像された境界をまたぐ

■宗教と国家と地球社会

お前たちはときどきヨソの犬とケンカする。まあ、じっさいには私が綱を引くから、唸りあいですむんだが、どうにも相性が悪い相手はいるものだな。犬やその他のたいていの動物の世界にはケンカのルールがあるらしい。いっそのことケンカでもすれば勝負の決着がついてスッキリするのかもしれない。

お前たちとちがって、人間の争いごとには歯止めがないように見えてしかたない。何か「自然の一線」があって、そこで踏みとどまる工夫があればいいんだが、なかなかうまくいかないようだ。人間の暴力は難問だ。

一方では「ひとつの地球社会」という観念が人びとに共有されるようになった。経済と環境の問題がそれを要請し、交通とメディアの発達がそれを見えるものにしたと言えるだろうね。それによって、とりわけ宗教と国家のありようが「ひとつの地球社会」の現在と未来にとって大きな存在であることが浮き彫りになってきた。

そもそも宗教と国家は、社会の理不尽なことに対する人間なりの工夫だったんだ。少なくともその内部においては平和と秩序が維持されるような仕組みだった。しかし、いつのまにか、その仕組み自体が理不尽なことを引き起こしてしまうようになってしまっているんだ。この転回は社会学的に説明しなきゃいけない大問題だ。

守りたい平安があれば祈りたくなる。不幸があれば祈りたくなる。人間はかなり昔から「祈る人」だった。それは近代社会になっても変わらない。一時は「世俗化」と呼ばれて、宗教の影響力は小さくなると見られていたんだ。けれども、日本や中国を例外とすれば、全体としてはそれほど変わりがないという話だ。むしろ地域によっては「祈る人」は多くなっているかもしれない。

おそらく「祈る」という一点において、お前たち動物と人間の文化的世界は大きくちがう。歴史的に見れば、宗教が人間社会の基本を決めてきた。宗教こそが長年にわたって社会の秩序を維持してきたんだ。

その一方で、近代においては国家が社会をコントロールしようとしてきた。「西欧に特有の合理化」の大きな枝が近代国家という装置だ。それは「鉄の檻」として強い秩序を作り出す。それは近代システムの世界的な広がりとともに、人間の大多数を囲い込む仕組みになった。

宗教と国家は、お互いにまったく異なる原理原則で動く。けれども、どちらも人間たちが作り出した社会の工夫の結晶と言えるだろうね。

■理解するという戦略

いったい宗教とは何なのか。それは祈りの文化であると同時に暴力の文化でもあるように思える。それは高度な文化なんだろうか。時として奇矯に映る宗教行動の数々を思うと、そうでないようにも思える。そもそも近代システムに内在した視点から見れば、宗教は完全に時代遅れ以外の何者でもない。しかし、その認識が間違っていることは、冷戦終結後の世界情勢がはっきりと示している。宗教は今も、そしてこれからしばらくのあいだも現役であることに間違いない。では、それはなぜなのか。

そもそも「宗教とは何か」という問いは、社会学の成立に大きくかかわっているんだ。宗教は、他の社会科学の素朴な方法論ではとても研究できなかった。宗教学はそれなりに蓄積はあったけれども、人文学的な伝統の中にあって社会科学としての陣容はなかった。ウェーバーやデュルケムやモースといった研究者たちは、宗教という現象をどのように理解すればいいかについて悩んで、その中で独特の社会理論を構築していったんだ。つまり二〇世紀社会学は宗教現象との理論的格闘によって独自の学問として自立できたんだよ。

まあ、むずかしいことはさておいて、今の社会学が立っている地点から見れば、祈るという行為を除けば、宗教は何も特別な現象ではないんだ。前に閉鎖的集団の内部世界として説明したことを大きなスケールにして捉えればいい。

それは独自の文化を発達させる。それは集団内部に秩序を作り出す。それは首尾一貫し理にかなっている。

宗教は一見非合理に見えるから、最後の点は強調しておいたほうがいいだろうね。だれにとって理にかなっているかと言えば、もちろん信者にとってだよ。なぜ自分たちが幸福なのかを説明し、あるいは、なぜ自分たちに理不尽で不幸なことが起こるのかを説明する。それがうまく説明できなければ、その宗教は滅びる。それなりに納得させる説明ができれば、その宗教は残る。宗教はこの点で「知の合理化」なんだ。だからキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教や儒教のような世界宗教は、きわめて整合的な世界観をもっている。ただし、それは近代システムの合理性とは異質な合理性だ。だから近代システムの視点から眺めると非合理に見える。

このように、宗教を信者の信仰心から理解するのが社会学流のやり方だ。それでこそ宗教の持つ強い力が説明できる。

考えてみれば自然現象を「理解する」ことはできない。人間がかかわる社会現象だから、その現象を支えている人間を理解することができる。これこそ社会科学独自の方法論ではないかとウェーバーは考えた。ウェーバーはそれを「理解社会学」として定式化したが、こう気づいたときに社会学は学問として自立したんだと私は思っている。

■カリスマの誕生

宗教は信者の信仰心が支えてこそ存在するものだ。そのことを有名なカリスマ現象について見てみよう。

ウェーバーは宗教現象の出発点にカリスマをすえるんだ。カリスマは非日常的な資質のことだ。神のことばをしゃべったり、トランス状態に陥ったり、病気を治したりするような特別な能力だ。と言っても、カリスマは自然科学的な意味で何か特別なことをするわけではないんだよ。それがじっさいに可能かどうかかも問わない。それを承認する人がいればいいんだ。

だれかが「私は神の生まれ変わりだ」と言ったとして、だれも相手にしなければ「ヘンな人」で終わる。ところが「ひょっとすると、ほんとうにそうかもしれない」と思う人たちが出てくれば話はちがってくる。帰依する者が出てくれば、カリスマを持つとされる者とその人たちのあいだでは、そのカリスマ性はあくまでリアルなものだ。社会的な事実になる。これが宗教の誕生であり、支配関係が成立し、信仰の共同体ができる。

カリスマは、それを持つとされる者と承認する者たちとのあいだの相互作用の産物だ。だからカリスマを持つ人間が何らかの失敗をして人びとから承認されなくなると、それは一気にひっくり返るんだ。けっこう繊細な社会現象なんだよ。

ウェーバーのカリスマ論は、とても社会学的だと思う。カリスマなるものを絶対視しない点では信仰者の立場を相対化している。と言って、無神論的に否定するわけではなく、むしろ信仰者の内面的感情に即して理解しようとしている。しかも、社会現象としてのダイナミズムを両者の相互作用に見出している。つまり、服従者の服従意欲が調達されて支配が可能になるというロジックだから、支配の要は服従する側がにぎっていることになる。支配者が力にものを言わせて支配するのでなく、服従者が進んで支配を支えるということだ。宗教だけではなく、ファシズム論など、いろいろ応用が利く理論だと思うが、こういう理解が必要な現象があるということを頭においておく必要があるだろうね。

■ダブル・スタンダード

こうして宗教共同体ができると、それは人びとにとってかけがえのないものになる。それが歴史を重ねて伝統的なものになっていれば、なおさらだ。それ以外の世界は考えられなくなる。

宗教は分派していって、それなりの濃淡ができるけれども、とてつもなく大きな宗教共同体というのはいくつか存在する。今でもアラブ世界が国家を超えて団結する例もある。まあ、これはもともとあった大きな宗教共同体が、ヨーロッパの持ち込んだ近代国家の枠組みによって分断されたと言うべきなのかもしれないけどね。まあ、もっと小さな教団だと考えやすいかな。こういう共同体ができると何が生じるか、考えてみよう。

こういう共同体の中には一種の隣人道徳ができているものだ。「お互いさま」という論理で助け合おうという態度だ。たとえば無利子でお金を貸し付けたり、貧しい者を援助することが当然のこととされる。こういうことが教義として明確に書かれている場合も多い。共同体内の平安が維持できるようになっている。だから、こういう共同体の内部にいるのは快いものなんだ。

ところが、こういう温情的態度は、あくまでも共同体の内部に対しての道徳で、外部に対しては、冷たくドライな態度をとる。同じことをしていても、内部の者に対しては美徳と称えるのに、外部の者に対しては悪徳と見なす。宗教共同体の場合、境界線が明確なので、こういう対内道徳と対外道徳の使い分けが鮮明に出る。こういうのを「二重基準」とか「二重道徳」と言うんだ。ここでは「ダブル・スタンダード」で行こう。略して「ダブスタ」だ。

社会学には、内集団と外集団という一組の概念がある。人間はウチの集団とソトの集団を立て分けて態度を変えるんだ。ソトに対してはどうしても排他性が出てきてしまう。ダブル・スタンダードはそのような現象と考えればいい。これ自体は、まあ、ふつうのことだね。

ところが、ダブル・スタンダードが過剰な暴力になることがしばしばあるんだ。たとえば「異端者」のレッテルを貼られた人間たちに対して過剰な敵意を向けるとき。いじめと同じ理屈だが、「異端者」を排除することによって、集団がぐんとまとまるんだ。いけにえという意味の「スケープゴート」だね。だから、大きな宗教共同体の中に島のように別の独自の宗教共同体ができたとき、それらの宗教共同体の境目では大規模な迫害が生じる。迫害された側は、それによって凝集性を高め、対抗的な勢いを強める。それが過剰な暴力となってあらわれる。宗教対立と見えるものも、こういう集団力学の悪循環なのかもしれない。この場合、宗教的アイデンティティが暴力行為の原動力になるんだ。

■国民国家と暴力

このような現象は何も宗教に限ったことではない。同じようなことが近代国家についても言える。近代国家は近代国家として基本的には別のロジックで進んできたんだが、そうなんだ。というのは、近代国家はその内容から言うと「国民国家」だったからだ。

国民国家というのは、領土がきっちり確定していて、そこに主権を持った中央政府が隅々まで統治しているような国家のことだ。今ではあたりまえだと思うかもしれないが、伝統的な国家ではそうではなかった。そして、そこに住んでいる人たちはみんな「国民」として把握され、国家に対して権利と義務を持つ。標準語が定められ、教育と啓蒙がなされるので、人びとは国民としてのアイデンティティを持つようになる。とくにナショナリズムが発達すると「一民族で一国家」という理想が大きな意味を持つようになる。

つまり国民国家というのは、かつての宗教共同体のような、大きな共同体を志向しているんだね。それを実現するために政府はさまざまな手段やメディアを用いて、国境内部の人びとを「国民」に仕立てていくんだ。日本は、これをものの見事にやった国家だったから、日本にいると、こういう議論がなぜわざわざなされるのかピンと来ないかもしれないけれども、「日本人」という概念は、きわめて巧みな形で人為的に作られてきたんだ。

ところが、近代国家というものは、軍隊や警察のような「正当的な物理的暴力」を独占している特殊な組織でもある。つまり、人を傷つけたり殺したりすることが「正当」とされている組織なんだ。国家は物理的暴力の助けを借りて秩序を維持しようとする。それが民主的な手続きによって正当化されている。つまり、共同体を志向する国民国家であり、同時に巨大な暴力装置でもあるというところに大きな問題があるんだ。

国民国家と言っても、その国境はヨーロッパの植民地政策の名残りである場合が多いんだ。だから、多様な民族が「国民」になっている。どの国民国家もその実態は多民族国家なんだ。しかし国民国家の圧力によって、少数民族の文化は標準的な国民文化に無理やり同化させられるのが常だ。抵抗すると暴力的に弾圧される。さらに「一民族で一国家」という理想が強まると、少数民族の存在そのものが問題とされて、暴力的な「民族浄化」が生じる。少数民族は当然抵抗するから、暴力性は相乗的に高まっていく。革命主義組織や民族主義が中央政府を主導していると、こういう内戦が必ず生じるんだ。

民族文化と宗教共同体はたいてい重なっているから、この内戦は宗教対立に相似してくる。とくに理不尽な迫害を受けている少数民族は、自らのアイデンティティを問い直す必要に迫られ、その結果、宗教が呼び覚まされることになる。「聖戦」という概念が政治的に動員される。こうして暴力は宗教の名の下に正当化され、戦いは宗教戦争の様相を呈してくる。

地球の各地によって歴史的事情はさまざまだから、個別事情を詳細に研究することに意味がある。と同時に、国民国家と暴力の関係について、そこに宗教がからんでくる事情について理論的に考えることも必要だ。そして、私たちのそれらに対する知識についての偏りも点検しておかなければならない。国家はそういう知識にバイアスをかけるからだ。

■トランスナショナルなアクター

東西冷戦構造がくずれた一九九〇年代以後の世界は、冷戦構造によって封印されていた、これらの暴力的要素が一気に表面化した感がある。イデオロギーの政治が終わり、かわって民族主義へ傾斜してしまった地域では、かなり悲惨な戦争が生じた。この流れはまだ終わっていない。

その一方で、国民国家を相対化するような試みや現象もまた地球社会の舞台に続々登場した。超国籍企業や国連のような国際組織に加えて、無数の国際NGOがトランスナショナルなアクターとして国際社会の舞台に登場してきた。今では環境や人権の問題解決について大きな力を持つようになっている。

そして何よりEUという壮大な実験が進行している。多文化主義で「ひとつのヨーロッパ」を実現しようとするこの試みは、「ヨーロッパ人」という新しいアイデンティティを作りつつある。たとえばカタルニア人でありスペイン人でありヨーロッパ人という、複合的なアイデンティティを持つ人たちが出てきている。従来、国や地方のひとつの共同体レベルに偏ったアイデンティティを持つ人たちはナショナリズムや地域主義の担い手としてしばしば紛争の要因になった。それを思うと、EUがこうした新しい人たちを形成していくことには可能性がある。

EUの場合には、あきらかに国家はその役割を縮小している。通貨統一はその一例だ。しかし、各国ではナショナリズムの反発が生じているのも事実だ。かんたんな話ではないだろう。

従来、この分野は現実主義に立った国際関係論がやってきた。その中心は国際政治学であり、地域研究だった。しかし、政府間関係や理論なき現場主義の研究では、もはや限界がある。文化、民族、階級、階層、マイノリティ、宗教、地域文化、社会運動、ジェンダーなどの要素が入り混じって展開している。これらは社会学の得意なところだ。だから社会学は中核的な役割を果たすことができるはずなんだ。だから、これからは国際社会学の出番が多くなっていくだろう。

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