『子犬に語る社会学』第8章 ことばが現実をつくる

『子犬に語る社会学』
第8章 ことばが現実をつくる

■予言の自己成就

お前たちが散歩しなければならないのは、たんに用を足したり、テリトリーを確認するためだけじゃない。ヨソの家の犬やその飼い主と交流するためでもある。犬同士のおつきあいは、お互いにたいせつだそうだから、あまり知らんふりしないほうがいいんだ。でも、中には愛想のない犬と飼い主もいる。「ウチの犬は愛想がないから」と決めつけてしまうと、積極的に付き合うことをしなくなってしまうから、どうしようもなく「愛想がない犬」になってしまう。こういう悪循環にならないようにしないといけないね。

こういう循環は人間社会にはいくらでもある。物事はいったん転がりだすと勢いがついてどんどん転がるところがあるんだな。

たとえば、一九八〇年代後半のバブル期には、株や土地は上がるものだとみんなが信じていて、繰り返し、投資や不動産購入の有利が語られた。その結果、異常に上がるだけ上がって、最終的に実体経済と乖離してしまうほどまでになり、結局、破綻した。そのツケを払っている今の時点から見ると、それは中長期的には根拠のない煽りだったんだが、そのときは専門家やメディアの人たちは自信を持って語っていたし、普通の人もそれに対して批判的に吟味などしなかったんだ。

あの雰囲気を忘れるべきではないな。二〇世紀半ばに日本が長い戦争を始めたときも、きっとこんな調子で、明るく景気のいい調子だったんだろうなと、今ではなんとなく想像できるんだ。掛け声大きく、強気で攻めて、小刻みに結果が得られると、煽りのことばも自明のことのように信じられていく。それがさらに物事の勢いをつけてしまう。ファシズムの生気は、こういうことなのだろう。

経済や戦争は、実体があり、それには限界があるから、たいていどこかで破綻する。しかし、社会現象の中には、破綻しないで、そこそこ実現してしまうものがある。

私は宝くじをよく買う。広い庭のある大きな家を建てて、お前たちを思い存分走らせたいからだ。そのためには地道に、どこが地道かわからないが、とにかく宝くじを買うしかないんだ。競馬じゃ、いくら研究しても家は建たないからなあ。

ところで、宝くじって、どこで買うかが勝負なんだよ。一般に、当たりのよく出る売り場で買うのがよいとされている。すると、大当たりの出た売り場で人びとは買うようになる。すると、その売り場では他の売り場より大量に宝くじが販売されるので、当たる確率が各売り場同じとすると、母数が多い分、たくさん当たりくじが出る。するとその売り場はほんとうに当たる売り場になるから、ますます販売数が増えて、当たりくじも多くなるというわけだ。

こういう循環を社会学では「予言の自己成就」と呼ぶんだ。この場合の「予言」とは「この売り場で大当たりがでました」ということばだ。そのことば自体が呼び水になって、どんどん大当たりが出る売り場になったことが「自己成就」だ。まあ、これはあくまでも売り場の話であって、買った人が大当たりするでないのが残念だが。ちなみに私はほとんど成就していない。

さて、この循環は必ずしもいいことばかりじゃない。銀行の取り付け騒ぎは悪循環の見本だ。つまり「この銀行は危ないぞ」といううわさが流れると、預金者が殺到して相当数の口座を解約してしまう。そのことで銀行がほんとうに危なくなってしまう。予言としてのうわさが現実のことになってしまうわけだ。

宗教や健康食品や代替医療の世界でも、「これでよくなる」と信じて語っていくことで、その気になるという部分があって、癒しや救済はそれなりにあるみたいだ。

正規医療の世界でも「プラシーボ効果」という現象がある。「プラセボ」とも言うね。新薬の臨床試験ではダブル・ブラインド・テストというのをやるんだ。同じ症状の人をふたつのグループに分けて薬を処方する。片方には本物の薬、もう片方には偽薬を処方する。すると、本物の薬のほうでそれなりによい結果が出るわけだけれども、偽薬のグループでもよい結果が出る人がある程度出てくるというんだ。つまり偽薬で治ってしまう人がいる。そこでふたつのグループを較べて大きな差が出ている薬を「効く」と判断するんだ。

この場合も、「最新の治療薬を試してみましょう」ということばが一連の社会的な循環を起こして、結果的に「よくなる」という現実を創造している。ことばというのは、現実を作り出してしまう重要な要素なんだ。

■レッテルを貼られること

ことばが暴力に等しいものになる瞬間がある。それはレッテルを貼られたときだ。暴力に等しいと感じるのは、それが抗いがたい社会的現実として本人に立ちはだかるからだ。

たとえば、ひとたび「加害者」「犯人」というレッテルを貼られると、法的には「容疑者」という役割であっても、レッテルは社会的現実として起動する。この場合のレッテル貼りは、社会学的には「逸脱の創出」と呼ばれる現象だ。

何らかの規則に違反した者を「普通でない」と見なしてレッテルを貼ることを「ラベリング」と呼ぶ。この場合の規則違反は、法律違反のこともあれば、クラスルームのささいな約束事のこともあれば、ホームレスのように生活の不遇がもたらすスタイルのズレのこともある。とにかく規則に違反していると感じた人や集団や組織がその当人に対してラベリングし、逸脱者扱いするようになる。

このレッテルは基本的にはことばにすぎない。けれども、本人の人生を左右することさえある、非常に強力な作用をもつ。

たとえば、万引きをして捕まった少年が、そのあとの一連のプロセスの中で「非行少年」のレッテルを貼られることで、その他大勢の仲間たちから敬遠され、学校からも分離されて扱われ、その結果ますます通常の進学・就職への道が閉ざされてしまうケース。あるいは一九九四年の松本サリン事件のときに第一通報者が犯人視報道されてしまったケース。このような誤報や冤罪事件のケースは、事実と異なるラベリングが猛威を振るうことになる。

いわゆる偏見もまたことばにすぎない。しかし、それらが人びとに共有されていることによって、差別という現実を生み出す。差別待遇は、その人たちにさらに不利な状況を生み出し、偏見を強化してしまうことが多い。これもまた予言の自己成就だ。差別することが差別を再生産してしまう悲劇的循環だ。

■言説と権力作用

ことばには現実を作り出す力がある。人びとを縛る力、つまり権力作用がある。このことに着目した場合に、ことばのことを「言説」と呼ぶ。フーコーの影響があって、今ではさまざまな人文社会科学で使われている概念だ。この概念に慣れておかないと、今の社会学はもちろん人文学系の文章が読めないだろうね。

たとえば教育社会学には「教育言説」の研究がある。そこで取り上げられているのは次のような言説だ。「個性を尊重しなければならない」「教育は多様でなければならない」「教育は教え込みであってはならない」「学級は生活共同体である」など。最近だと、これに加えて「心の教育が必要だ」というのも入りそうだね。

このような「教育の語られ方」には、それぞれ歴史的経緯があり、実際に強い力を持っている。「それを言われると逆らえない」という殺し文句になっている。こういう力を権力作用と呼ぶんだが、社会学は、これに対して、一見して普遍的な言説に見えて、じつは歴史的産物だということを示すんだ。つまり、どのような経緯があって、このような言説が確立し、広く力を持つようになったのかを具体的に説明する。そして、これらの一見善良そうな道徳的言説が、じつは国民国家の権力機構の維持に役立つように仕向けられたミクロな装置だったということを批判的に提示する。さらに、これらの言説が個々の現場において、どのような効果をもって、物事を左右しているかの実態を細かく研究する。

要するに、言説は歴史的産物であると同時に、日々の歴史を作っているそのものでもあるんだね。言説が社会的現実を構築していると言ってもいい。社会現象ならではの循環構造があるんだ。

■社会問題の構築

言説の現実構築に注目して社会的現実を分析していこうという立場を「構築主義」と言う。比較的新しい理論傾向だが、厳密なものから緩やかなものまで、いろんな分野について多彩な研究がおこなわれている。

この構築主義によると、どんな社会問題も、問題だと指示されている状態それ自体ではなく、それを問題視する側の言説の実践によって構築されているということになる。

たとえば、フェミニズムが「セクシュアル・ハラスメント」や「ドメスティック・バイオレンス」という概念を提示することで、それまで経験はされていたけれども語られることの少なかった暴力的な現実が明確に見えてきた。社会現象というのは、見えているようで見えていないものなんだ。だから問題の立て方によって、見えるものは違ってくる。この場合は、女性の置かれている不本意な状態に異議申し立てするフェミニズムの視点だからこそ、問題化することができたし、これらの社会問題に対する抵抗や反発もまた、そこから生じてくるんだ。

同じようなことは「不登校」「いじめ」「ひきこもり」「児童虐待」「やらせ」といった社会問題にも当てはまる。これらの概念が、問題発見的レンズの役割を果たすんだ。

構築主義的研究では、だれがそういうことを言い出して、それがどんな反応を呼び起こし、紆余曲折しながら社会問題化していったかを追っていくんだ。

このさい、ポイントになるのは、ひとつは社会運動の実践だ。「問題だ」と言い始めるのは多くの場合、社会運動組織だからだ。ふたつは専門家とメディアの役割だ。かれらの活動によって問題は正当化され、公的なものとして広く知られるようになる。もうひとつは、具体的な歴史的経緯というものが重要になってくること。時間は不可逆的なものだから、私たちは、未来に生じることに対して反応できない。どんな社会問題も、各時点で見えている物事に対する反応の連鎖と積み重ねによって形を整える。だからその研究は歴史社会学的になっていく。最近の社会学に歴史的研究が多いのは、こういう背景もあるんだ。

■言説としての社会学

社会学をはじめとする人文社会系の学問も、こういう言説の一環にすぎない。学問は、しばしば権力作用の一端を言説的に担ってきたんだ。

「学問は何の役に立つのか」という問題の立て方をする人が多いけれども、私に言わせれば、それは問題の立て方が間違っている。学問は社会の外側にあるのではなく、間違いなく社会の一部だし、言説を担っているという点で、すでに社会の重要な構成要素なんだ。この重要性とは、それなりの権威があって、人びとの実践活動に何らかの影響を及ぼしているという意味だ。

経済学者や心理学者なんかに較べると、日本では社会学者の言説はあまり強力ではない。それでも社会学の言説は、現に大学などで教えられ、学習され、試験に出題され、メディア上や政府の審議会などで語られている。近代システムの末端現場において、それは採用され、その考え方が現場に組み込まれていることもある。そうして人びとの日常的実践に深く介入しているんだ。それなりの効力を持っている。

そのときに、社会学が、どういう言説を組み立て、社会に提示するのか。未だ日の当たらない潜在的社会問題を発見したり、社会問題の解決を目指す作業にいそしむのか。社会正義の名の下に臨床的判断なり政策的提言なりを提示するのか。

しかし、正義と悪の二分法の発想から勧善懲悪主義に陥ると、道徳十字軍あるいは魔女狩り専門官として断罪するのが仕事の「道徳事業家」になってしまうおそれがある。それでよいという考え方もありうる。問題の緊急性、被害や差別の深刻さを考えて、積極的に社会運動に関わっていくべきだとの考え方からだ。

たしかに、それもありだ。縁があって、そういう役割を担うことがあっていい。けれども、私自身は、それが社会学にしかできない仕事とは思わないんだ。

まず、研究対象から距離を取ることが必要だ。社会問題の「被害者」「犠牲者」に対してさえ距離をとって、問題を冷徹に分析して記述するんだ。そして、関連するありとあらゆる言説の信憑性を疑うこと。つまり、言説の文化的バイアスや政治的意図を暴露的に批判すること。当初は問題発見的意義を持つ概念であっても、それが時間を経るうちに、別の問題を隠蔽する作用を持つこともあるから、たえず点検が必要だ。さらに、問題として俎上に上っていない「残余のもの」を発見し注目すること。

この意味で、私は、批判科学の道が社会学固有の道だと考えている。最近の社会構築主義の研究はその見本だと思う。

私が「反省のことば」と呼んでいたのは、こういうことだ。「お刺身のわさび」のような存在であるべきではないかな。社会学はもっと「荒ぶる学問」であっていいんだよ。

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