『子犬に語る社会学』第7章 メディア空間を生きる

『子犬に語る社会学』
第7章 メディア空間を生きる

■何もかもメディア仕掛け

お前たちの夜の過ごし方は、もっぱら食後の室内運動とテレビだ。犬がテレビを見ることができるというのは発見だったな。ただし、ふつうの番組だとおとなしく見ていられるんだが、動物が出てくる番組になると、テレビに向かってほえまくって大騒ぎになる。ひげづらの男にもほえる。急に自分たちのテリトリーに侵入してきたと思うんだろ? あれは本物じゃないんだよ。臭いもしないし気配もないだろう。まあ、それだけに不気味ではあるということはわかるけど。

メディアを通して見聞きするものに、かなりのリアリティがあるというのは、お前たちを見ていてもよくわかる。それは人間だって同じだ。私が知識として持っているもののうち、直接見聞きし体験して得られたものなんて、ほんのわずかなものにすぎない。ほとんどが、本や雑誌や新聞やテレビなど、何かメディアを通じて得たものだ。人づてに聞いたことだって、たいていは元をたどればメディアがどこかでやっていたことだ。

日常的な楽しみもみんなメディア体験だ。音楽を聴くのも、スポーツを見るのも、ドラマを見るのも、オーディオやテレビばかりだ。かつてよく行った山歩きも、お前たちが来てから、なかなか行けなくなった。メディア依存の割合が多いのは、あんまりいい傾向ではないだろうなあ。

考えてみれば、メディア体験というのは不思議なものだ。たんなる代理体験かというと、そうでもない。複製だからダメだというものでもない。コンサートやスポーツ観戦の盛り上がりには較べられないけれども、それはそれ、これはこれ。こちらも構えが違ってくるから、それなりのリアリティもあるし、けっこう没入して楽しめるものだ。

それに対して、大きな事件や事故のニュースは、私たちにとってメディア上の出来事だ。一九九一年の湾岸戦争が「ニンテンドウ・ウォー」と呼ばれたり、二〇〇一年の同時多発テロが「ハリウッド映画のよう」と言われたりしたのも、つまりはそういうことだ。リアリティをどこまで感じ取れるかは、メディア側の工夫にもよるし、受け手の感受性にもよる。出来事を直接確かめることは、普通の人にはなかなかできないけれども、私たちはメディアを信頼して「それは現実にあったのだ」と信じるしかない。これは距離を置いて見れば宗教みたいなものだよ。

現代人はメディア環境の住人だ。昔は「擬似環境」と呼んだものだが、最近だと「ヴァーチャル・リアリティ」だね。でも、いろんなメディアがあるから、私は「メディア空間」か「メディア環境」ぐらいがいいと思っている。私たちはそこに住んでいる。

■メディア仕掛けの音楽

メディアがどれだけ文化に浸透しているか、たとえば音楽とメディアの関係について考えてみよう。私たちがなじんでいる西欧近代音楽は根っからメディア仕掛けの音楽なんだ。

西欧近代音楽が平均律を採用した音楽だということは前に話した。このとき、楽器と記譜法が大きく影響していると言ったんだが、そもそも楽器は音楽のメディアだよ。楽器の発達によって音楽そのものが変化するのは当然だ。ハンマーで弦を叩くピアノの登場と普及によって平均律への旋回が決定的なものになった。

そして楽譜に音符を記入する記譜法の完成によって、音楽は演奏する行為だけでなく「書く行為」にもなった。記譜法は、音楽を純粋に表現するメディアだ。楽譜上では、演奏不可能なことも含めて、あらゆる音楽を表現する可能性がある。音楽を書く人つまり作曲家は、記譜法をメディアとして、次つぎに新しい音楽表現を追求していくことになる。

一九世紀になると音楽の担い手は市民層になる。音楽好きの豊かな市民たちが共同で広いコンサートホールを作っていく。この場合、ホール自体が音楽のメディアになっているわけで、それは音楽が雑音なしに特権的に鳴り響く空間を提供するというだけでなく、聴衆に禁欲的な集中的聴取を強制する空間でもあった。建物の作り方自体が、音楽の響き方と聴き取り方を指定していたんだ。一九世紀を通じて、音楽はそういうものとして「芸術」として格上げされていく。これがいわゆるクラシックだね。

二〇世紀になって人びとはラジオやレコードといった機械的なメディアを介して音楽を体験するようになる。ラジオは一九二〇年代からだ。このときから音楽はマスメディア仕掛けになったんだ。それはいつでもどこでも何度でも再生可能なものになったということ。こうして、思想家ベンヤミンが「アウラ」と呼んだ「一回ぽっきりのかけがえのなさ」が音楽から失われていくことになる。

人びとがマスメディアを介して音楽を聴くようになると、今度はメディアに合わせた音楽、たとえばラジオやレコードで聴きばえのする音楽が大衆向けに生産されるようになる。これがポピュラー・ミュージックの誕生だ。たんに音楽がメディアによって配布されるのではなく、メディアが音楽の内容を指定して生産するということだ。ここに大きな転倒が生じている。

音楽を専用に聴くためのメディア、つまりオーディオ装置は、原音再生を目標に技術が進んでいく。代理体験以上のものを求めるようになるわけだ。オーディオ技術は一九六〇年前後に一般家庭でのステレオ再生を実現する。点音源からステレオになることによって、音が響く空間つまり「音場」を人工的に再生できるようになったわけだ。こうして、音楽は「空間を表現する行為」になった。

このようにメディアは技術であるが、それ以上のものだ。同じころテープ録音技術ができたのだけれども、それを使いこなせるミュージシャンが出なければ、それはないに等しい。クラシックではグレン・グールド、ポピュラーではビートルズが、それぞれテープ録音された音楽を編集することで、メディア上でのみ再生可能な音楽を作り上げた。こうして音楽が「編集する行為」になったんだ。この編集はとても創造的なものだったから、その後の音楽制作では当たり前のことになっていった。

そうそう、広告を忘れてはいけない。消費社会では、広告によって消費欲求が喚起される。広告はメディアを選ばない。なんでもありだ。音楽もプロモーションされて大量消費されるものになった。今では自然にヒットするなんてことはめったにないんだ。プロモーション・ビデオがあちらこちらで流され、あるいは映画音楽やテレビドラマとタイアップした主題歌としてヒットする。今やヒット曲に関しては「見ながら聴く」音楽ばかりになっている。

一九八〇年代の技術的な面での革新としては、コンピュータの導入がある。それまでは演奏だけは人間がしていたわけだが、ここで演奏の人間離れが生じた。シンセサイザーとの組み合わせによって、演奏技術のない人でもひとりで壮大な音楽を演奏することができるようになった。

日本で発明されたカラオケの普及も音楽を変えた。マスメディアは一方通行のメディアでもあるから、音楽のメディア体験というものは、ひたすら受け手としての楽しみをもたらすものだった。しかし、カラオケによってその構図があっさりくずれた。音楽は気軽に歌われるものになった。

視点を変えると、今では音楽自体が何かのメディアにもなりうる文化になっている。たとえば、それは有名になるためのメディアであり、若者やかつての若者の自己表現のメディアでもある。ときとして、ある種の共同体意識のメディアでもある。音楽は場の雰囲気を強力に支配するので、BGMとして欠かすことができないメディアになっている。

というわけで、あえてメディアということばをたくさん使ったよ。メディア概念は多角的な意味を持っている。どれが正しいというのでもない。ただ、メディアは技術を伴うけれども、それ以上のものだとは言っておきたいね。それは文化的な装置として作動するんだ。

■メディア・情報・コミュニケーション

こういうメディア仕掛けの世界についての研究は、いろんな学問がしている。社会学でもそれらと連動して、だいたい三つのアプローチがある。

第一は、メディアそのものに焦点を当てたもの。メディア論だ。これは二つの系統に分かれていて、ひとつはメディア別つまり業界別の研究だ。新聞論・放送論・出版論などがそうで、ニュースのあり方に焦点を定めたジャーナリズム論はここに入る。従来はマスコミ論と呼ばれていた。

これに対して、マクルーハン以来のメディア論がある。こちらはマスコミでないメディアを射程に入れて、メディア史観というべきか、メディアが社会を変えてきたという考え方で、かなり広い視野でメディアを取り上げている。メディア概念が広い。たとえば自動車なんかもメディアに入ってしまう。この系統は、メディアが身体や感覚をどのように変容させるのかを考える。たとえばウォークマンが出現したとき、ケータイが出現したとき、私たちの感覚や意識はそれらを使うことによって大きく変わってくる。こういうところを考察するんだ。

第二は、情報に焦点を当てたもの。これはあきらかに技術的・工学的知性から発していて、コンピュータやインターネット関連の議論はもっぱら情報概念を使うのが一般的になっている。もともとは「サイバネティクス」という学問を立ち上げたウィーナーの議論から始まっているし、分子生物学の影響もあるのだから、広く自然科学に開かれた研究スタンスだった。今では社会科学やセールストークにまで応用されて、今や情報概念の天下だ。ただ、気になるのは、情報の空箱をいじっているという感じだね。中身はどうでもいいみたいなところだ。社会学系では社会情報学というのがあって、ここでは情報概念を使って社会システムの仕組みを説明したりしている。

第三に、コミュニケーションに焦点を当てたもの。これはわりと社会学的だと言えるかもしれない。かつてはマスメディアの影響力に関する調査研究が盛んだった。これは受け手の変化を見るものだから、業界話ではない、正統派の社会学研究だった。それに、メディア論や情報論が技術偏重や技術決定論になりやすいのに対して、これはわりあい自由だ。コミュニケーション論だと、おしゃべりやうわさの氾濫からインターネット世論やケータイでのコミュニケーションまで、包括的に議論できる。コンピュータ関係でも「コンピュータに媒介されたコミュニケーション」研究、略してCMC研究というのがあって、ネット上のディスカッションの特徴などを実証的に分析している。

以上の三種類の研究は、根本的な発想が違うせいか、まったくソリがあわない。だからメディア世界の研究を始めると、とたんに混乱してしまうんだ。

最近は「情報学」という学問運動があって、これらを取り混ぜて、情報的世界に対して総合的に研究していこうという流れがある。まだ混沌とした状態だけれど、これからはこういうディシプリンにこだわらないスタイルの研究が盛んになるだろう。

■カルチュラル・スタディーズ

さらに、これらに新しく加わったのが「カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれる研究だ。「文化研究」の複数形ということになるが、独特のニュアンスがあるのでカタカナ表記になっている。言いにくいので「カルスタ」と略称されることもある。

これはメディア的世界に対して文化論の視点から研究する。文化論と言っても、特定の学問との関係がない脱領域的な研究だ。おもに文学批評など人文学からのインパクトが強い。人文系研究者が文化に対するメディアの役割について社会学的に目覚めた産物という感じがするが、もちろんそれがすべてはない。社会学者は総体として少数だし、やや鈍重なところがあるので、社会学者たちよりもすぐれた研究ががんがん出てくるんだ。社会学と併走している研究実践だから、相乗効果が出るといいんだけどね。

見ていると、カルスタ好みのテーマとアプローチというものがあって、メディア系の議論だと、労働者階級の文化、サブカルチャー、映画、ポップカルチャーを取り上げることが多い。そこでメディアに対する受け手のしたたかな読みとか、スタイルに潜む抵抗のメッセージとか、ジェンダーバイアスやエスニシティといったものを浮き彫りにしていくんだ。

優勢な文化とその担い手たちのヘゲモニーを批判的に理解して、それに抵抗する民衆的要素をさまざまな文化の現場から読み込んでくる。かなり野党的な姿勢があり、政治的なメッセージ性が強い。これは伝統的なメディア研究や文化論では希薄だったところで、権力作用の視点からの「読み直し」になっている。

ただ、野党的な分、これも説教くさいと言うか、人生論くさいところがあって「生き方変えましょう」というメッセージが込められている。その分、主張性のあるエッジのきいた研究になるのだと思うんだけどね。

■メディア・リテラシー

社会学系のメディア研究が一様に指摘しているのは、メディア仕掛けの世界、つまりメディア上の世界が、たんなる現実の世界の反映ではないということなんだ。「メディアは独自の現実を構築する」ということだ。

広告にしても、ニュースにしても、ドラマにしても、メディア空間は演出されている。意図的に編集・強調・加工されたものだ。その「意図」とは、コマーシャリズムと政治的バイアスと職場慣行と支配的文化と流行の複合体だ。これに複雑な競争構造が加わって、実際の内容が決定する。

その結果、メディア空間全体しては、ドラマの中で老人がプラスイメージで描かれることがめったにないとか、ニュースの中で女性であることが文脈に関係なく強調されるといったことが生じるんだ。まったく現実の反映ではないんだよ。

となると、オーディエンスの側で、高度な読み取りをしなければ、現実を見誤ってしまう。しかし、「絵になる」ところだけをクローズアップしたカメラワークに「見せるための」編集が加えられた、高度に演出されたテレビのニュースから、画面のフレームワークによって切り取られた外側の見えない部分を想像するのは難しい。よく「行間を読む」と言うけれども、語られないことを想像するのも難しい。それはかなり創造的な読みになる。ドラマや広告を見ながら「これであって、あれでないのはなぜか」を考えることも、相当な基礎知識と想像力がいる。

しかし、オーディエンスつまりこれまで「受け手」と呼ばれてきた人たちが、たんなる情報の終着地点以上のものであることもまた明らかになっている。能動的読み、じっさいオーディエンスの読み方しだいで、メディア上で表現されたものは、いかようにも解釈されうる可能性がある。

だから私たちみんながそれなりの批判能力を持つしかないというのがメディア・リテラシーの趣旨なんだ。リテラシーというのは読み書き能力のことなんだけれども、この場合は、批判的に読み解く能力のことだ。いわゆる「情報リテラシー」「コンピュータ・リテラシー」がパソコンの操作能力の習得程度の意味で使われているけれども、それらとは全然ちがう質の概念なんだ。

おそらくメディア仕掛けの世界を社会学的に学ぶことは、メディア・リテラシーの基礎能力を培うことになるはずだよ。

■ネットという新しい社会空間

インターネットの急速な普及は、これまでのメディア世界を一変させつつある。私もインターネットを使い始めて八年。私の生活もずいぶん変わった。と同時にインターネットの世界もずいぶんと様変わりした。確実に言えるのは、量的な拡大だ。インターネットを使う人が飛躍的に増え、さまざまなサービスが拡充されている。その結果、インターネット上に新しい社会空間ができ、日々膨張しているのだ。社会科学にとって、これはまったく新しい研究対象の出現を意味する。

ただし、コンピュータ関連だということで、何かと情報論的に、あるいは工学的に説明されてしまうが、そういうものをあまり鵜呑みにしないほうがいいと思うよ。社会学的に意味があると思うのは、むしろ歴史的かつ文化論的な説明だ。

インターネットの世界は、技術だけで決まるのではない。その技術に独特の文化がたえず伴走しつづけて発展してきたんだ。

もともとインターネットはアメリカ西海岸の若者たちが開発の担い手となった技術だ。そのため、いわゆるビートルズ世代の価値観が浸透したメディアとして発展した。自由であること、オープンであること、民主的であること、ともに楽しめること。こういった価値観が明確にある。たんなる情報技術でなかったところに、のちの爆発的普及の要因があるんだ。

ところが、それが、今日の飛躍的な量的拡大によって、伴走態勢がくずれてきた。つまり、インターネット・コミュニティがそうした価値観やスタイルを再生産できなくなったんだ。考えてみれば、学術利用に限定された、技術エリートたちの集まりだったからこそ成り立ったコミュニティだったんだな。

ユーザー性善説でやってきたインターネットも、今では、ユーザーへの信頼が裏目に出ているのが現状だ。そのため、何でもありの世界になった。インターネットの場合は、オーディエンスは送り手でもある。双方向性という特性はメディア空間を複雑にする。さまざまな組織が工夫をしていかないと、この新しい社会領域は、テロリストの横行する紛争地帯のようになってしまいかねない。情報倫理が問われるのは、このためだ。

しかし、同時に、これまでマスメディアが不完全ながら実現しようとしてきた「公共圏」の可能性をインターネットが持っているのも事実だ。公共圏というのは、民主的で自由な言論空間のことだ。さまざまな試みがなされているようだ。世論がもみこまれていく場所としてネット世界にはまだまだ価値がある。

おそらく学問のあり方も変わってくる。社会学も含めて人文社会系の学問世界は長い間、印刷メディア中心に回転してきた。しかし、今では政府の統計資料ひとつ取るのでもネット経由になる。共同研究もメーリングリストなどを駆使しておこなうのがふつうだ。研究成果もウェブで公開され始めている。このあたりをどう再組織化していくか、そろそろきちんと対応しなくてはならない時期だね。

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