『子犬に語る社会学』第9章 命の限界に向かって+人間のためのあとがき

『子犬に語る社会学』
第9章 命の限界に向かって+人間のためのあとがき

■社会的身体とは何か

お前たち動物の命は総じて短い。ウサギやモルモットはたいてい五・六年くらい、ハムスターはほんの数年で死んでしまう。私たち人間から見ると、なんとも生き急いでいるという感じがする。犬も十数年で生涯を終える。公園で出会う犬たちの中にも、公園デビューしたばかりの犬がいるかと思うと、いつのまにか見なくなる犬もいる。顔ぶれは、けっこう変わっていく。私も多くの小動物を看取ってきたから、命に限界があるということがいつも頭の中にあって離れない。だから一日一日の生が貴重に思える。

生きているというのは不思議なことだ。命の容器である身体は、だからこそ絶対的なものに見える。それについて語ることがはばかれる何かがある。実際、社会科学において身体は長らくタブーみたいになっていたんだ。

しかし、人間の身体は、たんなる肉体じゃない。社会的に刻印された社会的身体なんだ。これは、お前たち動物にもある程度は言えるかもしれないけれども、いかんせん、私にはわからないから、ここでは人間の身体に限定して話すことにするよ。

たとえば食べ物だ。好き嫌いは除いたとしても、旅先で、その地域の人たちが好んで食べるものが気持ち悪くて食べられないことがある。なぜこれが食べられないか。何が拒否させるのか。これは生理現象ではない、社会的かつ文化的な要因で生じる現象だ。

前に話したプラシーボ効果という現象も、身体が社会的な身体であることを示している。偽薬を服用しても治ることがあるというんだからね。

感情というものも、身体に特有の生理的な現象と考えられているけれども、最近の感情社会学によると、ナースや航空機の客室係は、職場の中で適切とされた感情をコントロールすることを訓練され、職場でそれを実践する。それを「感情労働」と呼ぶんだが、役割演技以上のものを要求されているんだね。マクドナルド化する近代システムの中では、感情も商品なんだ。訓練された感情管理は、社会的身体の一部になっているわけだ。

おそらくこういう話の先鞭になると思うのが「身体技法」の指摘だ。モースは、軍人やナースそしてスポーツする人たちの身のこなし方に型があって、それが教育訓練に深く支配されていると指摘したんだ。この話の延長線上に、ブルデューの言う「ハビトゥス」や、フーコーの言う「規律」があるんじゃないかなと私は思うんだが、それについて深入りするのはやめておこう。

他方で、人間の身体は、記号的な身体でもある。つまり、「見る身体」であり「見られる身体」であるという点で、社会的なんだ。それは、セクシュアリティを表示する身体でもあるし、ときにはファッショナブルな身体でもある。障害や病気を表示する身体でもあるし、さまざまな身ぶりによってメディアと化す身体でもある。

要するに、社会学にとって「身体という広大な社会」が研究対象として存在するということなんだ。「それは生物学や医学の仕事ではないか」と決めつけるのは間違いだということだよ。

■病む身体を囲む社会

身体に関する社会学研究のうち、代表的なものが「医療社会学」であり、もっと拡張された領域を扱う最近の「健康と病の社会学」だ。

医療制度の研究はもちろんある。けれども、それは何も社会学でなければできないというものではない。社会学は、むしろ制度の陰に隠れたものに光を当てることができるし、そのほうが社会学らしい。

たとえば、病気について医者がどのように診断を下すかということよりも、病気にかかったとされる本人が、自分のからだの状態をどのように理解し感じているか、そして病人に対して家族や周辺の人たちがどのようにふるまい、かれらと医療関係者たちがどのような相互作用をするのかのほうが、はるかに複雑でダイナミックだ。

病院という組織の内部での生活世界もナゾだらけだ。入院患者仲間のコミュニケーションや、スタッフの専門職集団としての生態も、外側からはなかなか見えない世界だ。たとえば、看護は感情労働としての性格を持つ。労働の内実はかなり複雑だよ。

病や健康に関する知識と情報の問題、つまり医療言説や健康言説の批判的分析も重要だ。中でも医学的知識というのは案外不確実なもので、歴史的かつ政治的産物という側面が強いんだ。医学という応用科学の専門家集団の利害やイデオロギーが濃厚に反映している。そこをとき解いていくんだ。また、医療情報の問題としては、たとえばガン告知をめぐる微妙な情報のかけひきにも光を当てる。

それまで医療の対象でなかったものが治療の対象となる過程を「医療化」と言って、その社会的構築過程の分析もなされている。

先端医療のありようを考えると倫理の問題に突き当たる。先端医療には、さまざまな道徳上のジレンマがあるんだ。このあたりは社会学の領域をはみ出してバイオエシックス(生命倫理)の研究に入っていくことになる。

こんなふうに、身体に関する社会学にはやるべき課題がたくさんある。人びとの身体への関心は今後ますます高まるだろうから、変化も激しくなるだろう。

■健康ブームと超高齢社会

そう言えば、お前たちが来てからというもの、獣医さんとのご縁がすっかり深まってしまったなあ。あちこちがかゆいとなると獣医さん、便がゆるいとなると獣医さん、フィラリア対策でまた獣医さん。こんなに通うことになるとは思わなかったよ。犬は保険が利かないのが難点だなあ。

でも、お前たちの場合は、せいぜい病気がらみだから、たいしたことではないのかもしれない。今どきの人間の場合は、そこそこ健康な身体であっても、けっこう手間ひまかけているんだ。これを世間では健康ブームと呼んでいる。とにかく、人びとの身体への関心がとても高くなっているんだよ。

新しい健康法や健康食品が毎日のようにメディアで喧伝され、栄養学的言説が食生活に欠かせないものになっている。「これって、健康にいいんだってね」という語りが私たちの日常会話に出ない日はないと言ってもいいんじゃないかな。

今までも健康ブームは何回かあったんだ。でも、最近の健康ブームは一過性のものとは思えないところがあるね。

というのも、背景を考えてみると、次のようなことが言えるんじゃないかな。つまり、一九九〇年代以後の日本社会が、それまでの拡大路線から縮小路線に転換して、人びとの視野が外向的なものから、内向的にものに変わった。その中で日常的な関心が最も身近な自分の身体の状態に集束したということ。

それから、薬害エイズ事件に代表されるように、それまでかなり無条件に信頼されていた大企業や専門家や行政の不祥事が次つぎに大事件になって、それらに対する不信が募ったせいで、市民的防衛意識というようなものが日本人に目覚めてきた。「行政や会社や専門家に任せておけば何とかなる」というのは間違いだという意識だね。まあ、それまでのお上依存意識からくらべれば、自立度が高くなったと言えそうだ。そのさいの対抗原理としてクローズアップされているのが、かけがえのない身体ということになっているんじゃないだろうか。

いろんな価値観があるはずだけれども、健康ブームの価値観は「何より健康が大事」という考え方だ。これは超高齢社会日本のイデオロギーとして定着し続けていくことになるだろうと思うよ。

ただ、私は今の健康ブームが一枚岩だとは思わないんだ。相矛盾する要素が並存している複合的な運動体だと思う。一方では、近代医療に対する信仰がある。生活習慣病という政治的な概念を人びとはすんなり受け入れ、自己管理と予防に努めている。その一方で、薬や過剰医療に対する不信というものがあって、伝統的な健康法や食事への回帰がめざされている。自然治癒力とか無添加といった、あえて何もしない・付け足さないという選択肢を取る人たちも多い。

「これさえ飲めば健康になる」といったお手軽主義が見られるかと思うと、「継続は力なり」といったレトロな道徳をよしとする力強いファシズム的な側面もあるし、宗教的な癒しや救済の問題もこれにからんでくる。

健康ブームがメディア仕掛けだということは、毎日の健康番組を見ていればわかることだ。けれども、メディアに仕掛けられて人びとが踊らされていると思うのは間違いだよ。近代医療システムに対して人びとは受動的にしかふるまえないけれども、それに対して、健康食品や民間療法による「自己治療」については自由にふるまえる。つまり能動的で積極的な行為になっているわけだ。その意味では、「自分なりに何かできないのか」と自問する知的な市民こそが、今の健康ブームの担い手になっていると考えることができるんじゃないかな。

■グリーフワークとしての社会学

超高齢社会の健康ブームは、死を意識して生きる期間が長くなったことと関連している。死というものが社会のありように投げかける影は思いのほか濃いと思うよ。

ところで、人が死んだときにする喪の悲しみのことを「グリーフワーク」と言うんだ。これは辛抱したらダメ。あとで抑うつ症状が出たりするらしい。充分に時間をかけて悲しむという作業をしなければ、精神のバランスがくずれるんだ。あちこちの民族文化がこのグリーフワークを様式化して、はたから見て大げさに見えるような悲しみの儀式をするのは、そういう知恵なのかもしれない。死にはそれ相当の喪の悲しみが対応しなければならないんだ。

命の限界に向かって、一生懸命にケアにあたっている現場の医療・福祉関係者は、病んだ人たちの状態をよくしたり、安らぎを与えることができる。宗教家は救済の希望を与え、癒すことができる。それに対して、社会学は悲しむことくらいしかできない。いくら医療の現実を批判したところで、それはグリーフワークみたいなものだ。

でも、それは、しなければならない仕事なんだ。

考えてみれば、社会学の営み全体が、近代に対するグリーフワークなのかもしれない。

思うに社会学は二〇世紀的思考の典型だった。その営みは一九世紀半ばから本格化し二一世紀につづいているけど、本質は二〇世紀的現実を予見し、直面し、回顧する学問だった。

たとえばメディア研究はファシズム批判として出発したし、家族研究は「家族の危機」に対する反応として盛んになった。都市研究は人口が急速に増加してかつてのコミュニティが崩壊して混沌状態になった現実に呼応して生じたものだし、エスニシティ研究は国民国家の呪縛のはざまでマイノリティとして生きざるを得なくなった人たちへの共感から始まった。二〇世紀的現実が語る「反省のことば」として、社会学は二〇世紀に埋め込まれている。

おそらく二一世紀的現実については、新しい学問の形が対応することになるだろう。そうした領域ではすでに環境学、情報学、国際学、ジェンダー論、社会理論、カルチュラルスタディーズ、バイオエシックスなどの名称のもとにディシプリンを超えた学問が新しく多面的な現実に対応しようとしている。

しかし、ディシプリンを超えるということは並大抵のことではないんだ。

社会学はそれらの先駆形であり、発想の基幹をなし、二一世紀において限界を自覚しながらも、たえず立ち戻る知的拠点であり母港として、以前より重要性を増すんじゃないだろうか。このあたりに、ディシプリンとしての社会学を学ぶ意義があると思う。

私自身、正直言って、社会学へのこだわりは昔にくらべてずいぶん希薄になった。たしかにディシプリンにこだわる時代じゃない。でも、目の前の現実について語らなければならないとき、とても不安な足場に立っている気がするのも事実だ。じつのところ、漂流しているような感じがしていたんだ。ここでお前たちに向かって社会学を語ることができたのは、知的拠点を確認するという意味で、私にとっていいリハビリになった気がするよ。

さてと、これで社会学の話は終わりだ。さあ、公園に散歩に行こう。

■人間のためのあとがき

スランプの時にはスランプなりの仕事をすればよい。そう考えて引き受けた仕事が本書の前身であるムック『子犬に語る社会学・入門』(洋泉社、二〇〇三年)だった。私は前半の総論部分を担当したが、本書はその私の担当部分を単行本化したものである。

「子犬に語る」というフレーズは、編集部ではなく純粋に私の発案で、犬との共同生活の中で自然と湧いてきたものだった。「サルでもわかる」といったハッタリではなく、まあ、ほんとにそういうつもりで書きおろしたものなのである。社会学的にカッコをつけて「エスノメソドロジー的実験」と言えばもっともらしいけれども、語りおろすように書かれた社会学入門が必要であるというのがかねての持論であったので、それを子犬相手にやってみたわけである。あきれられるかもしれないが、脱力していた当時の私にとって、これはそれなりに自然な選択だった。

とは言え、子犬は、キーボードを叩く私のひざの上で寝ているだけだから、限りなくひとり語りに近いものであるのは当然で、それを傍でこっそり聴いているような気分で読んでいただければいいなというのが私の思いつきだった。

執筆上の指針としたのは、テーマや理論ごとにバラバラな社会学研究の寄せ集めではなく「ひとつの社会学」としてのイメージをエッセイ的に描くことだった。そして社会学の問題圏や思考圏にナヴィゲートすることに主眼を置き、理論的解答までいたらなくてもかまわないと考えた。いずれにしても、欲張らないように心がけた。

今回の単行本化に際して、編集部のおすすめに従い、全面的に章タイトルを変更し、本文についても若干の手を入れたが、それほど大きな補筆改訂はしていない。注はムック制作時に洋泉社編集部によってつけられたもので、それはほぼそのまま掲載することにした。

本書は語りおろしに近いものであり、ほとんど参考文献というものを手元においての執筆をしていない。けれども、ここで述べられている事柄はすべてどこかの文献に書かれていることである。それらについて逐一、文献注を施すことは、本書の性質上そぐわないと考えたので省略した。参考文献の大部分については、私の『社会学感覚』と『リフレクション』(いずれも文化書房博文社)において言及されているので、これらを参照していただければ本格的な文献に辿り着けるはずである。これらは私の個人サイト「ソキウス」(http://socius.jp/)上でも公開している。

ムック制作時には渡邉秀樹氏、単行本化に際しては黒澤政子氏にお世話になった。弱り目に祟り目だった私をここまで励ましてくださった洋泉社編集部のお二人に、記して感謝したい。

最後に一言。二一世紀になって、それがかつて予想された社会像とあまりにちがうことに愕然とする。深刻な新しい社会問題の解法を求めて、社会学者もなりふりかまわぬ研究を展開していかなければならないと感じる。そして、その知見が、社会に生きる人たちにとって「生きるための知恵」として役立つことを切に願う。

二〇〇四年一一月二六日                   野村一夫

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