2022年1月15日土曜日

『インフォアーツ論』あとがき

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
あとがき

本書の原型は、二〇〇一年半ばに発表した三本の短い論文である。

野村一夫「インフォテック対インフォアーツ」(『生活協同組合研究』二〇〇一年六月号)。

野村一夫「近未来インターネットの人間的条件」(『教育と医学』二〇〇一年七月号)。

野村一夫「ネットワークの臨床社会学[3]苗床論」(猪瀬直樹編集メールマガジン「MM日本国の研究——不安との訣別/再生のカルテ」第48号、二〇〇一年六月二七日)。

もちろん、全面的に構想を改め、従来の自説そのものを大きく旋回させた。私としては、これが最新の着地点である。

この着地点は、文字通りのネット生活の中で直接間接に経験し、そして考えたことが中心である。社会学者らしく考証的に書くやり方もあったのだろうが、ご覧のとおり、本書はやや長めの社会学的エッセイといった文章になっている。これは、骨太に分析と構想を提示しようとしたためである。細部の説明は、本文に繰り込んだ参考文献にゆだねた。また、事例の詳細な紹介はいっさい省くことにしたが、ネット経験の長い方にはそれなりに深読みしていただけるかと思う。

今回、私にとって数少ない導きの糸となったのは、セオドア・ローザックの『コンピュータの神話学』(朝日新聞社、一九八九年)だった。インターネットが本格的に展開する前の本だが(原著刊行一九八六年)、現在の日本語圏のネットをめぐる状況をどう理解すればいいのかについて明確な手がかりを与えてくれた。こう言うと、ネット業界ではレトロな流派(あるいはラッダイト主義!)にでも位置づけられそうだが、それはちがう。最先端を追うインフォテックな視点では見えないものも多いのだ。あえて距離をとって人文学的な視点で見ることの重要性を学んだ。とくに、人は情報技術を受容するとともに、その技術がひそかに内包する技術的思考をも受容してしまうことに対して批判的意識をもつべきだとの主張は、本書の主調低音をなしている。

本書のはじめに述べたように、本書では誘導馬的役割をするモデルや思想に着目して論じる手法をとっている。登場する対立図式は、その筋目を鮮明にしたものであって、議論の対象を真っ二つに分断しようという意図はない。インフォテックに対抗するインフォアーツの提示も、主張したいのは「図と地の転換」であって、技術の否定ではない。しかし、問題の多い現状をそのまま受容して適応することはできないので、あえて対抗的なものとして自説を提示してきた。この点について誤解なきようお願いしたい。

さて、インフォアーツ論は、「はじめに」で記したネットでの活動だけでなく、さまざまな研究会での議論にも大きく触発されてきた。最初に私がインフォアーツという概念を提起したのは、生協総研主催の「インターネットとくらし研究会」だった。生協とインターネットの関係を考えるこの研究会がなければ、「ことばの市場経済」と化してしまった唇寒い(何を言ってもくさされる!)インターネットについて再び本を書こうとは思わなかっただろう。というわけで、ここがインフォアーツ論発祥の地である。

また「メディアと経済思想史研究会」での議論や、猪瀬直樹氏の編集による経済メールマガジン『日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ』での連載「ネットワークの臨床社会学」の執筆も産婆的役割を果たしてくれた。その他、おりにふれてネットについて報告した図書館関係の各種研究会にも感謝したい。私はかねがね、自分がネットの実践家であって、ネットの研究者ではないと自覚しているだけに、こうした報告の機会は自分の考えを整理するのに大いに役立った。最後に、國學院大學平成一四年度「特色ある教育研究の推進」助成に感謝したい。本書はこのプロジェクトの成果でもある。

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