『子犬に語る社会学』第1章 社会学の遠心力と求心力

『子犬に語る社会学』
第1章 社会学の遠心力と求心力

■ためしに子犬に語ってみる

お前たちが来てから我が家はずいぶんにぎやかになった。

それまでも我が家には、ウサギやらハムスターやらモルモットやらがそれぞれ何匹もいて、まるでミニ動物園のようだったが、こいつらは小さくてかわいいものの、いかんせん寿命が短い。今では二匹だけになってしまった。

そうこうするうちにお前たちがきた。ウサギも、トイレを覚えたり、名前を呼ぶと駆け寄ってきたり、頭をなでると喜んだり、それなりに賢くて情が濃いものだが(これは家の中で飼った経験がないとわからないだろうなあ)、犬というものはまったく質のちがう情の濃さだな。まして四六時中、家の中を徘徊して好き勝手なことをしているのを見ていると、大昔にソト飼いしていたときにはよくわからなかったことも見えてくるし、こちらも人間の子どものように話しかけたりして、かわいがってしまう。お前たちも、私たちの話がわかるみたいに、お座りをして聞いていたり、首をかしげたり、ワンとほえたりする。とにかく、まったく屈託というものがないのには私もずいぶん助かっている。

この屈託のなさを頼りにすれば素直に社会学について語ることができるかもしれないとの思いつきは、ある意味で凡庸な計画だ。夏目漱石が名前のない猫にインテリたちの風俗を批評させたあの発想にくらべたら、ひねりも何もないからね。けれども私はついつい語る相手のことを気にしてしまうから、なかなかストレートに語れない。その点、お前たち相手なら、あれこれ考えなくて済む。まあ、その程度の思いつきだな。

じつは、ここ数年、社会学の講義がないんだ。今は情報系の科目ばかりだ。まあ、これはこれで時代の最前線ということで気合はそれなりに入るんだが、講義ではわりと淡々と話している。

今思うと、社会学の講義はそうはいかなかった。妙に熱くなってばかりいたような気がする。早い話が「生き方」とかに立ちいるからなんだろうな。そのためか、どこかしら重かったのはたしかで、それが話をくどくしていたような気がしないでもない。一応、私は自分のことを社会学者と自称しているからね。使命感みたいなものがあったんだな。

■人生という概念

そう、社会学はちょっと人生論的なところがある。社会学研究そのものはわりとドライだけれど、社会学入門はそういうところがあるな。どうもそこらあたりが社会学の興味を引くところでもあり、ときには押し付けがましく感じられるところでもあるようだ。熱心な学生さんもたくさんいたけど、ときには反発する学生さんもいたっけ。そりゃそうだよ。「お前の生き方、こうなってるぞ」なんて分析されりゃ、いい気がしない。でも「そうなっているのか!」てなぐあいに、それで吹っ切れる人もでてくる。

お前たち動物には人生論なんて関係ないものなあ。お前たちはひたすら今を生きてる。それに対して時間軸を想定して生きているところが人間のさがみたいなもので、人生という概念もそこから生まれる。

人間だって子ども時代には、そんな概念なんてないんだ。大人になってゆくプロセスで、そういう概念が徐々にできあがってくるんだ。まあ、子ども時代の経験を「懐かしいなあ」なんて語り始めたら、人生の概念ができてるってことさ。

社会学はもちろん学問であり社会科学のひとつなんだけれど、本質的には、こういう、人生を反省する生物である人間が自己を語ることばのひとくさりなんだ。私はかんたんに「反省のことば」と言いたい。

宗教とか哲学とか倫理とか文学とか、そういうものも「反省のことば」だ。しかし、近代社会というものが人間の人生と生活をすっかり複雑に変えてしまったために、人生を反省するのも楽じゃなくなってしまって、たんに回顧したり思索するだけでは見えてこなくなった。そこで、いろんな概念や観察や分析手法なんかが必要になり、たくさんの人に会って話を聞いたり、それらを統計的に処理したりするようになったというわけだ。

■反省する動物

お前たち犬と私たち人間とのちがいは何だと思う? それは反省するかどうかだよ。

お前たちだって「学習」はするよな。ご飯を炊くにおいがしたら、自分たちの食事が近いことをお前たちは学習してる。私がひげをそって髪をそろえてきたら、お前たちは留守番だと悟って、犬小屋に入ってしっかり「お駄賃」を待ってる。「おすわり」と言われれば何かいいことがあるにちがいないとわかってるから「おすわり」してみせる。こういうのは「学習」だな。

「反省」となると、もう一段高度になる。それは、自分を今の自分以外の視点から眺めなおすことだ。他人の視点から自分がどう見えるかを想像したり、夢中でやった過去の仕事を回顧したり、自分のやっていることを社会の大きな文脈に位置づけたりすることだ。

こういうことは人間独自の知的能力なんだろうが、人間一般というより、基本的には近代人の特徴だな。大ざっぱに言うと、伝統に埋もれている人間は反省なんてしない。必要ないんだ。昨日やったことを今日もする。それで毎日が過ぎてゆく。

ところが近代社会ってやつは、そういう幸せな日々を許してくれない。近代社会はどこもかしこも、たえず変化しつづけているんだ。昨日やったことを今日そのままやるわけにはいかない社会なんだ。しかも、遠くの出来事がすぐに身近な影響をおよぼす社会でもある。油断のならない社会。たんに自分を今の自分の視点から眺めてるだけじゃ、すぐに痛い目にあう。だから近代人はたえず「反省」を強いられている。つまり「反省する動物」にならざるを得ないんだ。

まあ、これは一般論。社会学の話に直結するわけじゃない。さまざまな学問や科学だって、結局はそういうことの産物だ。けれども多くの学問や科学が、客観性とか法則性といったものに囚われていったり、自己目的化してしまったり、制度の細かい手直しに熱中したりしたのに対して、社会学では近代人の自己反省がむきだしになっているという感じなんだ。さっき「人生論っぽい」と言ったのは、つまりこういう側面が強いってことだ。

もちろん、いまどき人生論なんてはやらないから、こういう言い方をすると敬遠されてしまうかもしれない。でも「なんで自分が善意でやったことが非難されなきゃいけないんだ」とか「どうして私だけこういう目にあうの」とか「ささいなことでも問題になるのに、こんな大きな理不尽が公然とまかり通ってしまうのはなぜなの」なんてことで現代人はけっこう悩んでいるものなんだ。

まあ、ありていに言えば、幸せな人よりは不幸な人、強い人よりは弱い人、考えなくても済む人よりは考えざるを得ない状況を生きている人のほうが、社会学と相性がいい。そういう人たちが直面している自分の人生の一局面を理解するのに社会学は役に立つからだ。

といっても「正義の味方」というのじゃないよ。せいぜい「誠実な観察者」くらいのものかな。わりとさめて見ている人のアドバイスが役に立つようなものだと思う。その意味で、社会学は「反省する現代人のためのことば」なんだ。

■生物世界の社会

お前たちを見ていると、動物にもそれなりの社会があるように見える。群れを作ったり、役割分担があったり、コミュニケーションがあるのはたしかだ。だから動物学者や生態学者は「動物の社会」について説明するし、動物社会学という分野もある。これは動物を知的生物の側面から解説する試みで、動物社会学といっても、やっているのは社会学者ではなく動物行動学の研究者たちだ。かれらは動物を擬人化して説明するのが得意なんだ。最近は心理学者も加わって、擬人化ではない仕方で「動物の社会」を論じているようだね。

逆に、社会学者は「人間生態学」なんてことを主張することがある。これは都市に集まった人間たちがなぜか適当にまざらないで、あたかも動植物の棲み分けのように、まあ植物で言えば、あちこちに群生する様子を分析する研究だ。これなんか人間世界を動物や植物なんかと同列に見ているわけで、人間を特別視しない、さめたテイストを感じるね。「動物にも社会がある」なんて発想よりも、こういう発想のほうが社会学っぽいんだ。

今の社会学では、ふつう、動物社会を扱わない。コミュニケーションの研究で動物のケースを引き合いに出したりするということはある。けれども社会学者は犬の世界を観察したりフィールドワークしたりしない。まして犬に向かって社会学を説いたりもしない。ふつうは、ね。

そういうことで社会学は近代に典型的な人間中心主義だ。人間だけを扱うというのは、まあ、当たり前のようだけれども、それに対する批判は昔からあった。じつはエコロジーブームの流れの中で、最近また、この点が強く批判されてきているんだ。

■環境問題と人間特例主義

じつのところ、お前たち動物と私たち人間とをまったく別の世界に属していると見るか、それとも所詮は同じ生物世界に属していると見るかという問題は、けっこう難しい問題なんだ。

近ごろは環境問題が盛んに論じられて、エコロジーがはやっているから、人間も動物も植物もみんな自然環境の一部なんだと思うだろう。こういう発想をすると、世界の出来事はエコロジーに解消されてしまうかに見える。過激な環境保護団体なんかは、だいたいこういう考え方だ。これを「ディープエコロジー」と言うんだが、要するに「生態系は絶対である」という考え方だ。これによると、生態系から発想しない営みや知識は無効であり批判すべきだということになるし、生態系への人間の介入は最小限にするべきだということになる。

こういう考え方に影響されて、社会学の中にも環境社会学という分野ができた。なんせ社会学は人間社会を中心に見立ててきたから、この環境社会学では、社会学のあり方そのものを問うような論争がたくさん出てくることになったんだ。

そのひとつが「人間特例主義批判」だ。伝統的な社会学は、人間を特別に文化的な存在と見なしてきたため、生態系の一部としての人間の依存性と限界を無視しているというんだ。まあ、社会学の側もあまりに自然環境を無視してきたきらいがあるから、ちょっとは反省しないとね。

■自然科学に気をつけろ

ところが話はそうかんたんじゃない。たしかに自然環境を排除してきたことは認めなきゃいけない。けれども私は、社会学が漠然と生物世界をあつかっても仕方ないという気がする。

じっさいこのあたりの問題は環境社会学の内部でさかんに議論されていて、少なくとも日本では、ディープエコロジー風味の威勢のいい議論に対して、あえて留保をつけているようだ。つまり環境問題を研究するときに、生態系中心で判断してしまうと、そこで暮らしている人たちがたんなる自然環境破壊者としてしか位置づけられなくなってしまい、ノイズのような存在になってしまう。ノイズはないのがいいわけだから、この人たちの生活がまるで無視されてしまう。それでは社会学とは言えないよね。

生態系が守られれば、ついでにその一部をなす人間も幸せなはずだという楽観主義というか短絡主義というか思い込みがエコロジーにはある。自然科学的発想がときとして見せる原理主義だな。そもそもエコロジーは反都市文明志向と自然科学主義の合体した産物なんだ。そこでは社会的な要素がまるで単純化されてしまう。社会学が闘わなきゃいけないのは、こういう場面だ。

むしろ社会学が問題にしなければならないのは次のようなことではないのか。つまり、こういう人たちが自分たちの考えを実現しようと運動することによって、さまざまな形で紛争が生じる。水俣のように深刻な健康被害が大規模に出たところでは、こういう公害反対運動や被害者救済運動には大きな意味がある。それを第三者的に評価するとともに、環境運動が引き起こす紛争を、環境に対する人間社会のありようの問題として研究すること。日本の環境社会学者の研究の重心はどうもこちらにあるようだ。

こういうように見ていくと、社会学そのものはやはり人間特例主義で行くしかないんじゃないかな。その問題点と限界は、環境学という大きな枠組みの中で実現していけばいい。それで社会学全体が変わる必要はないんだ。むしろ社会学は、たとえ自然環境の問題に対しても、あくまで人間社会の問題に徹して取り組んでいくくらいがいい。それが社会学らしいんじゃないかな。

こう言うと「社会学主義」ということばで批判されるに決まっているんだが、パーソンズやルーマンやモランなんて社会学者は、こういう社会学の限界を突破してエコロジーを包摂した巨大な理論構想を提示している。あながちきれいに統一されているわけでないのが社会学の実態だ。

■家族としてのペット

こんなふうに、社会学は遠心力がとても強い学問で、ほっておくとどんどん拡散していってしまう。それはそれでいい。現在の状況がそれを要求していると考えることもできるのだから。でも、こんな時代だからこそ、私は社会学の求心力を強調したほうがいいと思っている。視野はなるべく広く取り、その分、支点はより深く埋めたほうがいい。

たとえば、お前たちと私の関係を社会学の研究対象にするとしたら、どんな問題が生じるだろう?

とりあえずは「ペットの社会学」ということになりそうだが、最近よく取り上げられるのは「家族としてのペット」の問題だ。つまり、多くの家庭の場合、ペットは家族同様の扱いを受けている。

さっき、動物の世界は社会学の対象ではないと言ったばかりだけれども、現に人びとが「家族」ということばでペットを理解している現実があるわけだから無視できないし、客観的に「家族ではない」と言うことはできないよ。もちろん法律ではそうかもしれないし、赤の他人から見ればバカげたことかもしれないけれども、一家のみんながそう思っていれば、それはまぎれもない「社会的現実」なんだよ。

象徴的な現象形態がペットロスだ。これは、すでに深刻な社会問題になっている。はたから見ると理解不能かもしれないけれども、ペットが死んだあと、まるで子どもを亡くした親のような精神状態に陥るんだ。私もたくさんのペットを看取ってきたから、こういうのはよくわかる。重いペットロスは、こういう悲しみを通り越してうつ症状が続くそうだ。これはつらそうだ。

こういう事態が社会学にとって遠心力にあたる。それまで「社会学の範囲ではない」として周辺に置かれていたもの、残余だったものが無視できなくなる事態だ。しかし、こうした場合、それでもそれは論じられなければならないと社会学は考える。だから、社会学の研究対象って、際限なく広がっていくんだ。

この拡散は求心力も生む。

ペットという人間以外の要素が家族に入ってくることで「では家族とは何なのか」という理論的な問いが生じるだろ? 家族らしいと思える家族をいくら見ていても、かえってこういう問いは出てこないかもしれないね。

制度から定められた家族の定義、じっさいに人びとが自分の家族と思う範囲、家族ってこういうものじゃないのという理想——それぞれにずれがあるから、これは難問だ。そもそも「家族らしさ」ということばで表現されている親密な領域とはどんなものなのか、考え出すと広大で深い思考圏が開けてくる。まして家族の形は社会や文化によって大きく異なるからね。

というわけで、お前たちと私の関係からさえも、社会学はその遠心力と求心力を働かせて、あっという間に社会学的な世界が開けてくるというわけだ。社会学の素材は身近でありふれている。しかし、それを掘り起こしていくと、じつに複雑な社会の深層が見えてくるはずなんだ。これが「社会学的反省」の正体なんだよ。

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