『子犬に語る社会学」第2章 窮屈だけれど自由な近代

『子犬に語る社会学」
第2章 窮屈だけれど自由な近代

■犬のお仕事

お前たちの一日は公園の長い散歩で始まる。散歩から戻ったら、すぐに朝食。そのあとは留守番したり、私の足元で寝てすごして、夕方になったらまた散歩して、夕食。それがすんだらひとしきり遊具で遊んで、いっしょにテレビを見て、おやすみだ。

盲導犬とか警察犬のように忙しく働く犬もいるというのに、お前たちの労働は散歩ぐらいなものだな。いやいや、それだって自分のテリトリーを確認して満足しているんだから、ほとんど遊びのようなものだ。

えさをもらうだけだから完全に人間依存の生活とは言え、労働と遊びが未分化な犬の生活は、ある意味では都会人のあこがれそのものかもしれない。都会人が陶芸家にあこがれたり、田舎の自給自足生活にあこがれたりするのは、遊びがそのまま労働になり、労働がそのまま遊びになるような生活に思えるからだ。

けれども人間の生活は、どこにいてもそんなことには、なかなかならないのだよ。

■監獄に似ている社会

人間だって伝統社会に暮らしていたときは、せいぜい数十の職業がわかれていた程度だったらしい。それが近代社会になると、労働における分業がどんどん徹底していったんだ。職業別電話帳を見ればわかるけれど、何万という職業があって、私たちはそのどこかにはまらなければ生きていけない。分業、この現実から社会学は出発したようなものなんだ。

分業って、労働する人たちが全体システムを構成するパーツに分解されるってことだ。そうなると、相互依存しあう関係が社会の中にはりめぐらされ、その関係がどんどん広がっていくことになる。今じゃ、とことんグローバルなものになっている。

相互依存するってことは、一人じゃ生きていけないってことだ。生態系にはまっているだけで生きていけるような世界ではすでになくなっているから、この近代の社会システムに入っていかなければ生きていけない。

つまり、お前たちが夜や留守番のときに犬小屋に閉じ込められるように、労働の現場では、人間たちも管理されていて、お互いに「鉄の檻」に入れあうんだよ。強固だから鉄という比喩を使うのだけれども、じっさいにその檻は見えないんだ。もちろん会社の中だと部長の席・課長の席・主任の席といった感じの空間配置で表現されているよ。でも、それはごく一部分にすぎない。

その檻は基本的には社会システムなんだ。社会システムは、役割期待や義務と責任という見えないルールの集積だ。見えないけれども、そこには越えられない一線があり、やりたくなくてもやらなければならない役割があり、失敗すると叱られたり制裁を受けたりする。そのかわり、自分だけではとうていできないような仕事ができたり、生活するのに十分な給料をもらえたりする。達成感やチームワークの力を実感したりもするね。だから、私たち現代人は進んで檻の中に入るんだ。

労働の文脈における、このような「鉄の檻」のことを社会学では「官僚制」とか「テーラーシステム」といった概念で表現してきた。官僚制は事務仕事、テーラーシステムは工場労働の文脈で出てきたものだが、どちらも、正確で効率のよい仕事のあり方を追求して、作業を細分化してそれぞれを厳密に管理していこうとするやり方を指している。

こういうものは工場の中では見事に視覚化されている。二〇世紀初頭には自動車企業の名前を取って「フォーディズム」と言われて大量生産の代名詞のようになったことがある。フォードは流れ作業のラインを周到に組み立てて、そこに労働者を配置したんだ。

それから一世紀がたって、最近は「マクドナルド化」とまで言われているね。客と接するサービス業は一番機械化しにくいところなんだが、そこまでマニュアル化してしまう。人がロボットのように立ち振る舞う。つらいように思えるけれど、このほうが気が楽だという声も多いんじゃないかな。考えなくて済むからね。

職場だけじゃない。「鉄の檻」はあらゆる生活場面に浸透している。そのおかげで、あらゆる場所が監獄に似ているとも言えるね。フーコーという哲学者は、現代人は監視され管理されていると同時に、自ら進んでそうなっているとして「規律」をキーワードにして論じている。そのもっと以前に官僚制という概念を作り、それを「鉄の檻」と呼んだウェーバーという社会学者は、人びとは支配に対して自発的に服従するんだと述べていた。「鉄の檻」はそれなりに納得させる仕掛けを備えているんだ。

■近代という大きな物語

私たち人間は、自然環境に生きているだけでなく、社会の「大きな物語」の中で生きている。そこがお前たち動物と大きく違うところじゃないかな。有名なマルクスは「第二の自然」という言い方をしていたっけ。「鉄の檻」と呼んだウェーバーも、現代人の抗いがたい運命として理解していた点では同様だね。

私たちが生きているこの「大きな物語」をこれまでさまざまな学者が語ってきた。「資本主義」とか「市場経済」とか「世界システム」といった、いろんな捉え方があるんだ。ここでは、なじみのある「近代」ということばを使うことにしよう。まあ、ありふれたことばだよね。モダン焼きの「モダン」だもの。

一般に「近代」は歴史の一時期を表すことばのように使われることが多いけれども、社会学では、伝統社会に比較して独特な社会のありようを指しているんだ。

では、それはどういうものか。ウェーバーに即して説明すると、近代とは、壮大な合理化の過程ということになる。合理化にもいろいろあるんだが、もともとヨーロッパで発達し、今はアメリカがまぎれもなく推進力になっている「西欧に特有の合理化」なんだ。

ウェーバーがあげているのは、経済における資本主義的企業、行政における官僚制組織、国家における議会制度と憲法と合理的法体系、学問における近代自然科学、芸術における市場向け生産物だ。これらは西欧生まれで、しかも西欧以外の文明からは生まれなかったものだ。これらがなぜ西欧でのみ生まれて、しかも伝統社会を打ち壊し、他の文明社会にまで普及していったのか。

もちろんそういうものがそのまま移植されるわけじゃない。抵抗も強いものだ。しかし、土着の文化と反発したり融合したりする中で、ローカルに変容して定着する。揺り戻しや反動も大いにあって、「西欧に特有の合理化」の進展は必ずしもスムーズなものとは言えない。ファシズムや社会主義なんかも、その抵抗の表現だった。

まあ「西欧に特有の合理化」なんて、なじみのない用語を使ったけれども、今は「グローバリゼーション」ということばで理解されているね。グローバリゼーションの勢いを見ると、このプロセスはかなり強力に突き進んでいるように思う。

原動力は資本主義経済ということになるだろう。それに一連の民主化のための国家装置。そして文化の変容。私たちは、近代という大きな物語の中に生きている。

人間も生態系の一部として分相応の生活をするべきだというようなエコロジーや自然環境最優先主義には一理はあるが、その短絡的発想をきちんと批判しなければならないのは、こういう巨大な社会システムがすでに存在しているという現実を直視していないからだ。目をそらしても、あるものはあるんだよ。

だから、環境問題を解決するためには、むしろ近代という「鉄の檻」と向き合って、その内側からこれを解いていくしかないんだ。しかし、近代の社会システムは、そんなにやわなものじゃない。したたかで柔軟で、すでに私たちの血となり肉になっている。まずはそれを自覚するところから始めるべきだろうね。

■近代的身体

たとえばスポーツだ。人間は遊ぶのも組織化する。西欧人がスポーツと呼んでいる遊びは、ルールをつくり、協会を作り、徹底して記録をとり、競争する。ここでも嬉々として合理化してるんだ。

この合理化は、かなりひねくれているよね。ひとつは、目的を達成するために迂回するところだ。もうひとつは、徹底的に計算することだ。ボールを打ったり蹴ったりしていても十分楽しいはずなのに、面倒で手間のかかるシラケたことをあえてすることで、結果的にもっと盛り上げてしまう。これが近代スポーツの特徴だ。

最近のスポーツは、すっかりメディア・イベント化して、「商業主義化反対!」なんて声もなくなったね。観客は心の底から熱狂しているように見える。これをシニカルに見れば、管理された「集合的沸騰」というところかな。

他方、スポーツ選手のほうは、徹底的に管理され監視された上で、がちがちのルールを自分の身体に覚えこませているわけだ。スポーツマンシップの内実がこれだ。管理され監視されることに従順であることに馴らされている。こういうのを「近代的身体」と言うんだ。

もちろん近代システムの内部にも喜びや感動はあるのさ。むしろ近代システムに深くなじんでいくほうが、そういうものは得られやすいんだ。システムは、そういうふうに計画され工夫され更新されてきたんだから。

同じことは教育や医療についても言えるね。近代システムとしての学校や病院は、規律を徹底して、目標を達成するために徹底的に計画されている。その中では「よい子」であり「よい患者」であることが求められる。それは本人にも快適感をもたらすはずだ。

■音楽の近代

私たちの五感も近代的なるものに従順だ。

絵画でよく使う遠近法も西欧近代の発明だ。光景を見たまま描いてもべったりとした平面的な絵になってしまう。子どもが書いた絵のようにね。ところが、見たまま描くのをやめて、あらかじめきちんと計算するという迂回路をとって描くと、立体的に見えてくる。見た感じに近くなる。皮肉なことだね。

じつは音楽でも同じようなことが典型的に起こっているんだ。平均律がそうだ。

世界には無数の伝統音楽・民族音楽があるが、平均律で音の構造を決めているのは一八世紀半ば以降の西欧近代音楽だけだ。オクターブを均等に十二に分割して一音一音を決めるという調律の仕方は数学的に合理的だ。けれども、人間の耳には少しにごって聞こえるんだ。たとえばドミソの和音がきれいに響かない。じゃあドミソなどの和音が耳によく響くように音を調律していればいいということになりそうだが、それだとオクターブがずれるんだ。

だから伝統音楽は音数を少なくして、それなりに耳によく響く音だけで構成されている。耳の生理からすれば、こっちのほうが合理的と言える。音楽なんだから、そのほうがスジが通っているじゃないの。ヨーロッパでもバロック音楽のころまではそうだった。

じゃあ、どうして西欧近代音楽がそんな選択をしたかというと、平均律にすると二十四の調で作曲・演奏ができるし、転調も自由自在になるから、音楽の表現力が格段に高まるからなんだ。ヴィヴァルディらの前期バロックの曲はみんな似たような音楽に聞こえるけれども、今の音楽、J-POPでも演歌でもヒップホップでも、結局はベートーベンと同じ音構造で作られているんだから、その表現力の差は歴然としている。

ここでも、目的を達成するために迂回して、数学的な合理性を優先させているよね。近代の合理性って、やはりネジレてる。

こういう変化は、図式的にぽーんと変わるんじゃなくて、さまざまな歴史的事情の集積として生じるものなんだ。文化史や社会史の研究が必要なのはこのためだが、音楽史的には、あらかじめ調律を決めておかなければならない基準的な鍵盤楽器がオルガンからピアノへ移ったおかげで音の濁りが目立たなくなったことがあるようだ。オルガンは持続音だから和音が濁ると聴いていられないけど、ピアノだとポーンと叩く音だから気にならない。

また、五線譜に音を書いていく記譜法が発達した結果、専門に「音楽を書く人」が誕生したことも大きいんだ。つまり作曲家の誕生だな。それまでは演奏家が作曲家でもあったんだが、作曲専門となると、演奏上の制約を脱して五線譜の上で音楽的可能性を追求するようになる。そういう作品を演奏するとなると、いやでも平均律に調律が必要になるというわけだ。モーツァルトとベートーベンのあいだあたりが境目かな。

お前たちは私の足元で、ときにはひざの上で、いっしょにいろんな音楽を聴くよな。バロックもクラシックもロックもジャズも、一九世紀に確立した西欧近代音楽独特の音構造からなりたっていると思うと、「近代」の裾野の広さと影響力の深さを感じてしまうね。

■荒ぶるシステム

全てが商品となる近代システムでは、お前たちも商品だったわけだ。早々と親犬から引き離され、同じような境遇の子犬といっしょにショーケースに入れられて、私たちの前に引き出された。そして私たちと出会った。おかげで今じゃお前たちは私たちの家族の一員だ。しかし、売れ残った子犬たちはどうなった? 考えてみれば乱暴なことだ。良くも悪くも命を翻弄している。それがマルクス流に言えば「資本の運動」だ。

それは現代人も同じなんだ。「資本の運動」だけではない、複雑な要因の産物として捉えなければならないけれど、近代システムの論理に翻弄され続けているのはたしかだ。

そもそも近代システムは予定調和的なものばかりじゃないんだ。むしろ矛盾を抱えた運動体なんだ。一時期よく言われたように、近代化することが善き進歩であるという保証はない。むしろ葛藤を抱え込む形になる。

それがしばしば矛盾を爆発させる。日本で言えば水俣公害問題やスモン薬害問題のような大規模な社会問題は、システムの運動の内部矛盾がシステムの外部に劇的な形で現象したものだ。

こういう問題が生じるたびに法律が改善され企業が気をつけるようになると、それなりに軌道修正されたことになる。こういうのを「再帰的近代化」と呼んでいる。だからいいかというと、そうでもない。社会はそんなに単純にコントロールできるものではないんだ。民主的コントロールは必要だが、完璧ではない。被害者一万人のスモン事件があったあとに薬害エイズ事件が起こったように。それを個々の問題に即して徹底的に内在的かつ批判的に指摘していくことが社会学の仕事になる。「荒ぶるシステム」の分析には、社会学のような「荒ぶる学問」が必要なのだよ。

マルクスが「資本の運動」として生涯をかけて指摘し続け、苦労して『資本論』や膨大な草稿を書いたのは、こういうことだったんじゃないか。そう考えると「社会主義の父」として偶像化されたマルクスではなくて、社会理論家としてのマルクスにはまだ学ぶべきことがある。

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