2022年1月15日土曜日

『インフォアーツ論』第二章 メビウスの裏目──彩なすネットの言説世界

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第二章 メビウスの裏目──彩なすネットの言説世界

¶一 〈インターネットの導入=市民主義的転回〉構図の崩壊

■ネット先住民文化の孤島化

前章では、大公開時代における駆動的な理念モデルだった市民主義的ネットワーカー像を確認した。このような「オープン」で「フリー」な文化はじっさいにあったし、一見そうでないような場所においても、多くの人たちからモデルとして参照されたのである。

しかし、これらの構成要素はもともと限定性をもっていた。

第一に、技術エリート主義的な色彩をもっていたこと。よく指摘されることだが、インターネット先住民は基本的に大学や研究所などに在籍する技術エリート集団である。かれらのライフスタイルがカウンターカルチャーだったりカジュアルだったりするのも、それでいて一種の品性をもちえたのも、エリートあるいは専門家ならではの文化現象なのである。

第二に、ネットワーカーでない「ふつうの人びと」を外集団(ソト)として設定した、プライドや優越性を前提とする市民性でもあったこと。技術エリートでなくても、当時はネットワーカーであること自体が稀少性をもっていた。それなりに進歩的かつ理知的な人間であるとの自己認識を共有できた。それゆえ、それらの人たちのあいだには内集団(ウチ)としての信頼が存在していた。だからこそ、何事につけオープンにできたという側面がある。

このような限定的性格はいともかんたんに突破されることになる。先端部以外のネットにおいては、そういう文化を知らないか、あるいは共有できないか、共有する意志のないきわめて多数の人びとや組織が参入する中で、なし崩し的に「先住民文化」は忘却され、一時期多くのネットニュースやメーリングリストで繰り広げられたように、クレームの標的にされたり過去の遺物あつかいされることになる。

つまり、インターネットの前提的な思想は「先住民」の技術思想と一種の自主管理思想に基づいているが、次にやってきた「パソ通あがり」の人びとは「BBSの文化」にしたがって動くことが多かった。「BBSの文化」が何かというと、ニフティサーブや草の根BBSをその代表として言うと、基本的には「匿名の遊戯的文化」ではないかと思う。もちろんBBSでも「先住民思想」を継承したフォーラムや電子会議室もたくさんあったが、しかし、多くのゲストは匿名で参加しており、遊戯的感覚で臨んでいた。BBSは基本的に管理された組織的空間だから、参加者はその埒内で好き放題に発言したり自分を表現したりできるわけで、シスオペという名の「先生」に反抗する楽しみもふくめて、学校の中の自由みたいなものを満喫できた。

それを何でもありのインターネットでやってしまうと、統制主体がないから、数にまかせて好き放題のことができてしまう。それが今のインターネットをそこそこ盛り上げているところでもあり、逆に、暗澹たるテキストを氾濫させている要因にもなっている。見方を変えると、そもそもガバナンス原理が市民主義的ネットワークを生むとはかぎらず、まったく逆にネオナチ的ネットワークをも生み出しうるような、生々しいコミュニケーションを呼び寄せることになるわけである。

そこに「ふつうの人びと」がおそるおそる、しかも大量に参入してきたわけで、この人たちは実社会ではそれなりの常識ある人びとだから、それぞれの世間の行動基準で動くことが多い。学生だと学生の世間があり、ビジネス系の人にはビジネス界の世間があり、専門家には専門家の世間がある。常識もさまざまだ。その多様さというのは「ふつうの人びと」の多様さに他ならない。

図式的にまとめれば、この七年間というのは、インターネットの導入が人びとに市民主義的転回の機会を広げたとともに、その力を一気に失ってしまう過程なのである。換言すると、人びとが自由かつ対等に、しかも品位をもって交際し、理性的な世論を集合的に組み立てていくような市民的公共圏が孤島化する過程なのである。

その潮流がある程度定着して一段落してみると、今度は解決すべきさまざまな問題が山のように放置されていることが見えてきた。もはやインターネットを語る人たちの目線は、著作権問題や犯罪・自殺への荷担、有名サイトへのアタックやウイルスの脅威、そして人権侵害などのダークサイドに注がれている。


■ガバナンス原理の裏目

ここでガバナンス原理に立ち返ってみよう。

(1)ボランタリー・コミットメント、ボトムアップ

(2)非営利性・公益性

(3)開放性・可塑性・連結ネットワーク性

(4)情報透明性・説明義務

(5)ピア・レビュー(仲間内の評価)

すでに見たように、これらは市民主義として総称できる新しい集団原理として語りうるものである。しかし、何ごとにつけ、表裏一体、アンビヴァレントなもの。どんな行為にも理念があるが、それは予期通りの結果を生むわけではない。また、同じ行為でもコンテクストによって意味が変わる。ネットのダークサイドも、じつは同じことの裏側と考えた方が近い。

これらを裏目にするコンテクストのおもなものは、おそらく次の三点だろう。匿名性、統制主体の不在、大量性。これらがガバナンス原理の暗黙の前提を崩してしまうのではないか。

第一に、匿名性。ガバナンス原理の前提は実名性である。インターネットはその先住民文化においては実名性の上に成立する文化だった。しかし、その原則は崩壊した。個人サイトにせよ掲示板での発言にせよ、個性豊かな固有のハンドル名を使用する場合はまだいい。発言の同一性が確認できる。しかし、だれもが「名無しさん」では、どうしようもない。こういう場所において実名で発言する人は当然いなくなる。同じことが匿名でなされると、とたんに実名発言は脆弱かつ危険な行為に転化してしまうからだ。もともと実名をオープンにするのをきらうのは自分を脆弱にするからだ。しかしオープンにしないとコミュニケーションの誠実性は失われ、信頼性を担保できなくなる。

匿名批評がひとたび流通してしまうと、ふつうの神経をもっている人であれば、実名で何もできなくなってしまう。その点で匿名掲示板の罪は大きい。しかし、そもそもニフティがパソコン通信時代にそれを広めたのだから、これらは商業主義のまいた種がすくすくと育っただけなのだ。一度味わった透明人間意識は元には戻らない。

もちろん匿名にも意義はある。ニュース記事も匿名である。日本の新聞で署名原稿は最近のことだ。内部告発も匿名でなければむずかしい。内部告発は組織の裏切りでもあるが、社会全体に対して誠実であろうとする行為である。ネットにおいても匿名であることが一定の効果を収めることもある。業界問題のディスカッション・グループでは、匿名であるからこそ語れるような情報や見識と出会うこともそれなりにある。しかしそれを過大評価できるかどうか。少なくとも、発言に責任をとる人はそこにいないのだ。


■共有地の悲劇、あるいは銭湯的民主主義の社会的ジレンマ

第二に、統制主体の不在。匿名主義のパソコン通信がそれなりに成果を上げてきたのは、匿名でありながらも、シスオペやモデレーターと言われる管理者が組織され、技術的な権限とともに、いわゆる議長権限も与えられてきたからだ。そのこと自体によるトラブルも多々あったと記憶しているが、多数の人たちが集合しているときには何らかの交通整理やコーディネイトが必要である。

そうしないときには、ある種のボス支配が生じる。誠実でまめな仕切り屋さんが登場すればいいが、断定口調で頻繁にアクセスする人がいると一種の恫喝的支配になるケースが多くなる。対等であるがゆえに、ルールを守る人間がまめな無法者を跋扈させるという社会的ジレンマが生じるのである。

統制主体の不在は一見して民主的空間に見える。しかし、それは銭湯のような裸の民主的空間であって、だれかが勝手に必要以上に水を足して湯船をぬるくしてしまえば、あとから湯船に入る人には不快なことになる。ミクロな環境問題が生じるのである。掲示板などで荒れた強気の文体が一定の効果を収めてしまうと、他の参加も競ってそうした文体を採用して覇を競うことになりがちである。どこの大学でも、音楽や画像のダウンロードを大量にする人たちのためにトラフィックが増大し、つながりにくくなるという現象が生じているが、こういう環境問題特有の「共有地の悲劇」が生じているということだ。つまり、個人個人にとっては合理的な行為が共有の資産を台無しにしてしまう現象が生じる。その結果、個人個人にとっての環境が劣化する。


■極端な並列性

第三に、大量性。規模の問題、量的規定性の問題というのは、質の問題である。

ガバナンス原理では参加者は対等な個人としてあつかわれる。それが小さなコミュニティの場合(たとえばローカルなメーリングリストや高度な技術に関するニュースグループ)は、それがうまく機能して「ネットらしい」効果が得られるかもしれない。しかし、現在のようにどこでもそれなりに規模が大きくなると、それは極端な並列性を現象させる。少し前の単純なロボット型サーチエンジンにおける検索結果のように、月もスッポンも同列に並び、結果的にすぐれたコンテンツが埋没する。

公開メーリングリストでも掲示板でも、参加者が多いと認識されている場合は、人びとは自発的かつ能動的に発言することを控えがちである。その結果「少数の発言者と多数のオーディエンス」という構図ができやすい。ネットが、それとしばしば対照的に論じられるマス・メディアと同じになってしまう。それが意味することについては後論で論じよう。

メビウスの輪は表をたどることで裏側になり、かと思うと表になっていたりする。当然、今は、このような両義的な空間としてネットを眺めることから始めなければならない(吉田純『インターネット空間の社会学』世界思想社、二〇〇〇年。遠藤薫『電子社会論』実教出版、二〇〇〇年)。


■メディア論に立ち還る

ネットはテクノロジーの革新として議論されることが多い。しかし、それが必ずしもコミュニケーションの革新に直結するとはかぎらない。もちろんネットの場合、テクノロジーは重要だ。しかし、それが重要なのは、巷間流布している技術決定論が主張するような「これこれのテクノロジーがこのように社会を変えます!」式ではなく、ユーザーたちがその技術をどのように理解しているか、どのように使いこなしているか、ということである。社会的現実の構成要素としてはそれが重要なのである。

インターネットの歴史においても、メーリングリストのように、技術的な知識の共有のために開発された技術が、結局、日々のよしなしごとやおしゃべりにさかんに使われたということがあった。技術はその内発的な論理(できそうなことを開発する)や経済的な動因で進もうとするが、その受容のされ方によっては思いがけない方向に展開することがあるし、そうした技術の絶え間なき進歩が人びとを分断するということもある。

ユーザーたちがネットにまつわるさまざまな技術をどう理解して実践しているかに注目すること。これはメディア論の基本である。その意味で、メディア技術の内部および技術者集団の視点から語る情報科学やコンピュータ・サイエンスといったものではなく、メディア技術の外部環境(ユーザーを含む)から社会的に理解しようとするメディア論に立ち還って議論することが今は必要だと私は考える。

そこから現状を見ると、今のネット文化は、意外に古めかしいコミュニケーションの集積であると言えるのではないか。つまり、ちっとも「ネットらしく」ないのである。これが本章で私が主張したいことだ。

第一に、ネット上のコミュニケーションは、微視的には「流言」つまり「うわさ」として理解できる。これはつまり、ネットの技術をユーザーたちは自分たちの身の丈にあった「うわさ」というやり方で消化して活用しているということだ。

第二に、ネット上のコミュニケーションのもつ力は、巨視的には「マス・コミュニケーション」の影響力として理解できる。じっさいネットはマス・メディアにきわめて近い受容のされ方をしている。ここでも人びとはネットを、これまで慣れ親しんできたマス・メディアに準じた活用をしている。

この観点から、両義性に満ちたネットの実態を理解し直してみよう。それは身近なネット文化を距離化する上で有効な戦略だと思う。


¶二 即興演奏されるニュース


■可視性に優れた流言

まず、ネットは、外部からの可視性に優れた流言である。長く記憶をとどめ、検索され、たえず引用されつづけるうわさである。こう理解すると、ネットに対する過剰な幻想も抱かなくなるのではなかろうか。ただし、ここで言及される流言についての社会学理論は、一般の常識的イメージとは著しく異なっている。

常識的には、うわさは「連続的伝達における歪曲」と思われている。人から人へとクチコミで伝達されるプロセスにおいて内容がしだいに歪曲されてくるといった「伝言ゲーム」のイメージである。しかし、この分野のスタンダードな研究となっているタモツ・シブタニの『流言と社会』によると、流言とは「あいまいな状況にともに巻き込まれた人々が、自分たちの知識を寄せあつめることによって、その状況についての有意味な解釈を行なおうとするコミュニケーション」(タモツ・シブタニ『流言と社会』広井脩・橋元良明・後藤将之訳、東京創元社、一九八五年)である。この定義から、流言は「即興演奏されるニュース」(improvised news)であるという。

ポイントはふたつだ。うわさは「話」ではなく「人びとの相互作用のプロセス」だということ。人びとがそれを語るという行為の時系列的集積と空間的集積が流言なのである。おそらく流言の大海に浮かぶ島の海岸の岩に結晶した塩のようなものが、よく耳にする巧妙なうわさ話や都市伝説なのだろう。

もうひとつのポイントは、問題解決のための集合行為であるということ。つまり流言が大量発生するケースは、たいてい問題状況があって、人びとはそれに対して実態がわからず不安を覚えたり、善悪の判断に悩んだり、次の行動に移れないもどかしさを感じている。そのような問題状況に対して「ああでもない、こうでもない」と寄って集って解釈をいろいろに試行してみて、それなりに納得のできる解釈なり情報を集合的に構築する過程が流言なのである。その副産物として、さまざまな憶測や思いこみなどが即興演奏されるというわけだ。

シブタニによると、「それについて知りたい」というニュース欲求が、マス・メディアや公式組織による制度的チャンネルで供給されるニュース量を上回るとき、うわさが生じやすいという。どういうときかというと、たとえば災害によって制度的チャンネルが全面的にマヒしたときや、検閲や特定集団によるメディア支配によって制度的チャンネルのニュースが信頼できないとき、そしてあまりに事件が劇的なのでニュース欲求が飛躍的に高まったときである。そういう状況に直面して人びとが環境把握のためにおこなう集合的な解釈の試みが流言であり、人びとが共同して即興の状況解釈をおこなうのである。その意味では病理的な現象ではなく正常な合理的現象である。

ネットにおけるコミュニケーションは、大なり小なりこのような流言の性質をもっている。それが一般の流言とちがうのは、そのコミュニケーションのプロセスが掲示板やウェッブ日記やメーリングリストにストックとして残るということと、そのため第三者が接近可能だということだろう。もともとローカルなうわさというものは第三者には体験できないし知り得ないものだが、ネットではちがう。私がネットを「可視性に優れた流言」と見るのはそのためである。


■問題解決のコミュニケーション

曖昧な問題状況に明確な解釈を与えるという「解決」のプロセスは、少なくとも形式的にはガバナンス原理そのものである。自発的かつ無償で参加し、ボトムアップで意見を積み上げてゆき、仲間内で評価しあうのだから。このプロセスのなかで、人びとはさまざまな参加の仕方をする。「伝達者」「解釈者」「懐疑者」「主役」「聞き役」「意思決定者」というように。環境になんらかの変化が生じると、その問題状況に対応するために、これらの役割を担った人びとが活発にコミュニケーションをおこなう。その結果として、無数の「ことばとしてのうわさ話」が成立するわけだ。

ネットでは、このプロセスが丸見えである。この情報構築過程は、科学的知識のように経験的に検証されたものではないし、ジャーナリズムの供給するニュースのように組織的に構成されるのでもなく、宗教の教義のように一貫した絶対的相貌で立ち現れるものでもない。しかし、それは愚かな人たちの所業ではなく、それなりに知性の集合という側面がある。掲示板やメーリングリストでの議論の流れがそうであるし、特定テーマのリソースリストにそって個人サイトを回遊するさいにも、この構築過程を目撃することができるし、しばしば私たちはそこに参加する。


■なぜ極論に流れるのか

しかし、ひとりひとりはそれなりに冷静で見識ある人だとしても、ガバナンス原理によって集合的に言説を積み上げるとき、しばしば保守的な常識や悪意ある偏見や嫌悪感情が露骨に現象することが多い。どう見ても見当ちがいな「結論」にたどりついているケースも多々ある。正反対の極論が拮抗している場合も少なくない。これはなぜなのか。

ネットの場合、客観的事実や公正な評価ではなく感情的な落としどころに落ち着く傾向がある。情報のやりとりと見なすのは誤りである。それは、感情の社会的配給装置なのである。つまり、人びとがネットで得ようとしているのは何らかの感情的解決ではないのか。

たとえばネット上で極論が優位を占めるのはなぜか。社会学や社会心理学ではこの種の研究が盛んで、多くの論文が出ているようだ。ただし、いささかミクロな事例研究が多い。その中で比較的マクロにネットの社会心理を整理して論じたものとして、パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』(川浦康至・貝塚泉訳、NTT出版、二〇〇一年)が参考になる。ちなみに私は、ネットの分析は一から始める必要はなく、既存社会についての分析枠組みや研究成果を応用できるとするウォレスの立場に賛成だ。ネットを現世ではない別世界と想定する根拠は薄いと思う。

ウォレスによると、ネット上の議論で中庸意見が欠けがちな理由として「リスキー・シフト」(正確には「極端な方向へのシフト」)があるという。人が集まって話し合うと、その前に各自がもっていた中庸な意見が極論に傾く傾向があって、これは各自がその集団を意識していると、より高まるという。したがってネットの場合も、その討論の場が集団的なまとまりをもっているとき、人びとはそこでの議論を通して極論に進みがちだということだ。さらに、ネットでは、どんなテーマでも、どんな風変わりなことでも、自分と同じ考えの人を見つけやすく、またいっそう極端な意見も表明されているものなので、自分の意見の正当性を過大評価してしまうのだろうと思う。

こうして裁判官のような語りが横行するのである。ものごとを有罪か無罪かで決めつける言説が跋扈する。洗練された表現を借りると「一回ひねりの二元論」が幅を利かせる(糸井重里『インターネット的』PHP新書、二〇〇一年)。

このリスキー・シフトのロジックは、なぜネットで論争や口論が絶えないのかも説明してくれる。つまり、集団的議論によってメンバーがより極論化すると、排他的な極論Aと極論Bとのあいだに摩擦が生じるのは当然の流れである。


¶三 マス・メディア化したネットの影響力


■オーディエンスの多さがネットをマス・メディア化する

ネットは、巷間言われているようにグローバルではなく、本質的にはローカルなコミュニケーションを誘発するものだ。だからこそ、前節で確認したように、ネットの言説世界を流言現象として理解できるのである。しかし、ギャラリーが多いせいで、活発な相互作用性が失われてしまい、その結果、実質的にマス・メディアに転化している場所も多くなった。有名サイトや巨大掲示板などは今やマス・メディアに限りなく近い。どこも読者の数は相当数に上るはずである。研究者はついネット特有の特性に着目してしまうが、ネットと言えども案外マス・メディアと同様の影響力を発揮しているのではないか。それを指摘する研究も若干ながら出始めている。

このように考えると、ネットの言説世界を流言の視点から見ることができると同時に、マス・メディアとして見ることも可能であると言えよう。とすれば、マスコミ研究の影響力理論を借用してネットの影響力を論じることができるのではないか。これが本章でのふたつめの論点だ。ここでは、沈黙のらせん、培養効果、第三者効果、情報過多による情報操作、メディア・ホークスといった理論を参照して、ネットの言説世界にありそうなものを見ていこう。

これらはマス・メディアが独自のリアリティを構築したことによって受け手にもたらしたとされる影響である。ネットではふつうの人びと(従来の受け手)が送り手の役割を取って同様の世界を構築しようとしているにすぎない。この観点からの研究は意外に少なく、詳しい検証が必要だが、ある意味ではどこまで行っても検証できたとは言えないような対象でもあるので、ここではむしろ天下り式に論じたい(何でもありの多様体のネットに関しては例外や反証はいくらでもみつかる!)。


■沈黙のらせん

まず前節とのつなぎもかねて、ネットにおける「沈黙のらせん」(spiral of silence)から始めよう。これは、世論形成とメディアの関係に関する有名な理論の名前である。ノエル−ノイマンが七〇年代に提案して、その後も発展してきた理論である(Elisabeth Noelle-Neumann『沈黙のらせん理論[改訂版]』池田謙一・安野智子訳、ブレーン出版、一九九七年)。

その発想の始発点は「孤立への恐怖」である。私たちは何か共通の話題について話すときにはいつも慎重だ。たとえば会議の席で一番最初に発言するのは避けたいと思う。満員の電車の中で政治や宗教の議論をするのもやめておきたい。なぜなら、自分の意見がその場に居合わせた人びとに受け容れられない少数派の意見かもしれないからである。それを言ってしまえば自分は孤立する。

だから、私たちは最初にじっと様子を見る。みんながどのような考えを持っているのかを探る。会議やミーティングの場合、司会から指名された人たちの発言やそれに対する人びとの反応を確認できるようになると、人びとはぽつりぽつりと発言を始める。自分の意見が多数派だとわかるからだ。

逆に、自分の意見が少数派であると認識した人は沈黙する。へたに発言したら孤立するからである。もちろん、孤立をおそれない確信の人は発言する。これを「ハードコア」という。しかし、他者との関係に敏感な人は沈黙するのがふつうである。

つまり、多数派と見られた意見をもつ人たちは積極的に発言するために、その意見はますます多数派に見える。逆に少数派と見られた意見をもつ人たちは発言を控えるようになるので、その意見はますます少数派に見えてくる。発言されない意見は客観的には存在しないのと同じなのだから。こうして、多数派の意見はますます多数派に見え、少数派の意見はますます少数に見えるという「らせん」運動が始まる。


■ネット世論はなぜ偏向するのか

このらせん運動の問題点は、じっさいに人びとの意見の分布とは関係なく「多数派意見なるもの」が増幅していくことだ。そこに居合わせた人の二割しか支持していない意見であっても、たまたま複数のハードコア(確固とした意見の持ち主)が先行発言して意見風土(意見の風向き、雰囲気)をこしらえてしまうと、あとの八割近くは沈黙してしまうということだってありうる。しかも、人びとは自分の意見を多数派に合わせて変更するとはかぎらない。さしあたりは、ただ沈黙するだけである。

では、意見について、人びとは何をもって多数派か少数派かを判断するのかといえば、それは圧倒的にマス・メディアである。マス・メディア上に流通しているコンテンツを参照して、人びとは自分の意見を発言するかどうかを決める。じつはここにこそマス・メディアの影響力の実体が存在するのであって、メディアが「右向け右!」と叫んだところで人びとが右を向くわけではないし、洗脳されるわけでもない。人びとはあたかもシニカルな批評家のように、それを参照して、もともと右向きの人たちは自信をもって声高に持論を発言し、左や上を向きたい人たちは黙って様子を見るだけである。

ネットの言説世界についても、同様のことが言える。メーリングリストや掲示板などで一部の常連が極論を提示することで、それと同じ意見を持った人たちは同調的な意見を述べやすくなり、一定方向の意見風土をこしらえてしまうと、その反対意見や中庸意見の人たちは自分の意見を言いにくくなる。一見して自由な討議が行われているようでいて、ひどく偏った論調が続いたりするのは、じつはこのメカニズムによる。

その結果として現出するのは、個々の掲示板なりメーリングリストにおけるローカルなネット世論が劇的に転回して、あるときは一方に押し寄せたかと思うと、次の瞬間には一気に引くという極端な揺れである。人びとの意見の分布にはおそらくあまり変化がないにもかかわらず、ネット世論は大きな振幅で激しく極論に揺れがちである。その意味では、意見の対立が生じて論争の泥沼に陥るのは、むしろ健全なことなのかもしれない。

さらにマクロに眺め直せば、無数のディスカッション・グループの大小関係がけっこうものをいうことになる。つまり、ギャラリーの多い場所が、意見の優勢・劣勢の判断基準に使われがちだということだ。ギャラリーの多い場所での意見の動向を見て、人びとは自分の手近な発言場所で強気の意見を述べたり、逆に(少数意見らしいとわかれば)控えたりする。その結果、ギャラリーの多い場所でのネット世論がますます多数派と見なされて勢いづく一方で、そこでの少数意見はますます沈黙を余儀なくされる。ネット世論を見るときは、このメカニズムを強く意識しないと、実態を見誤ってしまう。


■議題設定機能

世論の動向に与えるマス・メディアの強力な影響として「議題設定」がある。これは、メディアが特定の争点を大量に報道することによって、人びとがそれを「今考えるべき問題」と捉えるという影響力である。特定の意見が影響をもつのではない。「大量に語られている」ということ自体が認知的影響を与えるのである。つまり、人びとはニュースに接して自分の意見を急に変えたりしないが、あちらこちらでその問題がさまざまに取り上げられているのを見て、「ああ、今議論しなければならない話題はこれだな」という具合に、影響を受けるというのである。「どう考えるべきか」ではなく「何を考えるべきか」についてマス・メディアは強い影響力をもつというわけだ(マックスウェル・マコームズ他『ニュース・メディアと世論』関西大学出版部、一九九四年。竹下俊郎『メディアの議題設定機能』学文社、一九九八年)。

ネット言説の世界でも「議題設定」の役割は大きい。テーマを限定しない巨大掲示板であれば、管理者がどのようなテーマの「板」を設定するかで、人びとはそれを「議論すべき問題」と認識する。議論の土俵が決められてしまうのである。これはつまり、項目が立てられていないかぎり、それは「問題」と認識されにくいということである。他の問題に気がつかないという認知的影響こそ、意識されにくいが、じつは大きな影響力なのだ。

さらに、どういうスレッドを立てるかによって、ローカルな議題設定がなされる。それは特定のテーマに問題性を刻印する行為になる。当然、ここには設定者の意図があるわけだが、プライミング効果といって第一印象があとあとまでずっと尾を引くことを、多くの常連は経験的に知っているようだ。マス・メディアと同じように、ネットの言説空間でも「仕掛け」「やらせ」「仕込み」はある。週刊誌の手法だが、極論で議題設定して反論を呼び込み、言及や意見表明の数を増大させて「問題」を構築する仕掛けである。

参加者たちは、それぞれに自由に意見を述べあっているように見えるが、リスポンスのよい人ほど(あるいは感度のよい人ほど)この影響にはまる。


■第三者効果

マス・コミュニケーション理論には「第三者効果」という仮説もある(W.Phillips Davison, The Third Person Effect in Communication, in: Public Opinion Quarterly 47, 1983)。これは、人びとが、マス・コミュニケーションが他者の態度と行動に対してもつ影響力を過大評価しがちであることを指摘している。つまり、ニュースの報道の仕方などを見ていて「自分はそうでないけれども、他人はこれに影響を受けるだろう」と見積もる傾向があるということだ。

さきほどの「沈黙のらせん」と考えあわせると、人びとはメディアの影響を直接は受けないのだけれども、他者や世間や社会はメディアの提示する論調や意見に沿って動いていくだろうと考えて、自分の態度や行動を修正するということだ。

ネット言説の世界でも、こういう傾向があるのではなかろうか。ネットの世界では、人びとの意見が直接表明されていると見なされているわけだから、自分はそうではなくても、他の人たちは影響されるだろうと考えて、それに対応した態度を取る。つまり、自分意見が少数意見であると判断して沈黙したり、自分にはそれほど重要でない問題について好意的なニュアンスで発言をしたりする。ネットでの突飛な発言が意外に反発を受けずに紳士的対応を受けて否定されない現象などは第三者効果で説明できる。


■賢明な市民ゆえに落ちる陥穽

マス・メディアにせよ、ネットにせよ、メディアの影響力は、受け手なりユーザーなりが賢明でないことによって生じるのではない。むしろ世の中のことを冷静に注意深くウォッチしようとしている賢明な市民たちこそ、メディアのつくる落とし穴にはまりやすいのである。たとえば、人びとは賢明でシニカルな批評家としてメディアの言説を参照することで、沈黙のらせんに取り込まれて(参加して?)しまうのである。

こうした傾向は以前から大なり小なり存在したと思う。けれども、日本ではっきり出るようになったのは一九九〇年代からではないだろうか。政治にせよ経済にせよ、従来の常識が崩れ、とまどいながらも自分の意見をもちたい人たちはいる。無党派層の多くがそうだろう。この人たちは組織やイデオロギーにとらわれない賢明な市民である。しかし、それゆえにこそ、この人たちは「クイズ100人にききました」的動き方をする。自分がどう考えるかではなく、他の人たちがどのように考えるかを評論家的に予想することが日常的なテーマになってしまうのだ。既成の常識が崩れているだけに予想はしばしば大穴をあける。それだけに他者の意見と評価に対してみんながみんなナイーブになっている。そういう影響を受けているという自覚がないのが一般的だろう。人びとはメディアの影響というものをそういうものと考えていないので、自分は埒外にいると思いこんでしまう。

このような影響力のありよう自体は、いいことも悪いこともある。今度はそれをジャーナリズム論を参照して考察していこう。


¶四 民衆ジャーナリズムとしてのネット言説


■調査報道、内部告発、ちくり

ネットが、ギャラリーから見るとマス・メディアであり、一定のジャーナリズム機能を果たしていることはまちがいない。ちがうのは、その担い手がプロの組織でないことだ。

ジャーナリズム論の世界では「民衆ジャーナリズム」という概念があって、プロ組織による支配的マス・メディアに対する代替的ジャーナリズムとして、おおむね肯定的に語られてきた。しかし、ネット言説の世界では、相互にリンクされた個人サイトであれ、大小さまざまな掲示板やメーリングリストであれ、すでにそれが実現してしまっているのだ。

理念的には、それは画期的なことである。ある出来事に対して、ネットの世界では、すぐに速報が流れるし、当事者の内部告発、現場に近い人たちの状況報告、それに対する分析などが流れてくる。企業に関するニュースなら社員が内部告発するケースもあるし、災害現場に近い人が目撃したことをいち早く伝えるなんてこともある。ジャーナリストが手間ひまかけて調査報道するようなことが、ネットではいともかんたんに実現できているように思うケースもある。

しかし、同時に「民衆による自発的なジャーナリズム」がそれほど理想的なものでないことも、いやというほどわかってきている。

その典型が少年犯罪の犯人探しだろう。報道各社が自主規制して報道しない事柄について、現場に近い人たちが情報を持ち寄り、個人を確定し、その周辺情報を集積する。これは公式チャンネルが提供する以上のニュース欲求に応える能動的なジャーナリズム活動であり、シブタニが流言現象について指摘した「補助的チャンネル」そのままである。

ここでは「民衆による自発的なジャーナリズム」が実現しているにもかかわらず、ジャーナリズム論的にこれを素直に評価できるだろうか。

このプロセスでは、報道各社があれだけ気を配っている人権の問題が顧慮されない。偏見に満ちた憶測やまったくの事実誤認や思い切りだけがよい断罪が横行し、だれもそのウラをとれないまま放置されていることが多い。そもそも「ウラをとる」というジャーナリズムの基本義務を遂行しなければならない職業的責任主体はいないのだ。


■メディア・ホークス

ジャーナリズム論では、こういう現象を「メディア・ホークス」(Media Hoax)と呼ぶ(渡辺武達『テレビ[新版]』三省堂、二〇〇一年)。問題点は少なくとも三つある。

第一に、意図的な情報操作に対して非常に脆弱な構造になっている。情報操作の手法としては、大量に情報を供給することで議題設定し、対抗言説を沈黙のらせんに追い込むことである。大量に書き込む人には注意しなければならない。自尊感情のための発言もあるが、特定の意図をもっている人たちもいる。それに対して読み手としては相当に批判的な解読力と吟味力が必要となるはずである。しかし、それにはそれなりのトレーニングが必要だ。

第二に、書き得効果が生じること。とくに発言の責任をとらせにくい匿名掲示板ではそうなる。あることないこと、さきに書いた方が勝ちである。たいていの場合には、それなりに見識のある発言がなされて、誤った憶測などは整理されていくようであるが、ゲートキーパーの不在による無編集情報であるから、憶測や誤報が放置されることも多々ある。

それからプライミング効果と言うのだが、ニュースは第一印象が非常に大きい。湾岸戦争時の油まみれの水鳥の写真が「フセインの環境テロ」の象徴として報道されてしまうと、その後、それが違う経緯で油まみれになったものだとわかったとしても第一印象は変わりにくいのである。掲示板などでも前から順にスレッドをたどると、最初に断定されたことには書き得効果が生じる。これを味わうと、何度もこの効果をねらう人がでてくるのである。

第三に、人権侵害と偏見の助長が生じていること。「人間は認知的倹約家であり、印象形成に要する時間を節約するため、非常に素朴なステレオタイプや社会的カテゴリーを常に利用している。」(ウォレス、前掲書、七三ページ)これは自他ともに言えることだろう。ネットの言説世界は、少数派にとって非常に肩身の狭いところでもある。マッカーシズム的な発言が延々と続く。社会心理学では「脱制止効果」といって、モデルとなる人が恐ろしい活動や常識はずれな行動あるいは反社会的行動を取ったさいに何の制裁も不利益も受けないことを目撃した人たちは、以前には抑制していたそのような行動を起こしやすくなる。つまり、そういう行動への歯止めがなくなってしまうのだ(徳岡秀雄『社会病理を考える』世界思想社、一九九七年)。ネット上で「声の大きい人」が露骨な差別表現をおこなっても抗議や非難がされないとわかると、他の人びとも一線を越えて当然という雰囲気が醸成される。そうなると、いわゆる「便所の落書き」的現象が横行することになる。そういう場所は多い。


■彩なすネットの言説世界

以上、ネットの言説世界の構造を「流言」「マス・メディア」「ジャーナリズム」の観点から一覧してきた。これらの既成の観点からネットを見ることの妥当性は、ひとえにユーザーたちが、新しいコミュニケーション・メディアであるネットを、これまで慣れ親しんだ古めかしいメディアやツールとして使っていることに由来する。かぎりなくマス・メディアに近い領域があるかと思うと、かぎりなく流言に近い領域があり、それがときにはジャーナリズム機能を果たすといった具合である。ネットにまつわる新奇性の神話をいったん捨ててみるべきだと思う。

このことは「予言の自己成就」という現象に根拠をもっている。一度人びとがある状況に対して何らかの意味を付与すると、その後の行動やその結果は、その付与された意味によって規定される。つまり、「そういうものだ」と思って人びとが行動することによって「そういうもの」になってしまうということだ。これは、ネット先住民文化においても、あるいは現在の彩なすネット言説世界においても、同様のロジックが作動していると見てよい。

ところで、メビウスの裏目は表目でもある。本章ではおもに否定的な事態を想起して書いてきたが、これらのことがそれなりにうまく運んでいる場所も多い。技術的なテーマや趣味的なテーマや環境問題のように特定のコンセプトをメンバーが共有している場所では比較的ネットらしい成果を上げている。裏目になるか表目になるかは本質的に微妙である。

それにしても、表目という好循環と、裏目という悪循環を決めるのは、いったい何だろうか。双方向メディアなのだから、一部の書き手だけでは決定しない。

ポイントはふたつあると思う。第一に、ネット上の場所に集ったメンバーの資質。第二に、その集団の特性。したがって、ネット上に好循環をつくり、公共圏的な言説世界にもっていくためには、メンバーの資質を高め、それなりの集団形成を意識的にしていかなければならないのである。かつてはネット自身がそういう人や集団をはぐくむ機能を強力にもっていた。ネット先住民の人たちはみんな「そういうものだ」と思っていたからだ。しかし、今はちがう。そういう理念的モデルは孤島化している。

では、どこに希望があるのか。どこが要なのか。

ネットが市民を育てる力を失っているとしたら、それはあえて「教育」しなければならないだろう。それゆえ私は「情報教育」にこそカギがあると考えている。ところが話はそうかんたんではない。

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