野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)
第三章 情報教育をほどく──インフォテックの包囲網
¶一 高校情報科という節目
■再生産モード
日本語圏のネットにおいて二一世紀初頭は大きな節目にあたる。おそらく大きな環境変化がこれから生じることだろう。
その有力な分岐点となりそうなのが、二〇〇三年から高校で「情報科」が始まることだ。このまま行けば、日本語圏においてネット文化はこの年から本格的な再生産モードに入る。取り組み方しだいでは、ここを境にネット文化は(良くも悪くも)大きく変質する可能性がある。
そもそも、ある特定の文化現象が一過性のものから継続性・蓄積性のあるものに移行する瞬間は、「それ」が再生産され始めたときである。つまり、教師たちが生徒たちに「それ」を教え始めるとき、人びとを魅了した文化現象は新鮮味を失い、既定性を帯びた常識になる。ベンヤミンが「アウラの喪失」と呼び、ウェーバーが「カリスマの日常化」と呼んだ、あの興ざめの時間に似て、集合的沸騰の記憶もやがて陳腐なクリーシェになってしまうであろう長い時系列が、ネット文化にも訪れようとしている。それが新しい躍動的なネット社会への扉になるのか、それとも、退屈に停滞する管理社会への扉になるのか、今はわからない。しかし、憂慮すべき兆候はすでにでている。
■情報教育は理科教育か?
二〇〇三年「情報科」導入に備えて現役教員の研修が本格的に始まっている。数学や理科の教員に「情報科」の免許をとらせるためである。すでに一部の大学では「情報教職課程」が設置され、頭打ちになった教職免許市場における救世主的存在として各大学から注目を浴びているところだ。準備は着々と進んでいる。
では、じっさいにどのような教育がこれから始まるのか。多くの方はご存じないと思われるので、かんたんに紹介しておこう。
手元に現役教員の研修用テキストのコピーがある(情報コミュニケーション教育研究会編著『先生のための教科「情報」マニュアル』日本文教出版、二〇〇〇年、非売品)。約一万部が配布されたという、情報教諭速成マニュアルである。全体は一五章にわかれている。主要項目を付して、ざっとリストアップしておこう。
1 情報科教育法(指導計画・実習などの考え方)
2 職業指導概論(人材像と就職指導)
3 情報化と社会(情報化の歴史、産業界の情報化、著作権、情報倫理)
4 コンピュータ概論(ハードウェアとソフトウェア、データ通信)
5 情報活用の基礎(コンピュータを介したコミュニケーション)
6 情報発信の基礎(プレゼンテーション)
7 アルゴリズムの基礎(アルゴリズムとは何か)
8 情報システムの概要(情報処理システムの技術)
9 モデル化とシミュレーション(モデルの効用、数理的解決)
10 情報検索とデータベースの概要(データベースの仕組み)
11 ネットワークの基礎(ネットワークの設計運用管理)
12 コンピュータデザインの基礎(知覚における見え、造形の数学的基礎)
13 図形と画像処理(2次元図形と3次元図形、画像変換)
14 マルチメディアの基礎(作品制作)
15 総合実習(CG作成アプリケーションの利用)
当初のふれこみでは理系・文系の枠をこえた新しいカリキュラムとして「情報科」が構想されていたはずだが——そして、このテキストにおいても随所でそのような配慮が指摘されているのではあるが——それにもかかわらず、じっさいの構成としては、一目瞭然、これは理科教育の新しい領土の開拓である。
■情報処理教育への収束
物理や化学が完全に生徒たちからそっぽを向かれ、高校での科目選択制によって、基礎的な科目を高校時代に修めないまま理系学部に入学する時代である。私自身、長年、理工系学部で教えてきたので、理工系教員の嘆きが年々深刻化するのを見てきた。高校までの理数系教育はかなり危機的であると言えるだろう。今回の「情報科」設置は、インターネットを追い風にした、その起死回生策として期待されているのではないか。これが「情報科」のプログラムを見ての最初の感想である。
要するに、私たちは、学校での情報教育が、インターネットの驚異的展開によって再編されつつあるネットワーク社会を生き抜くための知識と知恵を教育してくれるものと信じているが、じっさいは必ずしもそうではないということだ。インターネットとその文化は「おいしい話」として掲げられるだけで、学習内容の大半は情報工学ないし情報科学の伝統的な思想に基づいた技術的基礎知識が占めている。
じつは、最新の情報科学そのものは、最近の傾向を反映して文化学的に拡張されつつあって、そうしたものを「情報学」と呼ぶようになっている。本書の立場もこれである。しかし、現在進められている「情報科」のカリキュラムは、この新しい「情報学」の立場というよりも、むしろ純正(?)コンピュータ・サイエンスが主張を強めたかっこうになっている。つまり、古式ゆかしい情報処理教育である。まるで時間がインターネット以前に逆戻りしたかのようだ。
■ないないづくしの情報教育
そのため、時代錯誤なところがいっぱいあるし、すぐにでも市民的実践力となりうるような情報関連能力の開発について熱意めいたものがきれいに脱色されている。
たとえば、私たちがインターネット文化との出会いにおいて心を動かされた、あのオープン・マインドがない。「コンテンツの時代」と言われて久しいのに、情報機器という「入れ物」の話ばかりで、具体的に中身(コンテンツ)を検討する話がない。だれもが発信できるメディアとして画期的と言いながら、基礎的ツールとしてのエディタの話や、ウェブの公開と更新に不可欠なHTMLの話がきわめて手薄である。もっぱら(高価な)アプリケーション依存型のユーザーを育てたいようだ。したがってシェアウェアやフリーウェアの紹介もない。また、そうしたツールの背景にあるネットの文化的側面について理解させる意欲が希薄である。そもそも現在の情報環境を歴史的産物としてメディア史的に理解しようとする視点がない。技術中心主義まるだしである。
さまざまな人びとの出会いと交渉の文脈で立体的に「情報」を捉えるとすれば、ユニバーサル・デザインと呼ばれる一連の情報支援技術(障害や老化などに対応した工夫)をもっと強調してよいはずであるが、さらっとしたものである。多様な人たちがさまざまな意図によって発信しているコンテンツに対する批判的読みのトレーニングについても、まったくする気がない。そもそもケータイ系端末とのつきあい方への言及がない。また、じっさいに発信者となったときに、どのようにふるまうのが適切なのか、その表現技法(実用文の書き方や国語的側面)の手ほどきをする気がない。これでは、たとえ教育そのものが首尾よく進んだとしても、交通規則を知らないメカ好きの乗った暴走車をネットに大量に送り込むようなものである。
要するに、およそ「インターネット的」なるものが排除されているのである。それは「イントラネット的」というべきものか、あるいはインターネット以前の古式ゆかしい工学的「情報システム」指向そのものである。こんなものを今ごろ高校教育でやってどうするのだろうかと思う。じっさい、このようなコンセプトの教育内容では、有効な授業は成立しないだろう。
■情報教職課程の問題点
こうしてITの掛け声とともに情報教育はたんなる技術教育あるいは理科教育の一分野に矮小化されつつある。それは個人の豊かなコミュニケーション能力を育てるためというより、国家レベルでの国際競争力・産業育成のためということで正当化されるのであろう。
しかし、そもそも情報教育のスタンダードをだれが決めるべきなのか。情報教育の目指す文化目標は何か、人間像はどのようなものか。当初打ち上げられた理想像は、現実の施行過程においてなしくずしに技術中心主義に変質しているのではないか。
それは教える先生の養成についても当然同じである。つまり「情報科」教職もそういう文脈で見なければならない。教職課程高校普通科「情報」担当教員は以下の六項目についての科目を修めなければならないとされている。
(1)情報社会および情報倫理
(2)コンピュータおよび情報処理
(3)情報システム
(4)情報通信ネットワーク
(5)マルチメディア表現および技術
(6)情報と職業
しかし、私が見聞した一ダースほどの大学の教職課程カリキュラムを見ると、主流をなす理工系学部では(1)と(6)はきわめておざなりになっている。申し訳程度にそれぞれ一科目を設置しているところが多かった。スタッフもまた限りなく工学系に近い。逆に、文系学部でのカリキュラムは、それなりにバランスをとろうとしたところが多かった。その結果、情報処理関連科目を大幅に強化している。結果的に「情報科」教職の実態は、工学的な「情報処理科」教職になっていしまっている。どうしてこんなことになるのか。
¶二 インフォテックの政治と経済と教育
■だれが「情報」の専門家なのか
そもそも目指されているのは「ネット文化の再生産」などではないのだろう。あくまでも「情報技術ユーザーおよび情報処理従事者の再生産」なのである。
言論の自由、情報の自由な流通、コミュニケーションの相互性、プライバシーと人権の尊重といった民主的社会の基本理念を前提として「情報」とのつきあい方を学習させるといった程度のことができないのは、要するに、依頼すべき専門家がまちがっているのだ。実務担当になった情報処理の専門家は「情報」のごく一側面についての専門家にすぎないのであって、より広く情報学の専門家やメディア研究者の知恵を集結すべきだと思う。もっと現実環境と向き合う形の教育をするべきではないか。ともあれ、オウム事件の教訓はまったく生かされていない。
今一度確認しておこう。「情報」の専門家が「情報処理」の専門家でなければならない必然性はない。必然性はないのに、あたかも自明であるかのように事が進行している。冷静に考えればわかることがわからないのは、それらが特定の文脈の中に置かれているからである。それは次のような文脈である。
■インフォテックの政治
インターネット・ブームと呼ばれてしばらくたち、それが一過性のものでないことが誰の目にも明らかになったとき、今度は政府の音頭で「IT革命」と呼ばれることになった。
インターネットはたしかに情報技術ではあるが、そこには初期の開発場面から市民主義的な文化が付随しており、むしろインターネットが実現するオープンな市民的コミュニティこそが画期的だったはずなのに、いつのまにか主題が「情報」しかも「技術」にすり替えられている。ここには一方でインターネット的な文化世界の魅力を喧伝しながら、内実においてはその文化的側面に立ち入らず、「コミュニケーションの生々しさ」を脱色しておこうという意図が感じられる。だから無難な「情報」と「技術」に限定されてしまうのだ。ここでセオドア・ローザックの次の指摘がきれいにあてはまる。「情報は、無邪気なよそおいをしているので、目的をできるだけ隠しておきたいと願っている技術主義的な政治的代理人たちにとって格好の出発点となる」(セオドア・ローザック『コンピュータの神話学』成定薫・荒井克弘訳、朝日新聞社、一九八九年)。
政策的に情報技術産業の活性化をねらおうとしているのははっきりしている。沖縄サミットにおいて明確にスタートを切ったこのような「絞り込みの戦略」が政治的なものであることは言うまでもない。これは提唱者たちによって「IT革命」と呼ばれているが、ここでは距離をとって、あえて「インフォテックの政治」と表現し直すことにしよう。
■インフォテックの経済
ひとたび「インフォテックの政治」が始まると、今度はどんなに無縁でいようとしても、上から予算や補助金などがついてきて無視できなくなるし、予算の費目にしばられて、しばしばちぐはぐな設備投資がおこなわれがちになる。こうなると、ネットワーク管理者が雇用され、ときには億単位のシステムが導入されたのに、じっさいにそれを使いこなして文化の創造的局面を開くようなものにならないケースがたくさんでてくる。一時期「だれも使わない滑走路のような農道」が批判されたことがあったが、それとまったく同様に、いったいだれのための投資なのかわからない、結局は付け焼き刃の景気浮揚策にすぎないのではないかと思うケースも散見されるようになった。これは今後急速にふえてくるにちがいない。どの企業も過剰投資を控えている時期なのにふしぎなことだ。
いささか否定的に語れば、「インフォテックの経済」とは、このようなものである。そして、たしかに経済はそれをテコのひとつにしようとしているかに見える。今どきのベンチャー企業で「情報」と無縁なものはほとんどないだろう。大手企業も本格的に「インフォテックの経済」を展開している。キーワードはここでも「IT」である。
■インフォテックの教育
このようなインフォテックの政治と経済の中に私たちの生活がある。それはそれで悪いことではない。問題なのは、何といっても教育現場への導入(すなわち、これから始まる「インフォテックの教育」!)である。
私たちが今きちんと点検しなければならないのは、教育界への情報教育導入が、このような文脈の中で進められているということだ。手短にまとめれば、インフォテックを使いこなせる人材の育成と、インフォテック市場の拡大と底上げのためということになろうか。インフォテック関連産業を担う人がいなければ国際競争力はつかない、インフォテックを使える人がいなければパイは大きくならない、だから公教育で育てていこうという発想である。おそらく経済効果の計算においてそれはひとつの策なのかもしれない。必ずしも正しいとは限らないが。
しかし、それは教育理念として正しいのか。かつてのLL教室やニューメディアの二の舞になりはしないか。掲げられた目的と異なることが実際におこなわれる可能性はないのか。本格的な情報教育が始まる今、それを批判的に考察し、かつ建設的に構想する必要があると思う。
コミュニケーションの生々しさ、対面的な人間関係、個人としての未熟さが「教育」という領域の本質的構成要素である。この点が「政治」や「経済」との大きな違いである。このようなダークサイド的側面(同時にきわめて人間的な要素)がむしろ主役となるにもかかわらず、この荒涼たる教育計画に、そうした配慮が欠けているのはなぜか。
■情報教育という名の植民地化
高校での情報教育についてはこれから始まるのであるから、現時点ではこれ以上論じようがないけれども、先行組として大学での情報教育の実態を参照して、この点について考えることはできる。
大学の情報教育に関しては、じっさいには情報処理学会を中心とする情報工学系の専門家集団が覇権をにぎっている。これが結論である。
たとえば、大学の教養課程や経営学部に「情報」を冠した改組がおこなわれて情報工学系の専門家が大量に流入するようになった。たとえば「社会情報学部」や「経営情報学部」といった名において教養・社会科学・人文学系の学部の情報工学化が現在進行している。一見すると、ユーザーにとってのローテク技術であるインターネットがコンテンツにおいて理系と文系の「二つの文化」(C.P.スノー『二つの文化と科学革命』みすず書房、一九九九年)を統合するかに見えるけれども、従来の工学部や情報科学部に新たに社会学者や哲学者が加わることはめったにないのだ。結局は情報技術分野の専門家支配が構築されつつあるということだ。専門家支配とは、もともと医療社会学の概念で、医療において医師が絶対的な権力を正当に行使できる状態を指す。つまり、情報教育の名の下に、文系教育において情報工学による植民地化が進んでいるのである。
すでに述べたように、現在「情報」担当教員の教職課程が大学に新設されつつあるが、このまま推移すると、情報教育の工学化は決定的なものになるだろう。情報処理学会やその周辺領域学会の政治力には舌を巻かざるを得ない。自ら市場を作り出す情報工学帝国主義である。逆に言うと、非工学系の学会がなすべきことをしていない(つまり「政治」に参加していない)のである。
情報教育を情報処理に矮小化して理解する専門家たちが、そのようなものとして情報教育を設計し、現場教育を担っていくことになれば、インフォテックの教育が支配的になる。そしてだれもそれをおかしいとは思わなくなってしまう。
■巻き返しとしての情報工学的転回
現に、ここで私が「情報工学帝国主義」による「植民地化」といった表現を、やや過激に過ぎると感じる方がおられるかもしれない。だとすると、すでに既成事実と化しているのかもしれない。
なぜこういう事態になるのかというと(あるいは「至極当然のこと」「何がわるいのか」という反応になるのかというと)、これらの動きは情報処理専門家たちにとって一種のリベンジだからである。あくまでも「巻き返し」として、インフォテックの政治と経済が支持され、その上に情報教育が担われているのである。
ここで再確認しておこう。当事者をふくめて一般には、情報科学やコンピュータ科学を十把一絡げにしているが、それは誤りで、内実の思想は二極の対立的な理念的モデルに分かれている。つまり情報科学の専門家集団は、その志向性において大きく二つに分けて見ることができる。
ひとつは情報システム系である。かれらにとってプログラムを組むことがこそが仕事であり、大型の情報システムが相手である。これが伝統的な情報処理専門家集団である。これに対してインターネット系の専門家集団が急速に大きくなってきた。かれらは専門家として一時期不遇であったが、一九九〇年代に一気に力を得た。すでに述べたように、かれらは文化的に特徴的なオープン・マインドを共有していたので、行動様式や価値意識において寛容でフレキシブルな傾向がある。かれらが大公開時代を下支えした人たちである。今日、「情報学」という研究運動もおもにこちら側の専門家たちがメディア研究者とともに牽引力となっている。
かつては「ルーズすぎる」としてインターネットに冷たかった旧来の情報工学主流派はその後、方向転換し、今ではインターネットに積極的に参入している。かれらがそのさい強調するキーワードが「セキュリティ」と「情報教育」なのである。そして両者は連動しているのだ。
■セキュリティと情報教育
もちろんセキュリティは大事である。健康が大事なのと同様に、これはだれも否定できない。ちょうど医療者集団が病気や死のリスクを楯に人びとを近代医療システムに取り込んできたように、リスクをキャンペーンして人びとを囲い込むのが伝統的な専門家集団の常套手段である。その結果が、一気に進んだイントラネット化、そして何重にも封印されるデータ、外から見えない・外に出ようとしない高価なだけのクローズド・システム——しかし、だれも使わない。使われなければ事故も起きないというわけだ。これらは、たんにセキュリティ重視で設計され構築されているのではない。累積された事なかれ主義の産物という側面をもっている。そして、専門家集団特有の行動様式と態度が濃厚に反映している。広い意味での「セキュリティ管理」という名の管理思想が制度化されつつある、と言っていいだろう。
しかし、そのシステムが一般ユーザーにさかんに使用されるとなると、問題は頻発する。
たとえば次のような文章がある。「システムを取り巻く要素で最も脆弱な要素が利用者、特に、一般の利用者である。[中略]この意味で、利用者を適切に教育し、セキュリティに対する意識を高め、さらに、適切なツールやアプリケーションを使うように指導することで、利用者が一種のセキュリティホールになることを防ぐことが可能になる。」(林紘一郎ほか編『IT2001——なにが問題か』岩波書店、二〇〇〇年)
「身体にフィットしたファッション」ではなく「ファッションにフィットした身体」を指向するのと同様に、「ユーザーにフィットしたシステム」ではなく「システムにフィットしたユーザー」が指向されているのをここに見ることができる。情報処理専門家集団の人間観をはからずも表す表現である。情報工学が「教育」を必要とする文脈はここから生まれる。
「高度情報社会が絵に描いた餅にならないようにするためにはユーザー教育が必要である」といったような言説は、一見して「よい傾向」のように見えるかもしれない。あるいは教育という限定された領域の話のように見えるかもしれない。しかし、その内実においては、このように倒錯した意識をはらんでいるのである。
¶三 すれちがう情報教育と台無し世代
■情報教育の矮小化
大学での情報教育の話を続けよう。
大学が情報教育のためにシステムを導入したのちに経験することは、だいたい決まっている。まず、マシンやネットワーク(しばしば不必要に高価なものであったりする)を運用できるノウハウがない。管理する側の学習コストを考えずに導入するために、負担が一部の人に集中してしまう。しかしネットのできごとは、ほぼ現実世界と同じだけ複雑で多彩である。「情報担当」だけで担えるものではない。そこがこれまでの改革と異なるところで、組織全体が「情報担当」にならざるをえないところがあるのだ。ここがなかなか事前に理解されない。
もちろんコンピュータ教室の管理をする専門部門が設置され、こまかな設定運用について外注業者が担当しているわけだが、それはあくまでもインフォテックの側面だけである。それを使用して、つまりパソコン教室やLANを使用して、「何を」教育するのかという点になると、インフォテックな情報処理系教員しかいないのである。特定のアプリケーションやプログラムの実習に矮小化されてしまうのは当然の流れである。他の教員は自分は無関係だと思っている。じつは、これが最大の問題なのかもしれないと私は考えているのだが、これは、ちょうど英語教育において理科系学生が英文学出身の教員にディケンズを教わるのと同型の事態である。
■台無し世代の学生文化
他方、インフォテックで教育される人たちはどうなのか。
そもそも九〇年代後半以降、最も大きく変容したのは学生像である。本質的にはそれまでと連続する部分があるのはたしかだが、以前は「さまざまな学生」半分プラス「談合体質の学生」半分という割合だったのに、今は二対八という印象である。良くも悪くも個性があって、その行動も多種多様な学生が、今ではすっかり少数派になっている。つまり個人として動く学生が少ないのだ。多数派は集団として動く。「みんなといっしょ」でないと不安でしようがないらしい談合体質のこの学生たちを、私は「台無し世代」と呼んでいる。基本的にソツなく要領も心得た人たちなのであるが、根本的に知的土台がないということ(とくに言葉を理性的に操作する能力の欠如)と、談合的集合行動によって教育的配慮を台無しにするという、二重の意味を込めている。もちろん先頭集団は団塊世代のジュニアであるから、ゴロも合わせているのだが、ともあれ、この人たちにとってネットとはどのようなものなのか。この点について私はかなり否定的な感想をもっている。
日々学生とつきあっていて感じるのは(最近は情報教育科目を担当して痛感するのは)「若い人は柔軟で、新しいものにすぐに適応できるし、機械にも強い」というのは時代遅れの迷信だということだ。「若者はマニュアル世代」というのも今ではまったくの迷信で、基本的にクチコミ依存型で保守的である。メディア史的に見ても、一九八〇年代以降のメディア利用のパターンがそれであって、新規メディアの普及において若者は最後に登場し、しかもマーケティングの対象として登場する。カラオケの場合がまさにそうだったように。
だからパソコンでもインターネットでもなく安直なケータイ系端末に集中するのも無理はない。「インターネットのすばらしい世界へ招待しよう」とコンピュータ教室に学生を集めて授業しても、そもそもメールもコミュニケーションもショッピングもケータイでそこそこ間に合っている。
■情報科目の外で
コンピュータを使用しない通常の授業ではどうだろうか。
たとえばレポートが出ると学生はまっさきにネットで検索して「あった、なかった」と判断する。こちらのねらいは図書館の参考図書を利用して基準的な文献を探してそれを読むことなのだが、そういうことをしなくても何とかなってしまうのである。できればウェブ上でテキストデータをゲットしたい。それだとカット・アンド・ペーストでレポートができてしまうからである。つまり、本ではめんどうなのである。こちらとしては、剽窃にならないように出典を明記し、引用と地の文を明確に区別するという作法を強調しているのに、台無し世代はその正反対にはまってしまう。これでは、可能なかぎりオリジナルなソースにあたるという学問の基本からますます遠ざかることになる。情報の吟味こそ課題なのに、ただたんにそれをテーマにしているというだけでペーストして、自分が書いたことにしてしまうのである。こうしてすべてが逆立ちしてしまう。
他方、学生間のローカルな情報交換はもっぱらケータイで進む。ケータイは完全にクチコミのメディアである。「みんなといっしょ」であれば「台無し」のままでも何とかなってしまう。
要するに、きわめて内向きのローカルな利用しかされていないということだ。大学が期待するような外向きのグローバルな利用とはほど遠い、安直な情報主義に学生が陥っている。
この背景には、社会全体の安直な情報主義(インフォテックの政治と経済)があるわけで、まさにそこに「台無し」の社会的必然性があるわけだが、大学が無邪気に進めているインフォテックな情報教育がそれに輪をかけているのである。本の読み方、図書館の使い方、マス・メディアを批判的に吟味するためのメディア・リテラシーなどを抜きにしてインターネットを教えることのリスクを想起すべきである。かれらは本を読んだことのない「台無し世代」だということを忘れている。ほんとうに新書本一冊読んだことのない学生が多数実在するのだ。
たとえば、真実がひとつでない社会科学。さまざまな解釈があり得る人文学。パラダイムの相剋する社会学ではなおさらだ。それだけに自学自習的な個性的反応を尊ぶ気風があった。拙くてもいいから、自分のフィルターを通過させて、自分なりに頭を使って知識を再構成する。できればフィールドに出て自分の足と目で観察すること。これが人文社会科学の学習のポイントである。しかし学生たちの談合的集合行動の下では、それは以前よりいっそう遠い目標になってしまった。
■学生文化と技術的管理の悪循環
やはり知識や情報に対する批判的素養というものが教育されてきていないのである。考えてみれば、新書本を読んだこともない学生たちが、情報の質を吟味できるわけがない。新聞を較べ読みしたり図書館でちょっとした調べものをした経験がなければ、知識の信頼性について考え及ぶわけがない。そうした自己教育が望めないのであれば、それはあえて教育しなければならない。しかもそれはパソコンを前にした検索実習だけで教育できる代物ではないだろう。もっと総合的な学習とトレーニングが必要だ。
そうした現実を少しでも打開しようと、学生たちに自由に情報施設を使わせて、自学自習効果を期待する。これは当然の流れだ。しかし話はそれほどかんたんではない。たいていはトラブルが続出するからである。その対処療法として情報倫理が徹底されるものの、それだけでは守りきれないシビアな状況に対応するために、当初はルーズであった運用が年を経るごとに硬いものに変更せざるをえなくなるという現実がある。
もともと情報システムには「管理」がつきものである。すでに見てきたように、人間をセキュリティホールと見なす発想さえある。情報システムは「情報システムにふさわしい人間」を求める。そうでないと仕事がふえるからである。これが現場での理念的モデルになっている。
考えてみれば、これはガバメント原理(上からの統治)そのものである。インターネット・コミュニティが育んできたガバナンス原理(下からの自発的構築)と対極にあるものだ。こうして、大公開時代に多くの人たちが経験したインターネットの魅力的な社会原理は、日本の教育現場においては排除される傾向が強く、その対極的な管理思想に浸食されていることが多いのである。
■問題としての情報教育、転機としての情報教育
情報への感度のにぶい学生たち、そしてそれに対して事なかれ主義へ傾斜する技術的管理。この両者が相互作用すると、時間・空間・目的のいずれにおいてもきわめて限定的な情報(処理)教育にならざるをえないだろう。これでは、とてもネットに好循環をつくりだすような資質や集団を育てることはできない。つまりネットはますます裏目をたどるようになってしまう。
そもそも「情報教育で何を教えるのか」ということ自体が誰にもわかっていない。
たんにコンピュータを操作できて、特定のアプリケーションに習熟すればいいというわけではないはずだ。現におこなわれている矮小化された特定の能力開発ではなく、たんにビジネスに応用するのに満足するのでなく、大学人は情報教育を理念から構想して、情報教育のあり方を具体的に模索する必要がある。高校情報科の開始によって、大学の情報教育も早晩「底上げ」を迫られる。どのように「底上げ」するのか。安直にインフォテックで行くのでないとすると、これは案外難問であることを知らねばならない。
というわけで、次世代インターネットの大問題は、ネットワークインフラの問題も新プロトコルの登場もさることながら、ネットを含む情報環境に対する人びとのコミュニケーション能力をどのように育てていくかなのである。次世代インターネットのありようを左右するのは情報教育である。ここが転回軸なのだ。
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