野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』文化書房博文社、1994年。
序論(3)反省のことばへ
当事者の責任
臨界の兆候として述べた四点の問題は、いずれも問題の当事者にとって多少の痛みと不快感をともなうかもしれない。だれも自分を傷つけることばにはふれたくないものである。ふれたくないから放置される。あるいは「現場を知らないからいえるんだ」とか「ほっといてよ」と反批判したくなる。そうでなくても何かしら説教じみたものを感じてしまったり、あるいは逆に、それを指摘する側の傲慢さを非難したくもなる。
なぜか。答はかんたんである。これらが問題の当事者の「責任」を問うているからである。つまり、自分は一種の被害者として免責されるとさえ考えているのに、そうではなくて一種の加害者──つまり主体として責任のある人間──であったことを今さらのように突きつけるからだ。
たとえば、棄権した有権者は棄権の理由を政治の腐敗に求め、本当の責任者は政治家たちであると思っている。私語する学生たちは、劣悪な施設のなかで、教育不熱心な教員の講義を、ただ単位認定のためだけに聞かなくてはならない自分たちを、むしろ被害者と考えがちである。加害者は、学生へのサービスを怠っている大学当局と、教授技術を工夫せず単位をちらつかせることしか能のない教員たちということになる。では、企業労働者はどうか。どう見てもフェアでないことをしなければならないときが企業組織のなかではしばしば生じる。正常な市民感覚に基づいてそれを拒絶することはできない。仕事上の能力が疑われかねないし、人事考課にも大きく響くからだ。何より「会社のため」にやることなのであって、私利私欲を肥やすためではない。多少は自嘲ぎみになるかもしれないが、それでも、困難な仕事をやりとげたという誇りの方が勝るのであって(社内評価がそれをバックアップする)、よしんばそれが事件になって自分にいっさいの責任が押しつけられたとしても、「会社の犠牲になった被害者」としてふるまうことになろう。最後に医療関係者はどうか。医療現場はとにかく忙しい。医師や看護婦が懸命に働いているのはまぎれもない事実である。しかし、パターナリズム(権威ある父親が無力な子どもたちを守るように配慮してやること)の支配的な医療現場において、医療従事者とくに医師の権限は肥大しており、その責任を分担できる当事者は他にいないのである。
外在的批判から内在的反省へ
すでに各項目について指摘してきたように、これらの社会的問題に見られるのは、自己反省の欠落であり、主体としての自分たちがいないという意味において一種の主体性の空洞化である。つまり各問題とも、たしかに外在的批判はあるのだが、責任ある当事者の内在的反省がないために、事態がなかなか改善されないできた。しかし、すでに論じておいたように、これらは肝心の当事者の反省が問われている問題であることが近年明確になってきたわけであり、「臨界の兆候」と呼んだのもそのためである。
外部からはよく見えることが、内部では見えない。それゆえ、外部からの批判に対して内部ではそれを不当と見なすことが多い。「現場を知らない者が何をいう」「当事者じゃないからいえるんだ」といった反応がそれである。いわゆる現場主義による反論である。しかし、現場主義は自己正当化に抵抗する反省的姿勢があってはじめて意味をもつ。なければ、たんなる利害に規定された関心にすぎない。ここに現場主義の落し穴がある。バッシングでもなく、また倫理や道徳あるいは「道義的責任」でもなく、自分自身に対する醒めた分析が必要なのだ。
たしかに「ことば」は氾濫している。しかし、わたしたちは、ほんとうに自分たちを知り自分たちを語るための「ことば」をどれだけ知っているだろうか。自分たちの日々の生活や行動がはからずも生みだしてしまうさまざまな副産物を、自分たちのものとして捉え切る「ことば」をどれだけ知っているだろうか。わたしたちの身のまわりに満ちあふれているのは、たんに「流通しやすいことば」にすぎない。わたしたちはこのことを自覚する必要があると思う。
反省のことばとしての社会学へ
社会現象にニュートン力学的な客観的法則や方向性などない。そう見える現象も、つぶさに見れば、自分をふくめた人間たちの主体的選択の集積なのであり、たまたまそうなっただけで、別のあらわれ方もありうる、という意味で「偶発的な」(contingent)性格をもつ。したがって、どんな社会現象も原理的に自分たちの責任において捉えることが可能なのであって、また、そのように反省的に分析することによって、べつの(オールタナティヴな)可能性を実現する道も開ける。「反省のことば」とは、そのような可能性を開示することばである。
本書では、このような「反省のことば」の重要性と、それを提供する科学として特別の重要性をもつ社会学について論じる。いうまでもなく、社会学は「ことば」である。しかも、社会学が用意するのは「反省のことば」である。しかし、現状ではそこが同時に社会学のわかりにくさにもなっている。おそらくそれは、人びとがあまりに「権力のことば」や「消費のことば」に慣れ親しんでしまっているために、すぐ役に立つわけでない「反省のことば」の意味が実感できなくなっていることによるのだろう。それは「ことば」に対する一種の感受性の退化の結果であるかもしれない。いや、「退化」というより、現実の社会の複雑性の方がはるかにわれわれの感受性を超えてしまっているというべきかもしれない。
これから考えていきたいのは、このようなことである。
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