『リフレクション』第一章 反省的知識の系譜(2)リフレクションの系譜

野村一夫『リフレクション──社会学的な感受性へ』文化書房博文社、1994年。
第一章 反省的知識の系譜(2)リフレクションの系譜

リフレクションの訳語

これまでわたしたちは、自分を度外視した客観的な技術的知識(情報)に対して、自分とのかかわりを重視する主体相関的な反省的知識(明識)の重要性について見てきた。そして社会学という知的営みが、じつは反省的知識に向けられていることを確認した。

さて、この段階であらためて確認しなければならないことがある。それは「反省」ということばである。わたしはここまで「反省」をほぼ日常的用法に準じて使用してきた。そのためとりたてて説明を加えることもしてこなかった。しかし、これから社会学の内部的議論に入るにあたり、このことばを概念としてきちんと対象化しておくことが必要だろう。

概念としての「反省」にあたる英語はreflection/reflexionである。社会学においてこの概念は、これまで「反照」「反射」「再帰」「内省」「反省」「自己反省」「自省(作用)」「循環性」などと訳されてきた。このことば、すこぶるありふれたことばだが、じつは概念としての歴史は長く、さまざまな意味と文脈で使用されてきた。このうちもっともポピュラーな訳語は「反省」であるが、概念としてさらに伝統のある哲学的文脈を例外として、概してこの訳語を避ける傾向がある。一方で「反省会」といった使われ方をする日常的な語感(押しつけがましさと偽善的ニュアンス)を回避したいためと、他方では、いささか古めかしい意識哲学などといっしょにされたくない、という研究者の思いがこうさせているといってよい。あるいは、この概念に格段の重要性を認める最近の研究では、研究史的な配慮やリフレクションの主体の問題などから「自省(作用)」を使うことが多くなっている。●18

本書では、このような訳語の多様性に対処するため、原則的に「リフレクション」を使いたい。しかし、形容的に用いたり合成語の処理などで使いにくい側面があるので、「リフレクション」の他に基準的な訳語として「反省」または「反省作用」をこれと互換的に用いることにしたい。しかし「社会の反省」といういい方ではたぶんに擬人法的なニュアンスが強くなってしまうので、この文脈では「自省」を使うケースもある。いずれにせよ本書では同じことをさしている。●19

訳語もさることながら、じつは原語そのものにもヴァリエーションがある。reflection/reflexionにそれぞれselfを冠する場合と、reflexivityを使う場合、さらにreflexivenessを使う場合もある。多くの場合、これらとreflection/reflexionとは区別されていない。たとえば、すぐこのあとで紹介する予定の社会学者ミードはreflectionとreflexivenessをほぼ互換的に用いている。●20したがって問題なのは、どの単語を用いているかではなく、どのような定義において使用しているかである。●21

リフレクション理論の四系譜

リフレクションという概念は、若干の例外を除けば、概して地味な存在だったといえよう。しかし、よく注視してみると、非実証主義的な社会学(自然科学の研究方法をそのまま社会の研究に持ち込むのは適切でないとする社会学の立場)●22において、あたかも通奏低音のように、理論の底流を一貫して流れ、その方向性を定めてきた概念であることがわかる。またそれはしばしば理論的動機であり研究を押し進めるエートスだった。その点では「黒子」のような概念である。ここで社会学におけるリフレクションのこれまでのとりあつかいをかんたんに見ていこう。ただし、本書の議論で利用するさまざまな社会理論を系譜的に概観しておくことがここでの目的であるから、個々の理論は、各章においてそれぞれの課題に見合う形でそのつど詳しく解説することにし、ここではさしあたりトルソー(頭や手足のない胴体だけの彫像)にとどめておくことにしたい。

思いきった整理をすると、社会学では、ほぼ四つの系譜においてリフレクションが直接間接に論じられてきた。

まず第一の系譜は、社会的自我論からシンボリック相互作用論への系譜である。社会学特有の──つまり哲学とちがって現実社会に関する経験的アプローチとして──リフレクション概念は、二十世紀初頭のアメリカ社会学におけるチャールズ・ホートン・クーリーとジョージ・ハーバート・ミードによる社会的自我の理論によって本格的に始まった。とくにミードは、人間的コミュニケーションの基本構造としてリフレクションの重要性を強調した最初の理論家である。本書の理論的枠組みも基本的にミードに負っている。

第二の系譜は「日常生活の社会学」である。現象学的社会学とエスノメソドロジーとドラマトゥルギーは、それぞれ独自の色彩をもっているが、一様に「日常生活」の理論的意義を重視していることから、総称して「日常生活の社会学」(sociology of everydaylife)と呼ばれている。これらはいずれも、ミード再評価とかかわりのある一連の理論系譜にあたり、リフレクション概念とかかわりも深い。

現象学的社会学の代表的存在はアルフレッド・シュッツである。シュッツは、マックス・ウェーバーの理解社会学を哲学的に(現象学的に)根拠づける研究から出発した人で、日常生活と社会学のあるべき関係を模索し、のちの世代に大きな影響を与えた。一方、エスノメソドロジー(ethnomethodology)の創始者ハロルド・ガーフィンケルは、日常生活者の知識そのものを探究することに焦点をしぼり、日常生活の現場における人びとの実践的な知恵──これが「エスノメソッド」(ethnomethod)──を肯定的に位置づけた。また、アーヴィング・ゴッフマンの微視的な研究は「ドラマトゥルギー」(dramaturgy)と呼ばれ、さまざまな状況における人間の行動をまさに微分するかのように分析した。

この系譜では、エスノメソドロジーがreflexivityを独自の定義のもとで使用しているのをのぞけば、とくにリフレクションおよびその周辺概念が前面にでることはない。しかし、いずれも、日常生活においてわたしたちが実践していながら自明のこととして気にとめていないような約束事を、まざまざと提示してくれる点で、社会学の明識性がはっきりでている系譜である。本書ではとくに日常生活における知識の役割についての議論で活用することになるが、この文脈で先駆的な仕事をしているゲオルク・ジンメルも忘れてはいけない。かれの業績には、その後の理論的洗練と分化によって見失われがちな「日常生活の社会学」の基本構図が骨太に素描されている。

第三の理論系譜は、反省社会学と批判理論である。反省社会学はアルヴィン・W・グールドナーによって提唱された。この場合のリフレクションはもっぱら社会学者の自己反省であり「社会学の社会学」(sociology of sociology)の性格をもっていたが、専門知識と日常的知識とを分離させないことをおもな主張点にしていたから、むしろ社会学者と一般の人とが協力して〈ともに〉反省するプロセスをめざしていると考えてよい。そして知的共同体に集まった自律的知識人の合理的討論によって人間解放の諸条件を探るというヴィジョンをもっていた。

もうひとりの理論家ユルゲン・ハバーマスはドイツのフランクフルト学派の理論系譜にある社会学者で、かなり初期からリフレクション概念によって「批判理論」(kritische Theorie)を精力的に構築してきた。その後、コミュニケーション論的構成を大胆に採用し、現在の社会理論に広範な影響を与えている。

なお本書の理論的動機は主としてこの系譜に基づいている。ただし本書では、リフレクション概念がこのラディカルな路線においてのみ議論されてきたとする主張には距離をとりたい。この系譜の理論家によって告発された社会学の方にもリフレクションの動機が存在すると考えるからだ。

第四の系譜は、社会システム論である。とくにニクラス・ルーマンは「自己言及性」「自己組織性」「自己主題化」といった概念を取り入れて、リフレクションに関する理論としては最大規模かつもっとも緻密な議論を展開している。さらに「構造化」論のアンソニー・ギデンスや「自己組織性」の理論を展開中の今田高俊も、この系譜に位置づけてさしつかえないだろう。本書ではこの系譜で展開された行為論を中心に参照している。

この他にもいろいろな意味で「反省的な」調査研究をしている研究グループもあるし、多くの哲学者たちも社会的文脈におけるリフレクションについて論じている。●23また本書においてはロバート・K・マートンのいくつかの独創的な概念もリフレクションの重要な通路として数えている。これらについては折にふれて紹介していこう。

以上のような学史的経緯のなかでリフレクションが論じられ育まれてきたのであるが、そこには、完全な意味においてではないにせよ、〈ゆるやかな共通了解〉というべき論点がいくつか存在する。そして、もちろんそれらの論点にこそ、他の概念ではなくこの概念でなければならない理由も示されている。ここで予示的にではあるが──そのため抽象的な記述にとどめざるをえないが──概略提示して、後論に備えたい。



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