2022年1月19日水曜日

授業の作品化と教育のメディア ──理論的意味と実践的解決のクロスロードで



授業の作品化と教育のメディア

理論的意味と実践的解決のクロスロードで


野村 一夫

國學院大學経済学部


【要 旨】

本稿は平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」で得られた知見をもとに「大学教育のメディア」の要件について総論的に考察をする。その上で「授業の作品化」の意義と問題について議論する。基本的な考え方は、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。巨人の肩の上で模倣を繰り返しながら学ぶ。その足跡をドキュメントとして記録して共有する。その場で終わるのでなく、それらを蓄積するメディアが大学には必要である。


【キーワード】

メディア制作、大学のメディア、教育のメディア、授業の作品化、クラウド


 

1.PBLとしてのメディア制作

本稿では、平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」プロジェクト(研究代表者・野村一夫)に基づいて「大学教育のメディア」について考察したい。このプロジェクトは数量的なデータを獲得するものではなく、特定の理論的作業仮説に基づいて実践的解決を試行したものである。本稿では、その両者の接続を主軸に総論的な議論を組み立てていきたい。高等教育において20世紀的な自明性が次々に崩れる時代、何にしても総論が必要な時代だという認識からである。

まず経緯をかんたんに振り返る。2004年から演習(以下「ゼミ」)を担当することになった。当時のゼミでは基礎的なメディア論を学ぶとともに、コンテンツ制作者の視点を獲得してもらうためにウェブサイトやブログを制作させた。しかし、それが定着することはなく卒論も低調であった。ゼミ生と相談した結果、雑誌制作がよいとのことで試作をしてみたところ成果物としてそれなりの手応えが得られた。そこで当時の「特色ある教育研究」に応募して編集環境を整備して毎年1セメスターを使ってコンセプト雑誌を作ることにした。これは10年続いた。コンセプトは毎年変わり出来映えも毎年異なるものであった。チームとしてのゼミは雑誌制作を中心にまとまり、その後は個別テーマ研究に移行してゼミ論・卒論へ向かうという基本線ができた。

ゼミは協働しての手仕事が必要である。よくある輪読形式はほとんど効果がないので放棄して、各自が拾ってきたテーマ素材(課題図書も含む)を見ながら議論する方向に寄せてきた。しかし10年もやっていると限界も見えてくる。第1にデザイン能力の限界。プロ仕様のAdobe InDesignを基本ツールに編集をしてきたが、やはりデザインの基本を勉強していないので「いかにも同人誌」になってしまう。私としては美術的なデザインではなく情報デザインに集中してほしいのだが、なかなかそうはならない。第2に基礎演習でのアクティブラーニングの採用をきっかけにして2つの決断をした。1つは扇型教授モデルの廃棄。もう1つはチーム単位での発信作業。いずれについても学びの機会を多くするために1学年のゼミ生を20人以上にしたことが背景にある。

メディア制作はメディア形式だけを決めておいて企画から完成までゼミ生で協働するPBLである。これを既存の研究(野村ゼミで「メガ読み」と呼んでいる事例研究)と統合できないかというのが今回の課題となっていた。さらにメディア論を対象としない他のゼミや授業に応用できないかということも強く意識していたポイントである。とくにアクティブラーニングを導入した経済学部1年生の基礎演習への導入を挑戦的課題とした。

今回のプロジェクトで新たに採用したメディア形式は、次のものである。

①トッパン・エディトリアル・ナビとオンデマンド印刷を組み合わせた新書本

②Facebookページを利用したラジオトーク

③LINEグループをイントラネットとして活用したワークフロー

じつはそれぞれ前史(あるいは試行的実験)があって本プロジェクトにおいて本格的に導入した。プロジェクト名に「すべてクラウドによる」と銘打ってはいるが、それぞれあえてアナログ感のあるメディア形式であることに留意されたい。とくに①は画期的なクラウドサービスで、日本語の冊子体がブラウザ上のみで編集できる。とりわけ縦書きがかんたんにできる点で貴重である。判型は文庫と新書のみであるが、もともと出版社仕様に開発されたクラウドサービスである。これだとレイアウトデザインを1からやらなくて済む。ほぼアウトラインプロセッサ並あるいはWordPress並である。主として電子書籍編集に使用されていたが、これとオンデマンド印刷をワンセットにしてもらって少部数印刷を実現した。高度なデザイン機能はないものの、テキストに集中したコンテンツを編集するのに向いている。USBメモリのようなリスキーなデバイスは編集行程においていっさい使用しないことにした。また、本プロジェクトでは1冊1冊作るたびに新しい挑戦をした。まず縦書きにするというのが編集上とても難しい。苦労があったとしたら、ほとんどが縦書きにするための編集上のノウハウに関するものであった。横書きであれば、数日で版下はできあがることも検証した。トッパンエディナビは学生でも操作できることもわかった。2016年初頭から2017年5月までに、このサービスによって制作した作品は以下の10冊である。教員名が書いていないのは、すべて野村の担当授業の受講者によるものである。著者(受講生)の名前は煩瑣なため省略する(写真1. 2)。

 写真1 写真2

①『女子経済学入門:ガーリーカルチャー研究リポート』私費による基礎演習Aの書評レポート集

②『渋谷物語』就職活動中の4年ゼミ生の自己分析からのスピンオフ

③『キャッチコピー越しの世界』3年ゼミ生のコンセプト企画

④『ベトナムの今を訪ねて』古沢広祐教授担当のフィールドワーク報告書

⑤『国学院物語計画』経済学部企画OBOGインタビューとそれを含む提案

⑥『基礎演習Aを全員で振り返ってみた』基礎演習Aの授業を新書に再現

⑦『渋谷において本はいかに扱われているか』基礎演習Bの企画リポート集

⑧『菅井益郎先生の8つの物語』3年ゼミ生によるロングインタビュー

⑨『地域おこし協力隊の課題と解決策』田原裕子教授担当のフィールドワーク報告書

⑩『すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究最終報告書』野村が担当授業の新書のために書いた解説や中間考察などをまとめて時系列で収載したもの。

第2に「ノムラゼミラジオ計画」があるが、技術的にはほとんど苦労しなかった。機材はiPhoneアプリ、公開はFacebookページで済んでしまったからである。問題はどのようなコンテンツに学生を巻き込んでいくか、それが学生にとってどのようなトレーニングになるかということである。学生の発信意欲はきわめて低く、自発的に何かを発信するということはない。それゆえ、それを引き出すメディア仕掛けが必要である。

第3のLINEによる進行はきわめてスムーズであった。過去3年間、ゼミとクラスの学生との連絡はLINEに集約させてきたが、学生のアクセシビリティが高い。クラスであれば入学式直後から連絡体制が組めて、きめ細かく指導ができる。「授業の作品化」もLINEの連絡体制が日常的に作動していたから可能であったとも言える。LINEグループのタイムラインの一部は上記新書シリーズの中でも引用している。

クラウド技術を使用するとは言え、内容は言語表現そのものである。それを記録して一定の範囲において非同期で共有することがポイントである。つまり教室でのアクティブラーニング体験だけで終わらせず「授業の作品化」までを目標に設定することに意義がある。文章表現まで一気に持っていくのである。これは大学においてどういう位置価をもつのか。次章では、その意味について大学全体のメディア・プラットフォームの問題から考えてみたい。


2.大学における5つのメディア

 今回のプロジェクトは、高等教育における「教育のメディア」について実地に検証をおこなうものであり、私が強い関心を持つのは「教育のメディア」だけである。ところが、じっさいには「教育のメディア」は教室の整備をして終わりというものではない。

そもそも大学は知識と情報のプラットフォームである。このことは、しばしば勘違いされているように大学が「発信者になる」ことではない。大学が「中継ぎに徹する」という意味で「プラットフォーム」より正確には「メディア・プラットフォーム」なのである。これをどのように整備していくかという問題がある。というのは、どこの大学でもこの点では混濁した認識が見られるからである。本章では、あえて大局的な見地から考えてみたい。

総じて、大学のメディア・プラットフォームはどうあるべきか。本稿では、これを理念によって5つに分割すべきであると考える。

①広報のメディア

②研究のメディア

③教育のメディア

④入試のメディア

⑤事務のメディア

これらを分割して考える理由を明確にしておこう。

広報のメディアは、大学のプレゼンスを広く知ってもらうためのものである。しかし、日常的にはグッド・ニューズ・オンリー・システムになる。大学にとって都合の悪いことは出せない。この場合「大学にとって」ということが大きな論点になる。つまり、その場合の「大学」とは何を指しているのか。それが特定の部署の都合のいいように御旗として使用されることの多さに私自身は辟易している。たとえば「大学にとって不名誉」という判断は、そうかんたんになされるべきではない。たとえば学生の不祥事が「大学にとって不名誉」かどうかは、全学の学生部委員会の慎重な議論によって定義されるのである。ところが広報のメディアに関しては、広報課とその周辺で「バッド・ニュース」として先行して判断されてしまう。広報はそういう原理で動くものである。とくに古い体質の広報はそうなのである。最近の企業広報は「バッド・ニュース」も伝える工夫をするようになっているが、ネットの対応のように、そう単純ではない。

研究のメディアは、研究内容と成果物を広く公開するものである。理念的に言えば、リポジトリのようにオンラインで世界中からアクセス可能でなければならない。完全な公開性をめざすなら多言語対応である必要がある。Googleなどの翻訳サービスは約100カ国語に対応しているが、これを活用すれば、ほんとうの世界への発信になる。それによって外国の研究者との交流も始まる。日本語だけでは不十分である。せめて論文のスタイルを世界標準に揃えておくことが前提であろう。私が編集長をしていた『國學院経済学』では『シカゴ・スタイル』に準拠するように変更したばかりである。スタイルが世界標準であれば、機械翻訳であっても、ある程度のことは伝わる。

教育のメディアについては、これまで十分に議論されてきたとは言えない。教育学系のメディア実践の論文はたくさん生産されているが、高等教育レベルのものでヒントになるものはほとんどない。たいていそれは教室内でのコミュニケーションにとどまって、しかも、あとに何も残らないからである。なぜなにも残らないかには理由がある。

教育のメディアの特徴は「教育現場を安全に公開すること」と「学生の成果物を安全に公開すること」の2つである。なぜ公開が必要なのかというと、関係者における成果物の共有が必要だからである。たとえば学生が提出したレポートを読むのは担当教員だけである。学生の友だちが何を書いたかも共有されない。情報共有のスタイルとしては、教員を中心とする扇型になる。全体を掌握しているのは教員のみとなる。これだと学生間でレポートについて語り合うチャンスはほとんどない。だから口頭発表が必須である。しかし、次の年にはつながらないから、また1からやり直しになる。それでは授業としての成長がない。じっさいに「これしとけば、いいんじゃない」みたいな先輩の言葉を鵜呑みにして縮小再生産になることが多い。研究と同様、年々、学生たちの成果物がレベルアップしていかないと高等教育とは言えない。先輩たちを乗り越えていく仕掛けが必要だ。そのためには継承することが必要なのである。

入試のメディアは、厳格に運用されなければならない。入試情報とウェブ出願のメディアとして別個に運用されるべきである。センター試験が終了することが決まって、これからAO入試が多角的に分岐していく。そのさいに情報端末でデータベースを活用して小論文を書くといったものも出てくるはずである。そのときに使うセキュアなシステムが必要である。つまり入試のメディアの仕事は「入試広報」だけでなくなるのである。すでにウェブ出願は当たり前のことになっている。次は入試そのものに使用できるメディアが必要になる。その準備はできているだろうか。

事務のメディアは、基本的に厳格に管理されている。問題なのは、情報共有の仕方である。エクセルやワードで文書作成して、それをメールに添付して共有するというやり方は安全ではない。ファイルをアップロードしたりダウンロードしたりする方法はレガシーなものである。転送に転送をされた場合、ファイルの行方がわからなくなる。だれがそのファイルを共有しているのか、改訂したのか、最終ヴァージョンはどれなのか、といったことが誰にもわからない。これは「情報のガバナンスができていない」ということである。職員のシステムは教員の心配することではないと考えられているが、じっさいには教員も膨大な事務作業をおこなっている。教務・入試・自己点検などはセキュアな情報システムが必要になるはずだが、基本的に使えるのは授業用のシステムだけである。

以上の5つのメディアの管理権限は、それぞれのトップが持つべきである。トップが直接管理できないときは、トップ直属のオペレーターが指示通りにおこなえばよい。大学のメディアは5つの理念と活動によってそれぞれ独立かつ自律的に運用されるべきである。混在させたシステムは邪悪になりがちである。なぜ邪悪になるかというと、情報システムとメディアの管理者が、ユーザーと内容に関するヘゲモニーを持つからである。管理者権限は、ふつう人が漠然と想像しているものよりも、はるかに強力である。それはほぼビッグブラザー並である。職位は高くなくても事実上の最高権力をこっそりと行使できる。しかし、それにもかかわらず5つのメディア領域の原理とルールはまるで異なるのである。教育のメディアを広報のメディアの原理で運用されたら、万事ことなかれになるにちがいない。何もできないように設定にするのが無難ということになる。それでは教育のメディアとして機能しない。

現状の管理態勢から5メディア態勢に移行する最もかんたんな方法は「すべてクラウド」にすることである。クラウドでは、暗号化と2段階認証は必須であり、しかも活動のすべてが記録される。日常的な管理は劇的にかんたんになり、コンテンツに集中できるし、サポートする余裕ができる。システムのアップデートはクラウド側でおこなわれるので、こちらは必要ない。ヴァージョン管理も容易である。端末は高性能パソコンである必要はなく、数万円のハードディスクなしのパソコンで可能である。安いパソコンであれば、2年周期ぐらいでリプレイスでき、リスキーな古いパソコンとOSの排除がかんたんになる。クラウドはマルチプラットフォームだから、スマートフォンでも作業ができる。

組織のガバナンスとしては、メディア・プラットフォーム担当理事を置くべきであろう。情報メディアの管理を課レベルに任せるべきではない。みずほ銀行の大規模なシステムトラブルでは、現場のことが上層部に伝わらず見切り発車をしてしまったことが構造的な要因であった。対策としてなされたのは情報システム担当取締役を設置することだった。たんに実務に長けた人ではなく、情報メディアに関する技術・法務・理論・政治に見識のある人とチームを組んで効果的に制御できる態勢を整えることが重要である。

あと重要なのは、5つのメディアごとに編集長をおくことである。内部限定公開であれ一般公開であれ、公開されるコンテンツについて編集長を置くのは常識である。印刷だけでなく、あらゆるメディア・コンテンツには編集者と編集長の役割が必須である。そうでないと、管理権限を担っている部署の専横か、あるいは無政府状態になる。メディア・コンテンツには、見識のあるコントールが必要であることを強調しておきたい。

以上概観したように、大学における情報のガバナンスは明確に切り分ける必要がある。そして、これらの影響を受けて最も萎縮しているが「教育のメディア」なのである。


3.教育のメディアの要件

 教育のメディアとして確保しなければならない要件は安全性である。では、安全とは何か。メディアは何がいいのか。どのように運用するか。教員の資質をどのようにアップデートするか。小さなプロジェクトであったが、確認できたいくつかの論点を列挙しておきたい。

①学生のコンテンツをむやみに公開することはリスキーである。学生は「学びのプロセスにある人」であるから、すでにあるコンテンツに学ぶのは当然のことである。それを授業においてレポートにして提出されたものには、公開にふさわしくないものがある。引用や出典が明確にさせれば解決するから、そう指導するにしても、個人情報を含めて全面公開というわけにはいかない。したがって、一般公開用のブログやサイトでは難しい。

②印刷媒体は有効である。手触りのある本にすると、書類とともに破棄されることなく本棚に残る。授業の経験そのものに価値があるのと同時に、授業の作品化とくに印刷媒体にすることの価値は大きい。ただしワードで作成したA4の簡易製本は残らないし、手に取られない。手渡したその場でのみ見られることで、かろうじて安全であるにすぎない。品質がとても重要である。

③ソリューションとして本プロジェクトで実地検証したのが、クラウドによる編集システムとオンデマンド印刷の組み合わせであった。「トッパン・エディトリアル・ナビ」はクラウド上でページものを編集できる国内ではほとんど唯一のシステムである。縦書きとなると、ここの独擅場ではないかと思う。もともと出版社向けのクラウドサービスであったものの、電子書籍用に使用されることがほとんどで、私たちの『女子経済学入門』が最初の印刷本だったとのことである。現時点では判型が文庫と新書に限定されているのは、そういうものを大量に出す出版社を想定して作られているからである。これをオンデマンド印刷と組み合わせてみたのが本プロジェクトの創案である。

④予算の問題については、あれこれ工夫した。トッパンとしてはエディナビについて大学と契約するのは初めてで、最初は従来の出版社用の見積もりであった。しかし、大学はベストセラーを狙っているわけではないので、それだと割高になってしまう。全学的対応であれば、それでもかなり安く済むが、一研究プロジェクトとしては荷が重い。そこでページ単価で契約することを提案し、研究開発機構もトッパンも合意してもらえた。本プロジェクトは全部で12万ページとして契約した。これだと予定通りに行かなくても、他の本の部数を増やして調整すればいい。授業は「なまもの」なので、予定通りに行くとは限らないから。

⑤コンテンツの配付範囲をコントロールしながら関係者のあいだにコンテンツ共有する仕組みを本プロジェクトでは「メゾメディア」と名づけた。メゾメディアの有力候補がトッパン・エディトリアル・ナビによる編集とオンデマンド印刷の組み合わせであった。では、それだけでいいのか。ネットでメゾメディアはできないのか。と考えて、計画にはなかったネット活用を始めた。それがネットラジオである。これは「渋谷のラジオ」にゼミ生がレギュラー出演していて話を聴いて気づいた。ラジオだと顔が見えない。それだと身内以外にも公開できる。ファイルの流出を防げるサービスを探したところ、Facebookページが最適だと判断して「ノムラゼミラジオ計画」を制作した(https://www.facebook.com/shibuyaeast/)。

本プロジェクトで「授業の作品化」というのは、換言すれば「教育のメディア」に載せるということである。学生の作品を安全に見える化するメリットはさしあたり以下の点にある。

①当該授業受講者が相互に作品を読んで話し合える。

②翌年以降の当該授業受講者の到達目標になる。

③当該授業を受講していない友人・先輩・後輩が参照できる。

④就職活動やインターンシップなど対企業活動で「勉強の成果」として提示できる。

⑤家族が大学での学びについて知るきっかけになる。

⑥総じて大学の学びを蓄積できる。

授業体験とともに作品を残していくという二重の作業を学生がおこなうことは、現代の職業生活のありようにマッチしてことである。タスクを遂行しながら記録を欠かさない。これが習慣として定着することができれば立派なスキルである。


4. 学生が書くということ、その著者は誰か

 「教育のメディア」について本プロジェクトで試行した基本的な考え方のひとつは、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。この点については誤解が生じやすい。というか、事なかれ主義が蔓延していて結局何もしないことになりがちである。

この点については複数の条件がつく。

①信頼できる情報源に到達しているか。

②それなりの分量の情報・知識を収集しているか。

③自分なりの基準をもってセレクトしているか。

④素材から的確な論点を引き出せているか。

⑤チームでの議論に耐えうるかを検証しているか。

⑥自分なりの工夫をして表現しているか。

原稿としては、この6点を満たすのが理想である。企画編集執筆の各段階で何度も確認してきたことだが、本ができたのちに全ページを読んだ上でゼミとして振り返りができればいいと思う。つまり、授業の「成果」であるとともに「プロセス」を表示するドキュメントとして扱えば良いのである。

学部授業において「研究成果」は「編集物」でよいという論点について、背景となる考え方を補足しておこう。

一般に人文社会系の勉強をまとめるさいには次の点が充足していなければならない。

①先行研究をフォローすること。

②オリジナルな論点があること。

③妥当な手続きを取っていること。

④形式的要件を満たすスタイルで表現されていること。

もし学生の作品が一般公開されるとなると、この4点を満たす必要がある。しかし、そうでない場合は①を満たすことが重要である。これを無視できるのは天才かカリスマだけであろう。②さえあれば、他の条件は支持者や追随者によって整備されるからである。こういう人は、それほど世の中にいるものではない。そう、学生にも教員にも。そもそも、天才にしてもカリスマにしても日本の大学制度にはなじまないであろう。

経済やその隣接領域について、学生はほとんど白紙状態で大学に来る。高校の「政治経済」の教科書のうち経済を扱っているのは、わずか百ページである。しかも受験は経済の授業より早く来る。だから経済学部生であっても「政治経済」で受験した経験のあるものはごく少数である。

この領域は年ごとに大きく変化する。たとえば1年生の基礎演習Aでこの春に検索の実習として扱ったテーマは「パナマ文書」である。これは春までだれも知らなかった情報である。その背景には「タックスヘイブン」「オフショア経済」などがある。グローバル経済が直面する「闇の経済、裏の経済」について「パナマ文書」から系統的に説明できる人はまだまだ少ないはずだ。しかし、かれらが就職したとたんに、この種の問題は無関係ではなくなるのである。だからこそ、ニュースの背景にある事柄についての先行研究を読む必要があり、何を重点的にセレクトするかなど、それはそれで重労働なのである。学生は先行研究にキャッチアップできれば十分だと思う。とくに新しいテーマだとアカデミズム的には「また色物」「たんなる趣味」「おたく」「まがいもの」といった視線を浴びるのが常である。私に言わせれば「ラブライブ!」も「パナマ文書」も「欅坂」も「ドラグネット」も問題として同値である。新しいから扱いが難しいのは当然である。学生の側も指導する側もともに猛勉強しないと、たんなる趣味に堕してしまう。とくに指導する教員が「手ぶら」ではいけない。方法論と理論がないと指導はムリである。

新しいどんな現象であっても、まったく新しい現象とは言えない。たいてい新しい表層の下に古い構造や文化を前提にしているものである。最新のSF映画であっても、物語構造としては神話と同型であったりする。「スターウォーズ」とキャンベルの神話学の関係は、それを逆手に取ったものである。学生が興味を持った新しい文化現象には、こうした表層の新しさと深層の古さがある。そこを見分けると、その現象単体では見えない膨大な文化的文脈が見えてくる。そこに注目すれば、そのテーマは豊作である。

私は「パチンコ玉理論」と呼んでいるが「シャボン玉理論」と呼び変えてもいい。パチンコ玉もシャボン玉もその周りのすべての風景を表面に映し出している。だから小さなパチンコ玉であってもシャボン玉であっても、その表層を慎重に見ていけば、それが拠って立つ背景世界を描くことになるのである。もちろん球面という形式にデフォルトされているのだから、そこは補正して見ていけばいい。テーマは狭くても、それを通して世界を俯瞰できるのである。この方法論はどこにでも「転用」できる。学生としてオリジナリティやイノベーションを獲得する最短の道は、このような「転用」である。転用をひとつの評価ポイントにすれば、空疎なオリジナリティ信仰に対しても距離を取る必要があるだろう。


5. 授業の作品化とは何か、あるいは巨人の肩の上で

 以上のような作品に対して、どのような評価をするか。今問われているのは学生ではなく教員サイドの評価基準であろう。

本プロジェクトで私が周囲の抵抗を感じたのは2点である。第1に「学生が書いたものを本にして何がいいの?」というもの。第2に「学生はコピペする」という疑いの眼。前章で述べたように、学生も教員も「巨人の肩の上で」書くのであって、先行研究を参照するのは当然のことである。文化も社会も「模倣」からすべて始まるのであり、模倣されるからこそオリジナルは価値があるのである。この点については、ラウスティアラ&C・スプリグマン(2012=2015)が雄弁に論じている。

学生がグーグルで検索した最初の1ページに出てくるサイトからコピペしてくるのは、与えた課題がおざなりで適切でないからである。この点については近年、研究が進みつつある。たとえば成瀬 (2016) などは注目すべきだと考えるが、本プロジェクトにあたっては、課題を出されて途方に暮れる学生の立場から考える方が近道と判断して、本プロジェクトを進めながら、私は小論文の参考書をありったけ読んで自分なりの工夫を考えた。

①課題を疑問文にして、その意図を明確にすること。

②評価ポイントを明確にしておくこと。

③アプローチの仕方を指定しておくこと。

④それに即してアウトラインを提示しておくこと。

⑤文体についてテンプレートを提示すること。

⑥「私」を主語にして書くことを推奨する。

⑦ありうる邪悪なアプローチを事前に提示して警告すること。

⑧個人的な問い合わせの回路を開いておくこと。現時点ではLINEだと学生は手軽に質問できる。

⑨チェックシートをいったん提出させてから執筆に入るように2段階にすること。

⑩参照すべき書籍・サイト・データベースをあらかじめ指定しておく。

⑪課題を統一しないで、ヴァリエーションを作って学生に選択させ、1人ひとりが個別の課題と向き合うようにする。

一見自明な項目に見えるが、全部をセットにして実行する教員は稀だと思う。⑥とか⑧などは論争的でさえある(してもよい)。あとの項目も手間ひまを要するので敬遠しがちである。しかし、全部をセットすることで学生は一発で完成稿を提出できる。その方が作品化しやすいのである。いちいち教員が原稿に手を入れたら、学生にとって責任を持って書いた「自分の作品」にはならない。通常とは順序を逆転させるのである。

『女子経済学入門』の場合、1年生の基礎演習Bの期末レポートとしてガーリーカルチャーに関する本40冊の中から1人1冊選んでもらって書評を書くことにした。基本的には「紹介文を書きなさい」と指示した。12月18日の年末最後の授業でそれをして1月10日締切にした。その間授業はないのでLINEで相談を受け付けることにした。全員が異なる課題になるので相談は個別指導になる。年末の相談で見本の必要性を感じ、正月に長めの「ガーリー総論」を書いて共有し、その上で個別に指導をした。その結果、クラス全員が締切に間に合い、すぐにエディナビで編集して年明け1回目の授業で校正をしてもらい、その翌週に本を配付した。

『キャッチコピー越しの世界』の場合、ゼミ3年前期のPBLということで企画から発刊まで3ヶ月で実施した。アクティブラーニング形式でチーム単位で進め、ゼミ生25人全員が書いた。

『渋谷において本はいかに扱われているか』の場合は、1年生後期の基礎演習Bの「オクトーバー・プロジェクト」と称して4回分で実地見学のレポートを執筆させた。課題は次のようなものである。

「気がつけば渋谷の本屋さんは多彩です。こだわりもいろいろ。おそらくこれからの本と書店のあり方の未来形は広域渋谷圏にあります。「本はコンテンツ・メディア」「書店は文化メディア」として見てみると、今後さまざまな分野で展開するメディアのスタイルが見えてきます。この授業では「情報デザイン」という観点から、渋谷の書店のメディア・スタイルを考えてみたいと思います。」

このときのテーマは「街の中に情報デザインを読み取る」ことを意図している。まず授業中に渋谷近辺で本のあるところを探してLINEに集約させた。この60前後の対象を全員に振り分けた。1個所あたり2人まではよしとした。最初に「ヒントとアプローチの仕方」に基づいたチェックリストを提出させた。それは以下のようなものである。

①ミクロレベル

 商品

 パッケージ

 ポップ

 ジャンル

 文脈棚

 店内の配置構造

②メゾレベル

 店内の順路・ナビゲーション

 迷路化

 空間メディアとしての演出(BGM、吹き抜け)

 居心地

③マクロレベル

 立地条件

それをチェックしたのちに文体のテンプレートを書いて共有した。それはこういうものである。即興でLINEに書いたので代入個所を顔文字にしていたので一括して□に変換してある。

「まとめの仕方についてヒントを書きます。私を主語にして書く。基礎演習Bで□をやることになった。私は□をやってみようと思った。というのは□だからだ。ほんとは□もやりたかったが、□なのでこっちにした。

まずはともあれ行ってみようと思って、□に行ってみた。ここは□な場所にあって、周りは□だった。すぐそばには□があって□な感じだった。ここでマクロ目線。

迷いつつもなんとかたどり着いた。入口は□な感じで地味ガラス張りオシャレ一見さんお断り、な印象だ。

入ってみると、天井が□で陰気な音楽がかかっていた。ここからメゾレベルの話。店員さん、香り、本棚の配置、□

このショップらしいのが□で、その周りには□が置かれている。そこを中心に本棚を眺めていると、□とか□とか□とかの本があり、どうやら□当たりをクローズアップしているようだ。これはナイス。ぐるっと回ってみたら、□がたくさん積んである。これって□のこと? ミクロ視点のあれこれ。

というわけで、このショップにおいて本はこのように置かれているのだ。ポイントを並べてみよう。

中でも注目すべきだと思ったのは□である。これは他にはないと思う。店主のセンス好みこだわり□が明確に表現されている。

みたいな感じ。」

要するに手順を書いてある。このあと文体はどうにでもなる。いったん書き上げることが重要である。最初から文体に拘泥するのはやめたほうがいい。書店だけではなくブックカフェや展示施設も入っているので、提出されたレポートは多彩である。足を運び、自分事として書いて、人に読んでもらえるのがポイントである。ジェネラルスキルもここから始まる。

『菅井益郎教授の8つの物語』の場合、ゼミ3年生で特別チームを作り、8時間のロングインタビューをしたもの。事前に菅井教授と打ち合わせをして「8つの物語」として整理しておいて臨んだ。それをテキストに起こして、教授にチェックを入れてもらい、本にした。学生によると、この一連の作業はたいへん勉強になったようだ。私は「賢人シリーズ」と呼んでいるが、多様な展開が可能である。

ここで論点をまとめておこう。

①エーコが言うように「作品」とは開かれたものでなければならない。公開されること。

②成果ではなくプロセス。論文ではなくドキュメント。メイキング映像にあたる。

③評価には動態的な理解が必要である。

この3点に関しては4年ゼミの書いた『渋谷物語』の解説に記しておいた。小見出しになっている「原宿ナウマン象」とは、渋谷キャンパスの1つおいた隣にある白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に発掘された骨が展示されている。代々木公園から原宿あたりにはナウマン象が生息していたのである。


原宿ナウマン象のように

「ここにいた」ことを記録する。それをアナログで残す。残像を形にする。教育のプロセスにおいてなされるものごとはすべて未熟であるに決まっている。だから、足跡も痕跡も残さないようにする方が安全だという考えはまちがっている。生きて学んで感じたことをそのつど形にしていくことで、それは共有され、あとから来る人たちに踏み石として活用されれば、十分意味がある。自分たちの足跡も形になれば、それを読んで「ああ、こんな時期もあったね」と感じることで吹っ切って、自然に次のステップに進めるものである。国学院大学におけるそうした痕跡の集積が「渋谷物語」という群像劇を形成していくことになるのではないか。百年続くといいね。本書はその第一歩である。原宿ナウマン象の新しい第一歩である。


私は本プロジェクトに並行して、これを推薦系特選系入試に導入した。大学や学部にとって最大のメッセージは入試問題である。推薦系特選系の場合、従来は面接中心であったが、面接こそテンプレ依存になっていて、しかも面接者しか評価できず、あとで確認ができない。だから小論文に転換しようと提案したさいに、この方式を取り入れた。詳しくは、國學院大學経済学部入試委員会編「平成30年度入試 國學院大學経済学部 課題レポート テーマと解説」という小冊子を参照してほしい。

なお、評価方法の問題については紙幅の関係で別稿を期したい。かんたんに論点を示しておく。

巨人の肩の上で書かれたものをどう評価すべきか。とくにアクティブラーニングを導入すると評価がやっかいである。ルーブリックなどさまざまな工夫がされているが、これまで述べてきたような「授業の作品化」に徹すると、比較的容易になる。ただし、ここで改めて「作品」にどのようなものがありうるかを考えなくてはならない。

サスキー(2009=2015: 160)には「エッセイ、学期末レポート、リサーチレポートを超えたアサインメントの例」として42の形式が列挙されている。これらの中にはパンフレットや物語やビデオまたは音声録音が含まれている。多様な「授業の作品化」スタイルがあるということである。

そのさい評価する側が心得ておかなければならないことは質的研究に関するものである。フリック(2007=2011)が雄弁に論じているように、質的研究の評価はとても難しいし、なにより多様である。そのためいわゆるサイエンスウォーズのようなことが生じるし、論文審査においても物議を醸し出すことになる。このあたりは学生のレポートから博士論文や査読審査に一貫して見られる問題である。

学生の場合には「作品」として位置づけること、その作品は完成品ではなく学びのドキュメントであるということ、それゆえ作品のシークエンス自体をタイムラインで評価することが重要である。


6. 教育のメディアと大学の未来

 授業のありようも根本的な転換と変換が必要になっている。授業の管理強化だけが質保証ではない。私自身が自覚的におこなおうとしているものだけでも、以下のような転換があり、これらについて集中的に議論すべき段階に来ている。

①相互作用のプロセスとして教育を考える(認知科学的変換)

②講義から学習へ(視点の変換)

③オーケストラ型からコンボ型へ(規模の変換)

④パッケージからライブへ(様式の変換)

⑤シナリオ上演から即興演奏へ(計画性の変換)

⑥聴衆から表現者へ(学生像の変換)

こうした潮流にあって、それらを系統的におこなうには「教育のメディア」を自覚的に整備することが重要である。タブレットを与えればオーライといった安直なメディア仕掛けが横行する現代、理論と実践のクロスロードがどこにあるのかを見定める必要がある。おそらく、それは「大学が社会を変える新しいルートの探索」につながるはずである。


参考文献

Flick, Uwe(2009=2011)An Introduction to Qualitative Research, Sage. (ウヴェ・フリック『新版 質的研究入門:〈人間の科学〉のための方法論』小田博志監訳, 春秋社).

成瀬尚志(2016)『学生を思考にいざなうレポート課題』ひつじ書房.  

Raustiala, Kal & Christopher Springman(2012=2015)The Knockoff Economy: How Imitation Sparks Innovation, Oxford University Press. (K・ラウスティアラ&C・スプリグマン『パクリ経済:コピーはイノベーションを刺激する』みすず書房).

Suskie, Linda(2009=2015)Assessing Student Learning: a common sense guide, 2nd ed., Johon Wiley & Sons. (リンダ・サスキー『学生の学びを測る:アセスメント・ガイドブック』玉川大学出版部).

 

At the Crossroad of the Educational and Teaching Works of Media: 

A theoretical meaning and practical solutions

授業の作品化と教育のメディア

理論的意味と実践的解決のクロスロードで

Nomura Kazuo

Kokugakuin University Faculty of Economics

Abstract

Book paper was adopted to "special education 2016, all pieces of the cloud by: study of utilizing the meso media" in findings based on "media education" requirements to study in General. On top of that to discuss the significance of the work of the lessons and issues. In that it is not a basic idea is student's work is not necessarily "creations" may not be of a rather nice in the "edit product". Learn through imitation on the shoulders of giants. To share the records document as its footprint. Media instead of ending on the spot, they accumulate in the University should be.


Keywords: Works of media production, College media, educational media, works of class, cloud


本稿は平成28年度「特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」で得られた知見をもとに「大学教育のメディア」の要件について総論的に考察をする。その上で「授業の作品化」の意義と問題について議論する。基本的な考え方は、学生の作品は必ずしも「創作物」でなくてもいいのではないか、むしろ「編集物」でいいのではないかということである。巨人の肩の上で模倣を繰り返しながら学ぶ。その足跡をドキュメントとして記録して共有する。その場で終わるのでなく、それらを蓄積するメディアが大学には必要である。

キーワード:メディア制作、大学のメディア、教育のメディア、授業の作品化、クラウド


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。